68 「わたしは――」
ヴェルナーは、ほとんど引きずられるように、連行されていく。
すべてが、どうでもよいという心境だった。
自分の夢を叶えられなかったばかりか、自分のせいで、ひとひとりの命を失ってしまったのだ。
それが、よく知る人物で、しかも、大切なひとで、それで……。
連行先は、ヘリポートだった。
前後に二箇所、上昇用のプロペラがついている、サ連では見かけない、高速移送式の機体が用意されていた。
それは、合衆国で配備されているはずの機体。
「きたね」
ヘリの側で、ふんぞりかえっている人影がいた。
その人影は、まるでヴェルナーのことを既知の友人かなにかのように親しげに、声をかけてくる。
「あの、どこかで」
ヴェルナーは記憶の糸を辿り一応の答えを得たが、確信の持てないまま尋ねる。
「食堂の、おばちゃん?」
「トトノ商会のおばちゃんでもありました、と」
おばちゃんは、がははと笑う。
「お客さまからのご依頼があれば、地の果てまでがモットーだからね、わが商会は。
もっとも、あんた絡みの仕事は、すごく迷ったのだけれど。
なんたって、ドクツ時代のあんたには、お世話になったからねえ。うちの下請けをいじめてくれちゃってからに」
ヴェルナーは、力なく笑う。
まさか、トトノ商会の人間が、こんな近くにいるとは想像だにしていなかった。
いろいろなことが繋がってくる。
大佐が、これ以上ないほど上手く資本主義体制を敷いて高付加価値工場群を建設したこと。
異様に西側の技術に精通して、国家機密であるはずのFRPを手に入れてしまったこと。
そして、失敗の責任を全て押し付ける対象が、自分でなければならなかったことについても。
「聴き耳を立てられているとは思っていましたが」
「サ連さんの国家安全委員会のおかげで、ずいぶん楽をさせてもらったねえ」
いい隠れ蓑になってくれた、と食堂のおばちゃんは笑う。
「そう、ですか」
いまはそっとして置いて欲しい。
ヴェルナーは、己の気力をかきあつめて返答しているのだということを、察して欲しかった。
「おやおや、つれないね。賭けは、どうやらあんたの勝ちだっていうのに」
そういって、ヴェルナーの背中をばんばんと叩く。
彼は、そのまま倒れ込みたい気分だった。
トトノ商会のおばちゃんは、ガラリとヘリの扉を開く。
ヴェルナーは同乗者を見て、鋭く息を呑んで、固まった。
暖かそうな防寒服に身を包んだ女の子が、ちょこんと腰掛けていたからである。
女の子は、ほんのすこしだけ居心地悪そうな表情を浮かべながらいった。
「気が変わったんです」
女の子は、おずおずと立ち上がる。
ヴェルナーは、なんの言葉も発せないまま、ただただ、目を見開いていた。
目の前のことが、あまりにも信じられなかったから。
女の子は、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「その、急いで死ぬこともないな、と思いまして。乗るのは、次でもいいかな、と。
せっかく、武器をもらったばかりなんですから」
ヴェルナーは、まるで夢遊病の患者のようにふらつきながら、女の子に歩み寄る。
次の瞬間には、抱きしめていた。
「君は、なんで自分の命なんかで、僕を試すんだ!」
叫ぶようにいった。魂の叫びだった。
今まで感じたことのなくらい熱い涙が、両眼からこぼれ落ちる。
先ほどとは違い、今度はいつまでも感じていたい安堵の気持ちが、共に湧き上がってくる。
ヴェルナーは、有無を言わせず、彼女を強く抱きしめた。
「苦しい、です」
「うるさい」
より強く抱きしめる。彼女の存在を確かめるために。
手の中の彼女の温もり。
外は染みるように寒いのに、彼女はこんなにも暖かい。
確かに、生きている。
だから、ヴェルナーは抱く。
強く、強く、痛いくらいに。逃さないように。
もぞもぞと動いていた彼女は、やがて動くことをやめ、力なくもたれかかる。
「ごめんなさい。悪戯がすぎました」
女の子が気遣うように、ヴェルナーの頬をなでた。
