68 「夢を見るのは、これからでしょう?」
「ねえ、ヴェルナー。少しおしゃべりにつきあって。わたし、いま無性に話したい気分なのよ」
移動式発射台まで歩いてむかう、数百メートルの道のりのなか、ヤスミンカは甘えた声でいう。
遺言の代わりだろうか、という考えを振り払い、青年はつとめて明るい声で答えた。
「もちろんだとも。あまり悠長な時間はないかもしれないけれど」
「出生の秘密って話をしたこと、覚えてる?」
「ずいぶんと唐突だね」
「あたしには、本当に出生の秘密があるのよ」
本当に別れ際の置き土産らしいと察したヴェルナーは、わずかに怒気をはらんだ口調でいう。
「今生の別れのつもりか、自暴自棄なのかはわからないけれど。
ヤースナ。君は僕をみくびりすぎだ。
君は死なない。
ロケットは成層圏に寄り道したあと、ちゃんと君を連合国側に送り届ける手筈になっているし、僕たちはその成功をもって、サ連に亡命するんだ。
僕たちは、後ろ向きに逃げるんじゃなく、明日を勝ち取るために、ロケットを打ち上げるんだ」
「ただ聞いてほしいだけ、といったら?」
ヴェルナーはしばし思案してから、慎重に言葉を選んでいった。
「ヤースナ。やっぱりその話は、今度ゆっくり聞かせてもらうことにするよ。
君がどこの誰の子どもかわからない貧民街の恵まれない女の子でも、ロシア随一の酒飲みの父親をもったプロイセンの貴族であっても、はたまた総統閣下の落とし種であったとしても、僕にとって、ヤースナは、やっぱりヤースナなんだよ。
いまは、それじゃ駄目かな」
ヤスミンカはにっこりと笑った。
「それも、悪くないわね。じゃあヴェルナー、あなたにとって、わたしはどんな女の子なのかしら」
よりややこしい問題に足を突っ込んだかな、とヴェルナーは胸の中で嘆きつつ、ヴェルナーは言葉を探した。
「そうだね。急に服を脱ぎ出すお嬢さんだったね。出会ったばかりのころは」
かつてのヤスミンカだったら、怒って手でも振り上げただろう。
けれど、ヴェルナーの横でゆっくりと歩くいまのヤスミンカは、ごろごろと喉の奥で笑いながら、続きをうながした。
「いまは?」
「ちゃんといまは淑女然としてる、魅力たっぷりな女の子にみえるよ」
「そうでしょうとも。喉もとから足先までびっしり耐熱材で包まれていますものね」
ヤスミンカは、急ごしらえの宇宙服を揶揄していった。
急ごしらえではあっても、基礎技術はヤスミンカ自身が見つけてきた、最高のものである。
ベースとなったのは、ペーネミュンデの変態集団が国の威信を掛けて開発した、溶ける水着だった。
気化する特性を使って、火炎から守る仕組みであり、かつ、弾力のある素材がパイロットを衝撃から保護する実力を持っていた。
極限環境下での着用を想定することを想定されて開発された、人類史上最高の防護服。
もともと、パイロットの安全の為に開発されたものである。
技術の流出を抑えるために水着という表現を用いざるをえなかった、というのが溶ける水着の裏事情だったのである。
でも、残念ながら、十全な性能を備えようとすると異様に分厚くなるため、控えめに言って、おしゃれではない。
「それが精一杯だったんだよ」
「でも、人類初の宇宙飛行士が着るにしては、かわいくない」
ヤースナが拗ねるようにいう。ヴェルナーは非常に申し訳なさそうにいう。
「でもまあ、敗者の業績が歴史に残るかどうかは微妙なところだよ」
「構わないわ。公式の記録で、わたしかあなたか、どっちが先に人を宇宙へ連れて行くか競争できるんだもの。
わたしの次に地球生まれで宇宙に行ける幸運な生き物は、犬か猿が妥当でしょう。だから、これは単に、気分の問題」
次はかわいい服を期待しているわ、とヤスミンカは笑った。
愛国心はともかく、勇気とか謙虚さとかいった点が十分でない限り、歴史の教科書に載ることはないだろうと、ヴェルナーは密かに思っている。
目的地までは、たった五分ほどだった。
ヴェルナーのこれまでの生涯のなかで、この五分ほど、長く、迷ったことはない。
期待と不安とがないまぜで、気を抜くを息が乱れてしまいそうだった。
ロケットが発射台に乗せられている。
切っ先は、雲一つない、青空へ向けられている。
人ひとりを優に打ち上げる力を内包し、咆哮とともに上昇する時を、いまや遅しと待っていた。
弾頭の代わりに備え付けられたキャビンには、大人が屈んで、ぎりぎり通れるだけの小さな入り口と、わずか十センチに満たない小窓がつけられている。
そして、有事の際に、キャビンごと吹き飛ばす、ヤスミンカの設計した緊急脱出のメカニズムと、パラシュートによる軟着陸が、彼女を無事に地表に送り届ける、はずである。
