55 「僕の勝ちだ」
サ連の管制室で待つ人間たちには、目の前でジャングルみたいになっているトグルスイッチを眺めることと、自分たちの信じる神に祈る以外に、出来ることがなかった。
エンジニアと政治家しかいないエリア68で信じられている神は、科学かお金くらいのものであるから、祈りがいがないことはこの上ない。
従って、管制室に張り詰める緊張の糸は、並大抵のものではなかった。
ブースターは上手く分離しただろうか。
軌道計算に誤りはなかっただろうか。
衛星は上手く姿勢制御されたのだろうか。
果ては、彼らが唯一信奉する物理法則にすら、疑問の念が生じる。
曰く。ニュートンの立てた運動力学は、本当に正しいのだろうか、と。
R-7は、どれひとつとっても、本来であればそのためだけにテストミッションが重ねられるべき要素が連なっている。
Oリングのシーリング、衛星の射出に、無重力下の機械の振る舞い。懸念材料には事欠かないのだ。
およそ、失敗することで科学が進むにもかかわらず、暗闇の中を崖から跳躍したようなものである。無事に着地できるか以前に、そもそも崖の向こう側に、ちゃんと地面があるのかさえも定かではない。
「予定時刻です」
管制室に詰めていた一人が、時刻を淡々と告げる。
打ち上げから九十分。
成功し、スプートニクが地球周回軌道に乗っていれば、地球を一周し、成功を知らせる発信音がスピーカーから流れてくる手筈になっている。
だが、相変わらず、スピーカーから溢れるのは激しいノイズである。
予定時刻から十秒が過ぎ、二十秒が過ぎ、一分が過ぎた。
「遅れるとしたら」
ヴェルナーがつぶやく。
「少し高い軌道に入っていれば、あるいは」
イリーナの、そんな言葉を最後に、部屋に沈黙の帳がおりる。私語を交わすものは誰もいない。ただ、息遣いだけが聞こえてくるようである。
静寂が、さらなる緊張を助長する。
「予定時刻から、二分経過」
スピーカーは沈黙を守る。
「四分経過しました」
未だ、なんら音は聞こえない。
誰もが耐えきれなくなる、その瞬間。
受信機が、はるか遠くから届いた、微弱な電波を捉えた。
ノイズの入り混じった、聞き取りにくい、ささやかな音がスピーカーから、微かに聞こえ始める。
単調で代わり映えのしない、ただし何よりも待ちわびた音。
人工衛星が地球を外周したことを知らせる音。
――わぉわぉわぉ。
スプートニクの唄だった。
科学の発展が、核兵器という破滅的な結末をもたらすのではなく、人類を前へ進めることができたとき、実現するかもしれないと感じられる確かな夢。
誰もが想像し、しかし自分が生きてる間に叶うことはないだろうと、諦めていた夢。
ひとの創りしものが、地外へ飛び立つという夢だ。
発射台から約一○○メートル離れた地下壕のような管制室で、ヴェルナーは、まるで天啓でも受けたようにたたずんでいる。
自分の足で、しっかりと地続きのロケットを組み上げた感動。
弾道軌道ではなく、地球を周回する衛星軌道への投入。
彼女の陰から出でて、ついに完成させた。
自分の力で、彼女より先に。
身をもって、彼は理解する。
魂が震えるとは、こういうことか、と。
「僕の勝ちだ、ヤースナ」
イリーナの世界は、喜びから一転、白と黒だけのモノクロームになった。
皆が絶賛している。歓喜している。
だというのに、目の前の景色は、彼女にとって、厚いガラスの向こう側の、手を伸ばしても届かない光景だった。
ヤースナ。
その言葉を口にしたときの彼の表情。今まで一度だって見たことのない、歓喜と野心に満ちた表情。
彼の顔をみて、イリーナは直感する。
兄さんが以前口にしていた、苦しくてたまらないという顔をしていた女の子だ、と。
彼の想いは、ここから遠く、地平線の遥か向こうにあったのだ。
ヴェルナーが何か話しかけてくる。
とても嬉しそうに。興奮で頬を赤くしながら。
「――――。――、――?」
けれど、イリーナには、その声が聞こえない。まるで耳に入ってこない。いや、頭が意味を理解することを拒否しているようだった。
彼の声が、とても遠い。
イリーナは胸のうちで叫ぶ。
――わたしはここにいる、と。
でも、自分の悲鳴は、今、自分には彼の声が聞こえないのと同じように、彼の耳には届かない。
ヤースナ。
その彼女こそが、彼にとっての世界の中心なのだろう。自分にとって、ヴェルナーこそが、世界の中心だったように。
ずるい、悔しい、羨ましい。
そして、そんなふうに考える自分こそがとても醜いものなのだと、ちゃんとわかっているはずなのに。
本当は、ここにいてはいけないのではないか、と思えてくる。いや、本当は、気づいている。
彼は地位も、名誉も、サ連という国で手にした何もかもを捨ててしまった。
こんな、自分のように、ちっぽけで汚い人間のために。
きっと彼は、まだ気づいていないのだ。
汚いものや醜いもので汚れている自分を――。
イリーナは、スプートニクの唄を聴きながら、はらはらと泣いた。
周りから見れば、成功の歓喜に身を浸しているように見えたかもしれない。だが、心は真逆である。声をあげるほどの激情はなく、誰かに気づいて欲しいわけでもなければ、もちろん、ヴェルナーを責めているわけでもない。
ただ、冷気によって全てがいてつくツンドラのような、凍てついた、しんとした泣き方だった。
「――――?」
彼が、何げない言葉をかけくる。
そんな彼の優しさに反応して、胸の奥の頑ななまでに卑屈な部分を溶かして、涙にしてしまう自分が悔しかった。
嗚咽が漏れて、慌てて口元を押さえる。心の奥深くにしまっておくべき感情が、こぼれでてしまいそうだったからだ。
イリーナは、もう目を閉じてしまいたかった。けれど、彼女が受けた衝撃は、まゆも動かせないほどに苛烈で、心の奥深くに突き刺さる。
――それでもわたしは、あなたをお慕いする気持ちを、止められないのです。
イリーナは口を開きかけ、言葉を失ったかのように口を閉じた。また、開きかけ、でも結局は閉じたままになった。
彼女は身をもって知った。
魂が震えるとはこういうことか、と。




