31 「やらせてください!」
「連続試験ができる、実寸大の燃焼試験室を」
イリーナは愛らしい顔に人好きのする笑みを浮かべていう。
「……検討しよう」
「あと、機体の安定について話したいです。ペンを貸してもらえます?」
ヴェルナーから受け取ったペンで、新聞紙にでかでかと式を書きつけていく。
すぐに、式の意味を察したヴェルナーが、息を呑む。イリーナは心の中でほくそ笑む。
「ナビエ-ストークス方程式?」
「正解です」
ナビエ -ストークス方程式。
流体力学の重要な柱のひとつであり、空間の流体の運度を記述する式である。
アンリ・ナビエとジョージ・ガブリエル・ストークスがそれぞれ独自に練り上げた、ニュートン流体に関する厳密な運動方程式である。
乱れのある流れ、乱流を記述するうえ欠かせない式であり、工学で流体が関連する分野であれば、必ずといっていいほど登場している。
しかしながら、形が定まらず捉えどころのない流体の、しかも詳細に目視できない流れを記述することは難しく、あらゆる場面で活躍する方程式であるにもかかわらず、数学的に完全な理解はなされていないのである。
それを、イリーナが持ち出してくる意味とは。
そして、ヴェルナーが見たことのない項目がついているということは。
「まさか、解けたの?」
「そのまさか、です」
「変数に対して式の数が足りない不完全問題のはずだけど?」
「なんとなく、解けちゃいました」
これでよし、と髪をかきあげる仕草をして、ペンを置く。
そこには、数学的に解を与えられないはずの振動係数の第三項を追加し、見事に式に解を与えているように思われた。
「原理を理解しないかぎり、外環境が変わったときに追従できないっていったのは兄さんですから。それをヒントに考えていたら、閃いちゃったんです。
粘性項、いわば空気の粘り気こそが流体力学の本質というのは、言い得て妙な感じがしました」
「そんな、まさか」
「ま、冗談なんですけど」
イリーナはからからと笑う。罪のない悪戯で若干のもやもやを晴らし、イリーナは種明かしする。
「先人にならい、実験の結果から係数をかけることにしました」
「そう、だよね」
深いため息とともに、ヴェルナーが胸をなでおろす。息を吐ききる瞬間をみはからって、イリーナは言葉を投げこんだ。
「ですが、係数は流速に依存します。これは、あくまでも、いまの試験装置で実測できる範囲に留まっています。
言い換えれば、実測範囲を拡大できれば、式の精度があがるということです」
「つまり、実機環境を用意しろと」
「話が早くて助かります」
イリーナがにっこりと微笑む。
「でも、音速に近くなれば、境界層は無視できるだろう? 粘性項も圧縮項も無視できるはずだよ」
「ですが、ロケットは瞬間的に音速を超える訳ではありませんよ? 兄さんも当然、ご存知のはずですが?」
ヴェルナーのささやかな抵抗は、イリーナの皮肉に一蹴されてしまった。
「わかった、風洞を追加しよう。それでいいかい?」
「もちろんです」
「君はつくづく実践向きの性格だね」
「そうかもしれません」
イリーナは笑う。今度の笑みは、肩の力の抜けた素直なものだった。
ヴェルナーは、しばらくイリーナを見つめてから尋ねた。
「イリーナ」
「はい」
「ロケットは面白い?」
「面白いです」
「じゃあ、機体の設計もやってみるかい?」
「はい?」
答えに詰まるイリーナ。
「大丈夫。構想設計は、いままでどおり僕がする。ただ、細部については君に任せえてみてもいいと思ってるんだ。
君の積極的なところがあれば、できるんじゃないかと思う。どうかな?」
「はい、やります! やらせてください!」
「いい返事だ。これで僕も、集中できる」
「なにをなさるんですか?」
「なにって、人材集めだよ」
ヴェルナーがいつものようにさらりと笑う。
彼の笑みは、ロケットを吹き飛ばしたときと、寸分違わぬものだった。
つまり、変わっていたのは自分の方だと、イリーナは気がついた。
人工衛星の記事を目にして、自分の方が興奮して冷静ではなかったのだ。
「忙しくなるよ。この国の技術をかき集めないといけないんだから」
種はまいた。いまこそ、収穫のときだ。
物騒なことをつぶやく彼は、自分を教科書なり実験報告書なりで叩きのめしていたときの彼の姿そのものである。
ヴェルナーの、本気の眼差しである。
そんな彼の姿をみてると、胸の奥がにわかにざわついて、イリーナは、いてもたってもいられなくなってしまう。
この胸のざわつきこそが、イリーナの内に潜む、ロケット開発に取り組むもう一つの理由でもあった。
同時に、この言葉で形容できぬ胸のざわつきを、
彼に悟られることは、どうやら、死ぬことよりも恥ずかしいことらしかった。理由は定かではないが、イリーナはそう感じていた。
だから、胸の奥がざわついて、かゆくてもどかしくてたまらなくなってしまったとき、イリーナは澄ました口調で、空気を変えようとするのが癖になっている。
しかも、今日に限っていえば、話題に困ることはない。
イリーナは、機関紙の写真に目を落とすと、さも、たったいま気づいたような声でいった。
「ところで、兄さん。向こうにも、ヴェルナーさんという方がいらっしゃるみたいですよ?」
「へえ?」
「でも、向こうのヴェルナーさん、かなり作りこんだ感じなんですよね」
「どういうこと?」
ヴェルナーが覗き込んでくる。顔が近いことに、妙な胸騒ぎともどかしさを感じつつ、イリーナは写真を指差した。
機関紙の写真には、声明を発表した学者たちが、並んでいる。
「これです。端から三番目の人が、ヴェルナー・フォン・ブラウンというそうです。
服装でごまかしていますが、かっこいいという事がどういうことかわかってないですよ、この人。
髪がどうとか姿勢がどうとかいう前に、目が駄目です。
まったく人目に晒されることを望んでいない目です。あるいは、気にしていないって感じ。
それに、ほら、首のまわり。だぶついた皮を隠してる証拠です。
きっとこの人、とんでもない巨漢だったのに、何かあって、めちゃくちゃ急に痩せちゃったんですね」
「へえ」
写真を眺めたヴェルナーは一瞬だけ、驚いたよう目を見開いた。
けれど、それは本の一瞬だけで、すぐに平静さを取り戻したために、イリーナは気づくことはなかった。
ヴェルナーの動揺。
それは、ヴェルナー・フォン・ブラウンなる人物の傍らに立つ、ひとりの少女によってもたらされていた。