このキャビンが実装できたのは、ヤスミンカの発想の転換にあった。
乗組員の意思を全く反映しない形で、飛行するのである。
乗組員に許されたボタンは、たった二つ。
ひとつは、打ち上げ中止を告げるものであり、もうひとつは、キャビンを文字通り吹き飛して脱出するためのもの。
つまり、はじめから操縦させるつもりはないのである。
ヴェルナーを助けにいった折に搭乗した戦闘機の、ボタンひとつない座席から得た着想であった。
「わたしが生涯をかけて待ち望んでいた、最高の時間のはじまりね」
理屈の上では、脱出装置が働けば、パイロットは無事に帰り着くことができる。
だが、それはあくまでも理屈でしかない。
机上の式展開が完全に正しいならば、自分たちの設計したロケットが、爆発四散することはないはずなのだ。
だが、現実の成功率は、一○○パーセントに遠く及ばない。
この間も、一機炎上している。
だというのに、当の本人は、ピクニックに行くような軽い口調でいってのける。
タラップを登り、ヤスミンカが苦労して入る。
ヴェルナーの手で、彼女は座席に固定される。
通信機の感度とスイッチの位置を再度確認する。
「さあ、お嬢さま。そろそろ、宇宙飛行士になるお時間です」
ヴェルナーがおどけた風を装っていう。
実際のところ、彼は、不安を表に出さないだけで精一杯である。
ひょっとしたら、いまこの瞬間にだって、中止を宣言した方がいんじゃないだろうか。
「そうね。名残惜しいけれど。しばしのお別れよあと」
ヤスミンカは不敵に笑う。
その表情は、かつてみたことがある。
はじめて基地をたずねてきたときの、自信たっぷりに、腰に手を当てて大口をたたいた、ヤスミンカだった。
「そうだね。気分はどう?」
「最高よ。頼まれたって代わってやるもんですか」
「ねえ、ヴェルナー」
「なんだい」
「名前を呼んで」
ヴェルナーは、驚いてヤスミンカを見やった。
ためらいも、逡巡も、その他後ろ向きな感情の一切を持ち合わせていないように見えたヤスミンカが、ぽつりと漏らした小さな声。
ヴェルナーと視線が交差した瞬間、ヤスミンカはしまったというように視線をそらした。
その仕草で、ヴェルナーは、彼女の言葉を思い出した。
あのときだって、すっごく緊張したんだから。
あのときというのは、自分とヤスミンカとのはじめての邂逅のときである。
つまり、自信たっぷりに、腰に手を当てて大口をたたくときの彼女は、不安でいっぱいなのである。
つまり、いま、この瞬間のように。
その事実に気づいた途端、ヴェルナーの中に、何かがすとんと落ちてきた。
その何かは、ヴェルナーの不安な感情をぴたりと抑え、代わりに、いたわりと慈しみに満ちていく。
「ヤースナ」
ヴェルナーは静かに少女の名を呼んだ。
「もっと、気持ちを込めて」
「ヤースナ」
力強く、勇気づけるように、彼女の名を口にする。
「だめ、全然たりない」
ヴェルナーは、彼女と過ごした日々を思い出しながら、少女の名を口にする。
「ヤースナ、ヤースナ、ヤースナ!」
「ありがとう。ヴェルナー。わたし、ちゃんと愛されてるわね」
「もちろんだとも」
力強く断言して、彼はハッチを閉じようとする。
ヤスミンカの満面の笑みを心に刻みながら。
はやく彼女に別れを告げて、発射の指示を出すべきであることはわかっていた。
けれども、どういうわけか、馴染み深い少女の顔から、視線を離すことができなかった。
これまで歩んできたものは、全て夢かまぼろしで、少しよそ見をするだけで、思い出せなくなってしまいそうな。
そんな不条理が、ヴェルナーの胸を支配する。
「ヤースナ」
気がついたら、もう一度、彼女の名前を呼んでいた。
「なに?」
取り立てて、何かを言うつもりはなかった。
「ありがとう」
「なにが?」
わからない。けれど、気がついたら、ありがとう、という言葉がこぼれでていた。
形にしてから、それがすごく正しいことのような気がした。
そして、理由を付け加えるなら、と今度は意思を持って言葉に落とし込む。
「夢を見せてくれて」
たとえ今日で終わってしまうとしても。
彼女と過ごした日々は、ヴェルナーにとっての、最高の夢だった。
その想いを、どうしても言葉にしておかないと、気が済まなかった。
ヤスミンカは、目を瞬かせた。
そしてすぐ、ないしょ話があるから顔を寄せるように、という。
なにか言いたいことがあるらしい。
ヴェルナーが耳を寄せると、悪戯っぽい口調で、彼女はいった。
「夢を見るのは、これからでしょう?」
この世界のオーパーツ。
ヤスミンカと、溶ける水着。




