10 「うん、かわいい」
「大事な話?」
妙に鼻にかかった、高めの声。どこか幼さの残る声だった。
「そりゃあ、あれの正体がなんであるか確かめに行くためさ。そして、偉大なる物理学者の理論が宇宙でも通用することを、身をもって証明する人間になるのさ」
飄然として答えたお兄さん。
年はわからないけど、すごく大人に見えた。だってわたしは、座っている彼の、膝くらいの背丈しかないのだから。
「なに、それ?」
無邪気に見上げるわたし。
「俺を突き動かしてる最も根源的な衝動だ」
「うーん」
「イリーナにはまだ、難しかったかな」
そういって、彼はわたしの脇の下に手を差し込むと、軽々と持ち上げられる。
そして、膝の上に置いて、髪を優しく撫でてくれる。
匂いも顔も思い出せないのに、不思議と安心できるひとだったことを、イリーナは思い出した。
「イリーナ風にいうなら、そうだな。この間の本を覚えているかい? ネズミが空を飛ぶ話」
「モジャイスキー!」
元気よく答えるわたし。絵本の名前であり、主人公であるネズミの名前、モジャイスキー。
彼はなにをしたんだっけ。
史実のモジャイスキーは帝政ルーシー時代の将校で、この国で初めて空を飛んだのは、ライト兄弟でもリリエンタールでもなく、モジャイスキーということになっている。
実態は三十メートルほど堕ちただけ。
そんな、子ども時代には知り得ないうんちくを、なぜかわたしは知っていて、だからここが夢の中だとわかった。
「そうそう、モジャンスキー」
お兄さんはわたしの頭を撫でながら、間違ったことをいう。
お兄さんの間違いを見つけたわたしは、喜んで誤謬を指摘する。
「ちがうの。モジャイスキー」
「うん。そのモジャなんとかというネズミは、みんなの前で、言ってただろう」
なんて言っていたっけ。わたしはさっぱり思い出せなかった。けれど、夢のわたしは、元気よくいった。
「月がチーズでないことを証明しようと思う」
「そう、それだ。俺は、モジャモジャネズミと同じことをしようと思うのさ」
奇妙なことになったぞ、というのがイリーナの偽らざる気持ちである。
だから、奇妙な夢を見ることになるのである。
それもこれも、ヴェルナー少佐なる人間が現れてしまったからだ。
彼は、イリーナの常識を粉微塵にし、ひょっとしなくても、彼女の根本となるべき部分に、はっきりと触れていた。
いや、イリーナの主観では、握りしめられていた。
だから、イリーナは、ヴェルナー少佐の実態を調査する必要を強く感じたのである。
幸いなことに、彼女には、時間だけたっぷりあった。ヴェルナー少佐は、本当に秘書としてイリーナを使ったからである。
少佐を観察してわかったことは、およそ三つある。
ひとつ目の気づき。
ヴェルナー少佐は、ものの食べ方が汚い。
びしゃびしゃと音を立てながら、食器に覆いかぶさるように、一息で食べてしまう。
パンだって、ひと噛みかふた噛みくらいで、飲み込んでしまうのである。
だから、びっくりするくらいに、はやい。
食器もぴかぴかになっていて、どのくらい綺麗になっているかというと、食堂のおばちゃんにびっくりされるくらいである。
「ずいぶん綺麗に食べるんですね」
何度か食事を共にしたあと、思い切って尋ねてみた。
言葉に皮肉が混じっていたのか、純粋な質問だったのかはイリーナ自身、わかっていない。
「そうだね。我慢できなくて」
「匂いとか目で味わうとか、出来ないんですか?」
そう聞いても、ヴェルナー少佐は、曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
ちなみに、この国に来てしばらく収容所暮らしだったらしいと聞いて、納得する。彼も彼なりに苦労しているらしい。
もっとも、不幸など何処にでも転がっているのだと、イリーナは薄く笑う。
ふたつ目の気づき。
ヴェルナー少佐は、信じられないくらいにお人よしである。
ヴェルナーは一週間のうち、まるまる一日を、人々の相談に費やすのである。
この街は、廃工場跡を接収して獲得したらしいこの街には、まず、エリア68とかいう無骨な名前しかない点が、足りていない。
名前だけなら笑い話ですむのだが、実際問題として、ありとあらゆるものが足りていなかった。
構想ありきで住む側の都合を考えていないサ連らしい工事の結果、無駄に片道三車線分の幅がとられて往来をさえぎる車道があったり、外側だけ完成しているが内装も防寒設備もなく水道も引かれていない灰色のマンションがある。
かと思えば、街のかたわらには、地元の人たちが細々と過ごしていたりする。
完全に秘密基地にするのであれば、荒野か森を切り開くかするのが正しい選択だろうに、中途半端な事をする。
きっと、五ケ年計画の予算範囲内で着手できる、ぎりぎりのところだったのだろう。
それでなにが問題かといえば、住居が整っていないところに、次々に人が送り込まれてくることである。
だから、ヴェルナーはわざわざ、毎週木曜日を相談受け付け日として、一日を確保し、費やしたのである。
木曜日は研究開発の手を休め、朝から晩まで、他人の悩み事に付き合い、手を差し伸べるのである。
悩みは種々多様で、衣料品が欲しいとか娯楽施設を準備して欲しいとかくだらないことから、子どもの病気になったときの救急手段を確保してほしい、というものまである。
今日なんか、男やもめと女の子の組み合わせである。
二人とも、黒い服は、実用一点張り。
父親がお洒落という感覚を持ち合わせていないのは明らかだった。
男がみすぼらしいのは勝手だけど、女の子に華がないのはいただけない。父親がヴェルナーと別室で話をつけている間に、髪をすいてあげて、リボンでひとまとめしてあげる。
「うん、かわいい」
「ありがと、おねえちゃん」
「お父さんがボサボサの頭のときは、やってあげなさい。きっと泣いて喜ぶから」
「うん」
そんなやりとりが、一日中続くのだ。
一日の訪問者数は、平均で三十人にも及んだ。
医薬品が足りていないのが、一番多い相談で、その次が住居の斡旋だった。
たしかに、そんな業務が必要であることは、イリーナにも理解できる。
だが、ヴェルナー少佐の命じられた業務は、ロケット開発である。
その遂行が遅れるのであれば、秘書としては看過できない。
「それは、少佐の仕事ではないでしょう」
早急な改善をすべきだと、イリーナは進言する。
すると、ヴェルナー少佐は、驚いたように目を瞬かせて、それから関心したようにいう。
「みんな、おんなじことをいうんだなあ」




