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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第一章 ヤスミンカ・べオラヴィッチ
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27 「本気でわからないのかい?」

 河沿いのレンガを敷いた道を、ヴェルナーはヤスミンカの手を引いて歩いた。

 ヤスミンカは、ヴェルナーからもらった上着を身体にまきつけ、いろんなものから隠れるように前側を強く引いた。


 街のいろんな物音は、昼間よりいっそうくっきりと響き渡っている。

 怪しいネオンが、夜道を怪しく照らす。

 二人の前を、膝丈よりも短いスカートの女性が、木製のヒールをからんからんと音をたてて横切っていく。

 酒瓶を片手に服の乱れた男たちが、なにが楽しいのか大声で笑いあっていた。

 道の脇では、大麻をふかした婆さんが、ヴェルナーらが通り過ぎるとけたけたと笑った。

 若い男の二人組が、ヴェルナーとヤスミンカを見てはやし立てた。

 ぎぃ、というガラス戸のきしむ音も聴こえた。

 ヤスミンカは肩を震わせ、ヴェルナーの袖を強くひく。

 そのたびに、ヴェルナーは庇うように、黙って彼女を引き寄せて進んだ。


 突き当たりを左に曲がり、しばらく進んだ二本目の角をさらに左に折れる。しゃれた色合いの街道はおちついた雰囲気にかわり、歓楽街特有の喧騒が冗談だったかのように、静かな夜のとばりに移りかわっていった。


 喧騒が離れていくにつれ、ヤスミンカの身体のこわばりがとけてきているのを感じたヴェルナーは、ひそかに胸をなでおろした。


 ヤスミンカはずっとうつむいた。叱られるのを待っている子どものようだった。


 なにか声をかけなければ、とヴェルナーは思う。

 けれど、泣きはらしたあとのヤスミンカに、なにを言えばいいのだろうか。

 結局、ヴェルナーは自分の想いを正直に口にするしかないと結論づけた。


「本当は、どうやって叱ろうか、ずっと考えていたんだけどね」


 ヴェルナーはぽつりといった。


「無事な君の顔をみたら、なにもかも、どうでもよくなっちゃったんだ」


 ヤスミンカの歩みがとまった。ヴェルナーも合わせてとまり、傍らの女の子をみおろした。

 彼女は、泣きはらして真っ赤になった目で、ヴェルナーを見上げた。


「どうして、責めてくれないの?」


「責めてほしいのかい」


 ヤスミンカは首をふった。


「わからない」


 それが、彼女の正直な気持ちなのだろう。

 心まで凍りそうなほどの寂しさのなかで、必死に孤独と闘っているようにおもわれた。

 いまのヤスミンカになら、ちゃんと言葉が届くかもしれない。ヴェルナーは言葉を選んで告げる。


「僕はね、正直なところをいえば、僕はがっかりしたんだ。君がいなくなったとき、本当にがっかりした」


 ヤスミンカはいよいよ、見ていられないほどに小さくなっていく。


「君にじゃないよ、僕に、だ」


 ヤスミンカは肩を震わせた。彼女の心を表現しているような痛々しい震え方だった。ヴェルナーはゆっくりと続けた。


「僕はなんで、君をわかってあげられなかったんだろうって。僕はそんなにも、頼りにならない男にみえたのかなって。

 たしかに僕は、君ほど数理に秀でてはいないし、海外の大学院で一分野を修めたりはしていないし、燃焼だとか弾道軌道だとかにも明るくない。


 だけど、決して短くない時間を過ごしていたはずなんだ。

 お互いに、相手がどういう人間であるかわかるくらいには、同じ時間を過ごしていたはずなんだ。

 僕たちは、同じ夢を目指す仲間として、ともに高めあう時間を過ごしていたはずなんだ。

 