彼女からは、暖かく、ミルクの香りがする。永遠に失ってしまったと恐怖していた、優しい香り。かつて、自分を助けてくれた恩人の香りだった。
ヴェルナーは、黙って涙した。
女の子は、彼の感情を、しっかりと受け止め続けている。
そこにあったのは、将来を悲観する女の子ではなかった。
自分の足で立ち、誰に流されることもなく、自分で自らの運命を選択するだけの胆力を持った、魅力的な女性だった。
その事実を認識したヴェルナーは、まもなく、先送りにしていたもうひとつの問題についても、解決すべき時であると気づいた。
もう、先延ばしにして、彼女を傷つけるのも、煮え切らない自分に後悔することも、終わりにする時だった。
ヴェルナーは目元を拭うと、そっと腕の力を抜き、彼女の顎に優しく触れ、ゆっくりと上向かせる。
「イリーナ」
「はい」
「僕は、君の気持ちに応えることはできない」
「いま、それを言いますか」
イリーナはぎこちなく笑う。しょうがないひとですね、というように。
「僕は、君を幸せにはできない」
「わかってます」
「それでも、一緒に来るかい」
「さあ、どうでしょう」
イリーナは、先ほどと同じように、ヴェルナーの身体に鼻先を押し付け、それから小声でささやいた。
「兄さんに抱きしめられたままだと、感情に流されるみたいで答えられません」
ヴェルナーが手の力を緩めたのを見計らって、彼女は腕を抜け出すと、ヴェルナーを真正面から向かい合った。
「兄さんはずるいです。そんなに目を真っ赤にされたら、恨み言のひとつも言えないじゃないですか」
――すまない。
そう言おうとするヴェルナーの口元に、彼女は指を突きつけて止める。
そして、両の腕を胸元で結び、深く息を吐いていう。
「もう一度、言ってください」
「イリーナ。僕は君を幸せに」
「そこじゃないです」
イリーナはあきれたように、そして少し悔しそうに頬を赤らめる。
「僕と、一緒に来るかい?」
ヴェルナーが右手を差し出した。
イリーナは、差し出された手のひらをみつめ、背筋の伸びた凛とした姿勢で、ヴェルナーを見つめた。
そして決断する。
「わたしは――」
「大佐も、お人が悪い」
副官が、からかうような口調でいった。
「あら。わたし、本当に怒ってるのよ。口ではともかく、彼の人命軽視の姿勢には。彼は一度ならず二度までも同じ間違いを犯したわ。大人としては、間違いを正す義務がある」
大佐は紫煙を吐き出しながらいう。管制室は、ヴェルナーを連行した時の緊張は煙草の紫煙のように霧散し、いまや緩い空気に包まれていた。
「亡命が成功したら、三角関係勃発ですね」副官が軽口を叩く。
「ロケット抜きに三角関係してくれたら、わたしも言うことないのだけれど」
「あの青年にできますかね」
「さあ、彼次第ということね。わたしのお灸が、どこまで効くかは未知数だけれども。けれど、わたしはできる限り、好き勝手させてあげたのよ」
「その点だけは、全面的に同意しますよ」
「だから、すこしの説教は、彼への餞別よ」
「大佐のお説教を活かせるかどうかも、彼次第ってことですか」
「ここから先の彼の人生に、責任なんて持てないわよ。なにより、わたしの立案するルナ計画に、情緒不安定な子どもは必要ないわ」
「大佐は、あの青年のことを、相当買っていらっしゃる。良き好敵手として」
大佐は目を見開いたあと、何度か瞬きをして、それから目を細めて薄い笑みを浮かべる。
「さあ。どうだか。
いずれにせよ、彼がいなければ、次にひとを打ち上げる手柄は、わたしのものになるのよ。いままで随分と我慢してきたんだもの。今度こそわたしは、好きなようにやらせてもらうわ。
わたしが、月がチーズでないことを証明してみせるわ。ついてきなさい」
話はこれで終わりだ、と大佐は短く切り上げる。だが、まもなく、周りの視線に、なにか言わないといけないと感じ、口を開く。
「とにかく、ベルベット少佐は、責任の重みに耐えられなくて、深酒して、凍死することになっているわ。そのあたり、よろしくね」
