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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第二章 イリーナ・セルゲーヴナ
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65 「絶対にだ」

 大佐は今までに見たことないくらいに怒り狂った。


「わたしは、わたしの望みのためならば、跪き靴を舐めることをいとわない。相手が望むなら、股を開きもしよう。

 使える手札はなんだって使うわ。与えられた手札で足りないのなら、誰かを騙し、罠にはめることは当然だと、わたしは確信している」


 高慢めいた気品さをかなぐり捨て、余裕めいた笑みは怒気にとって変わられていた。

 大佐はヴェルナーの襟を締め上げ、くびり殺さんばかりに顔を近づける。


「わたしは平時において人殺しを命じたことはないし、命じたつもりもない。身内のひとりだって、見捨てはしない。絶対にだ。死んでもだ!」


 己のみに宿る火傷の痕は、自分の内側から燃えあがった炎で焦がしたのではないかと思えるほどの激情。


「仮にわたしが、誰かに死ねと命じたことが明るみになったのだとしたら、そのとき、わたしは、甘んじてその罪を受け入れる。

 だがここは、ひとの倫理が破綻する戦場ではないはずだ。

 なぜ、電源が喪失する事態を想定できなかったのだ? なぜ船内温度は上昇し続けているのか! 納得のいく説明をしろ、ヴェルナー!」


「僕だってそれどころじゃないんですよ! いいから状況を把握させてください」


 射殺さんばかりの視線で睨みつけていた大佐は、やがて、火が消えるように表情を変え、手を離す。

 ヴェルナーがむせるように肩を上下させるよこで、襟元をただし、胸元から取り出した葉巻をくわえ、火をつける。

 紫煙を一口味わったのちにいう。


「取り乱したわ」


「いいえ」


「船内は、どの程度まで上昇するかしら?」


「わかりません。上昇している方向に進んでいるので、凍死することはないと信じたいですが」


 宇宙空間は大気に守れられていない。太陽の影響で、日に当たっている部分は百数十度が予想される。逆に、地球の影に入ったときの平均温度はマイナスの二七○度まで低下する。

 スプートニクのもたらした実測値であり、イリーナの天才的閃きと驚異的な忍耐でスプートニクに詰め込んだほとんど唯一のセンサーであり、サ連がもつ宇宙開発における極秘事項だった。

 そのために、ヒーターや放熱板を追加して温度管理を徹底するよう務めたものの、どこまで機能するのかは未知数。

 重苦しい空気を押しのけるように、ヴェルナーはいう。


「ヒーターと放熱版とを意図的に分けて準備さています。部分的な損壊でも直ちにパイロットの生命に関わることはない設計だったんです」


「でも、温度上昇は止まらなかったと」


「……」


「人間のタンパク質の中には、四二度を超えると熱凝固するものがあるわ。十数時間で死にいたるきけんが高くなり、四四度を超えると、不可逆な変化が生じて回復ができなくなる。そして、四十五度に達すると、生存は不可能。もっともこれは、人体が熱を持ってしまった場合だけれど」


 大佐が問う。ヴェルナーは彼女の目を正面から受け止めることができず、俯いた。


「六時間で、否応なくミッションは完了します」


「なぜ六時間なの? 帰還のトラブルなり救助ができなかったことを想定すれば、十日分くらいは積んでおくべきではなくて?」


「別系統の逆噴射システムを積むためです。彼女の希望だったので」


「つまり、酸素も水も、六時間分?」


 ヴェルナーは首肯する。そして、できるだけ感情を排して事実だけを口にする。


「でも、ミッションは九○分で終わらせます」


 大佐ははじめて聞いた珍事だというように目を瞬かせると、だまって、葉巻を咥えた。やがて観念したように、話題を棚上げし、全く別のことを尋ねた。


「逆噴射システムが上手く起動すれば、帰ってこられるのね?」


「大佐からご提案いただいた、FRP(強化プラスチック)は実装済みです。カミナギ商会経由の、合衆国製。二ミリの厚さにするので限界でしたが」




「通信、来ました」


 想定より一分ほど早い。スプートニクより周期は短く、八十九分。一秒でも早く状況を知りたかったヴェルナーには、想定外の朗報に他ならない。

 だが、なんど呼び掛けても、彼女からの返事がない。


「イヴァン、こちら管制。応答せよ」


 返答はない。


「イヴァン、応答せよ」


 返答は、ない。

 自動送信による情報は、室内環境が六十度という、劣悪な環境だった。船内は輻射でしか熱伝達はなく、湿度は限りなく零である。

 だからこそ。


「来ました。微弱ですが、生きてます!」


 医療班が叫ぶ。

 ヴェルナーは迷うことなく、逆噴射の開始を宣言する。

 地上から、帰還への指示が飛ぶ。

 サ連が宇宙開発のために芸術的な領域にまで高めた電波が、スプートニクへ指令を伝達する。


 一度めの指令。


 逆噴射は機能しなかった。


 二度の指令の後、システムを切り替えて、バックアップを作動させる。


 今度は、問題なく起動。

 逆噴射の系統を冗長化していたイリーナの選択、つまり生命維持に必要な水や空気を切り捨ててまで逆噴射のエンジンを積むという選択は正しかった。


 だが、またしても問題が発生する。

 機体が進行方向を軸に高速で回転しはじめたのだ。少なくとも、毎秒三十回転。加速度計が、異常な数字を叩き出す。


 原因は、備え付けモジュールが自動で切り離せないことで、重心位置がランダムに移動するようになってしまったことだと予想された。

 もちろん、目視で確認することなどできない。

 管制室の、分離を示すコンソールの照明は一度消え、なぜかまた点灯した。地上に送られてくる情報を信じるならば、そうなっている、というだけの話である。

 そして、実際のところ、降下用カプセルと逆推進ロケットシステムは、ケーブルで緩やかな結合を維持したまま、逆推進ロケットが降下用カプセルを牽引する形で、地上に落下し始めていた。


「十二Gを超えました」


 管制室に緊張が走る。


「十二・一、二、三。まだ上昇しています」


「姿勢維持ブースタをカウンターに」ヴェルナーが叫ぶ。


「とっくにやってますよ」管制担当が叫び返す。


 機体は、すでに、三分以上、きりもみの状態に晒されている。パイロットの意識があったとしても、できることは太陽の光から自分の目を覆い隠すくらいのことだ。

 ヴェルナーが必死に呼び続ける。


「機体が燃えるよ、イリーナ(イヴァン)。怖かったら、目をつむっていればいいから。結合ケーブルが燃え尽きれば、回転は止まる。あとすこしだ――」




 現地の報告によると、シベリヤ平原は、ひと足先に雪が降り始めているらしい。

 深々と雪がふり、風も出てきており、まもなく吹雪になりそうな塩梅だという。

 風の影響か、通信にノイズが入り、聞き取りにくい状態が続く。

 仮にイリーナが生還したとしても、氷点下で吹き付けるブリザードのなかで、人間は、一時間も生存できない。

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