 だから、それらが全部、僕の勘違いにすぎなくて、僕は、君の仲間にはなれなかったみたいだとわかったとき、僕は、本当にがっかりした。

 なんでだろう。どうしてだろう。どこがいけなかったのかな。そんな疑問と後悔ばかりが、次からつぎに湧き上がったんだ」


 ヤスミンカが顔をあげた。


「あなたが悪いんじゃないわ。わたしが悪いのよ」


 そして彼女は、己の罪を告白するような、真剣な顔でいった。


「わたしはあなたが考えているような天才じゃないの。

 四つか五つのころ、わたしが偏微分の不安定解に関して尋ねたら、みんながわたしを天才と呼ぶようになったの。ただ、それだけのことなの。


 信じられないくらいほめられて、ちやほやされて、わたしは得意になったし、張り切っていろいろやったわ。

 あっというまに偉い人が来て、気がついたらモスコーにいたわ。そこでもみんな、口をそろえていったのよ。

 この子は天才だ、特別だ。この子は僕たちより頭がいいんだ。いまに、誰も気づかなかった世紀の発見をして、非の打ちどころのない論文を書くだろうって。


 でも、本当に素晴らしい発見なんてなかったし、素晴らしい論文を書くだなんてことは、まったくもって起こりえなかった。

 極々平凡な学生がお茶を濁したような、体裁を整えただけだったのよ。


 そりゃ、そうよ。

 わたしは、本をたくさん読む種類の天才ではなく、気に入った本を何度も読み返す早熟の女の子にすぎないんですもの」


 ヤスミンカはいびつな笑みを浮かべてみせた。


「世紀の発明なんてもの、わたしみたいな早熟なだけの女の子に、生み出せるわけがないわ。

 他の誰とも違う発想ができることに理由をつけるとしたら、時代の洗礼を受けていない本に触れる時間がながかっただけ。それだけなのよ。

 だからわたしは、航空機を一台組み上げたあたりで、全部がぜんぶ、馬鹿馬鹿しくなってきちゃって。


 もう、できませんっていったのよ。


 もう無理です。向いていないものを努力するのは、こりごりですって。

 そうしたら、みんないなくなっちゃった。

 あのときわたし、学んだのよ。みんな、天才のわたしが欲しかったんだって」


 彼女は言葉を切った。

 だんだん、早口になっていく。

 今日あったことと過去に経験したことの全てが、ここにきて一気に爆発した感じだった。


「自分になにかをもたらしてくれるかもしれないから。

 メリットがあるかもしれないから。

 わかりやすい利害しか、ひとは私に求めていない。

 だからわたしは、決めたのよ。

 新しい事を始めるときは、努めて天才らしく演じるようにしようって。利害関係でがちがちに固めてしまおうって」


 ヤスミンカという女の子は、とてもいびつな女の子だった。

 ヴェルナーはやっと、彼女のいびつさに気づくことができた。


 十に満たない年齢で、自分の生き方を決めてしまっていたのだ。

 自分でどうするか決めていて、だから、楽に行動できるのだ。

 余人にはおよそ決断できない、乱暴に見える行為もただの選択肢に過ぎず、夢に忠実だったのだと。

 だから、いなくなる直前にも、あんなに元気でにこにこしていたのだ。


 彼女は、行き着くところまでいくのだ。

 止まるところを知らないのだ。

 なぜならヤスミンカという女の子の住む世界は、とても理路整然としていて、説明のつかないことなど、ひとつもないのだから。

 普通は、そんなふうには割り切れない。人間には感情があるのだから。だけど、彼女には、それを学ぶ時間が与えられなかったのだ。


 他の子どもたちがそれを肌で学んでいるとき、彼女はすでに、人類が作り出した合理性だけで形作られた形而上の世界、数学という学問の世界に、放り込まれてしまったのだ。

 だから、ひととしての歪みに耐えきれなくなったとき、彼女は全てを捨ててしまいたくなったのだろう。本来であれば、守ってあげなくちゃいけないはずの、ただの女の子だったのに。

 ヤスミンカはほとんど悲鳴のようにいった。同情はごめんだとでもいうように。


「わかっている?

 あなたとわたしは、いまのいままで、利害関係でしか結ばれていなかったのよ?

 わたしがどこまでも貢献して、ぐうの音もでないくらいにわたしがやり込んで、わたしの価値を認めさせればいいって。

 だから、はったりにおもちゃのロケットを作ってみせたし、無理やり手配した水素で工房だって吹き飛ばしてやったし、大金を積んで水冷式エンジンを組んでみせた。


 わかってるの?

 わたしの構想設計が悪かったのよ。わたしの思慮が足りなかったから、無駄な努力をしたのよ。無為に時間を消費したのよ。一生のうちに数回しかない貴重な夏を、まるまる使ってしまったのよ。


 なのに、どうしてなのよ。

 なんなのよ、あなたは。

 訳がわからないのよ。ここまでいっているのに、どうしてあなたは、わたしをそんなふうにみるのよ」


 ヤスミンカは、震える声を荒げていった。

 彼女は、びっくりするほど誇り高い精神を持ち合わせていると同時に、どうしようもなく、女の子だった。

 年端もいかぬ、女の子だった。


 まもってやらねばならぬという感情が、ヴェルナーに自然と、膝をつかせた。

 彼女の肩に手を置き、彼女の透き通った目をみつめた。

 拒絶されるかもしれないと怯える、彼女の瞳の奥をみつめた。


「本気でわからないのかい?」

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