「了解です。それからもうひとつ、この機会にひとつ聞いておきたいのですが」
「なに?」
「なぜ、あんな乱暴な振る舞いを選択なさったんです?」
大佐は、火傷痕に触れながら、本当に困ったようにぼやいた。
「里心は絶ってあげないといけないでしょう」
「本当にそれだけですか?」
大佐は、答える代わりに、葉巻をくわえて、ゆっくりと味わった。それから、まだ答えを待っている副官に、告白する。
「他の方法を思いつかなかったからよ。
いまのわたしは、過去の残滓の寄せ集めなのよ。もう、恨む相手は全部片付けてしまったけど、生き方はなかなか、修正できないのよね」
副官が答えあぐねていると、管制室に通信が入る。
「国家英雄殿を発見しました」
弾んだ声だった。そして、呼応するように、管制室が静まり返る。
通信の計らいで、音声の出力先がヘッドフォンからスピーカーに切り替わる。
「パラシュートが雪に埋もれて、見えなかったんです。
心配はいりません。雪の中だというのに、ぴんぴんしてます。やはり、毛を剃らなくて正解でしたね」
サ連はいまだ、ひとが宇宙へゆく技術は持ち合わせていない。
人間が生命を維持する環境は、今のR-7セミョールカには重すぎる。
だが、人間でなければどうだろう。
例えば、愛玩動物のような、小さくて愛らしい生き物であれば。
空気も水も電力も熱も、究極的には断熱材でさえも、少なくて済む。
そう。
機械が吐き出していた心臓の波形が、ひと波形に見えないのは、電波が悪かったのではない。すべて、あらかじめ仕組まれていたことである。
人間たちの企みを知らないまま、国家英雄殿は、にゃーごとないた。
「サ連が、またおかしなものを打ち上げたですって?」
執務室に詰めていたヤスミンカが、片眉を上げる。
「ええ、クドリャフカなる猫を打ち上げたとの声明が発表されています」
猫だと聞いて、納得する。
この、傍受した奇妙な波形は、猫の心臓の鼓動だったのか、と。
「まったく、ヴェルナー。やりすぎよ。わたしの分を全部かすめとっていくなんて。次にあったら、うんと言って聞かせてあげなくちゃ。
まあ、それは置いといて。ねえ、ナウア」
「なに?」
「ロケット好きよね」
「じゃなかったら、あなたの付き人なんてやってないわよ」
「自分でも、やってみたいと思わない?」
「まあ、そんなチャンスがあれば、ね」
「チャンスがあればいいのね?」
ヤスミンカは甘えた声でいった。
「あ」
しまった、と思った時にはもう遅い。
油断したが最後、ヤスミンカの執念に飲み込まれてしまう。
「どうやら、スプートニクの軌道を計算した高速電子演算機が、今後のトレンドらしいのよ。
イリノイ大学だけじゃなく、あらゆる大学から共同研究のオファーがきているのね。
ナウア。ちょっと行ってきて、盗んできてくれない?」
「はい?」
「言葉が足りなかったわ。高速電子演算機に関する研究室の人材ごと、盗んできてくれる?」
「待って。わたしは」
「あら、トトノ財団に育てられたあなたが、そんな弱気でいいのかしら?」
ヤスミンカは無言でにっこりと微笑み、首を傾げてみせた。
彼女は、手元でFRPの評価用サンプルをもてあそんでいる。
その顔は語っていた。
わたしは、全部知っているぞ、と
「でも、イリノイ大っていったら、合衆国有数の……」
ナウアはなけなしの抵抗を試みるも、ヤスミンカにあっさりと却下される。
「あら、誰がイリノイへ行けと言ったのかしら?
わたしが盗んできて欲しい技術は、コロンビア大学にあるの。
いずれにせよ、勉強と研究は別だから、地頭の良いあなたならなんとかなるわ。
大丈夫、最低限の知識はわたしが叩き込んであげるから」
ヤスミンカは、とてもいい笑顔である。
その表情は、言うまでもなく――。
役者は揃いつつあった。
人類が月へ到達するまで、あと十年。
これにて完結です。
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