3-3-8 ファーストコンタクト その5
『ああ……魔力素に余裕があったなら、今すぐにでもこの鬱陶しい【霧】を全て吹き飛ばしているところだというのにな……』
立ち込め続ける【迷霧】は今、完全に[Filth・wræcca]の周囲を取り囲んでいた。イサとリガヤ・ババイランの両者はすっかりその【霧】に紛れており、一人残されたFilthは歯噛みしながら周囲を警戒した。刻一刻と悪化する視界。足音らしき物音は聞こえるが、それもここかしこから飛び飛びで聞こえてくる為、位置特定には至らない。
逃げられない……!
前後不覚、空間識失調――全身に纏わり付き、肺にまで入り込んでくる【霧】、これを一方向だけ吹き飛ばして活路を開こうにも、最早、どちらへ逃げるべきなのかすらも判然としない。僅かに残ったシミッタレの魔力素を余さず使えば、確かに一度だけならばそういう賭けにも出られる。しかし、その結果で壁にぶち当たったなら良い方だ。うっかり選択を違えて[隔膜]の袋小路にでも行ってみろ、今度こそ一巻の終わりだ。それだけは避けなければならない。
必然的に、ここは待ちの一手だった。Filthという男は堅実な気質だ。堅実に、堅実に、全てを積み重ね、あらゆる不遇な艱難辛苦を乗り越え、ここまで伸し上がってきた。その生来の気質故に、ただ霧中からの奇襲に怯え、何の打つ手もなく死を待つばかりを良しとしない。
引き伸ばす……! 出来得る限り生き残り、限界まで遅滞に務める……!
到底、策とも呼べない不細工な選択。しかし、それだけが今は希望だった。というのも、時が来れば……敵前逃亡防止の為に禁じられている[転移]が解禁され、撤退できる手筈となっているからだ。
既にFilthの脳内では、残り少ない魔力素を効率的に運用し、耐え凌ぐ[術]が複数構築され始めている。試算では十五分――いや、相手の出方次第では二十分でも耐えられる。
それくらいあれば……と思う一方で、Filthの胸中には拭えぬ懸念が蟠っていた。
ここでいう時というものが一体、何時くるのか? その点が、全くもって不透明なのだ。もしかすると、二十分では足りぬかもしれない。なにせ、その時というのは、『[驃・wilde]と四藏匡人対話が終わる瞬間』を指しているのだ。
もともと、この襲撃は予告していた通りに、MCG機関への『示威行為』を目的とすると共に、この謎の『対話』を行う目的も兼ねていた。それらの目的が果たされたのならば帰る。当たり前といえば当たり前のこと。
しかし、それは果てしなく不透明なゴール! 驃に託された『対話』の内容は、隊長であるFilthにも秘密にされている。Filthの方も、ここには敢えて深入りはしなかった。彼の組織内の立場からすれば、恭順の他に立身出世を果たす道はないからだ。
内容が分からない以上、想像には限界がある。そもそも、この状況自体が、一市民でしかないFilthに取っては理解の範疇を越えた異常。別なる地球の原住民一人を特別視しての『対話』……? 意味不明。一体、如何なる言葉が交わされるのか、想像もできない。正確な見積もりだって出来やしない。
『だが』
だが、けして祈りはしない。そんなものは唾棄すべき弱者の常套手段。そんなものに縋りはすまいとかつて心に誓った。
今の俺には力がある……!
このFilthの思いは驕りではなく、純然たる事実だ。彼は万物を隷従せさする魔術師。で、あるが故に、彼の両肩にはその力に相応しい責任がある。少なくとも、Filthはそう自負していた。
だからこそ、生き残る。生き残らねばならない。まだ、為すべきことが……!
『――来いッ!』
Filthは気炎を吐いて自己を奮い立たせ、霧中に潜む二人の攻撃に備えて身構え、その後……徐に目を瞑った。
狂気の沙汰である。唯でさえ情報が乏しい中、その情報源たる器官の一つを自ら閉ざすという暴挙。もし、視界の端にチラリとでも何か動く影でも捉えれば、防御には事足りるというのに。
しかし、それを理解していながら、要らぬとFilthは断じた。【霧】で使い物にならぬ視界ならば、もう要らぬ。背水のFilthは、殊更に自らを追い込み、そして只管に待った。
その様子を知ってか、知らずか、イサとリガヤ・ババイランは動かない。一切の音沙汰なし。じりじりと、Filthの気勢を削ぐように袖手傍観につとめる。
来ない。来ない。来ない。
来い、来い、何時でも来い……と、Filthは破れかぶれに念じる。宛ら、遅れてくる恋人を待つ若者のように。そして、やがては一分が経過する。互いは戦闘中の敵同士である事を考えると、むしろ来ない方が何倍も良い筈なのだが、事ここに至ってFilthの心理は全くの逆方向に振り切れていた。何が来ようと防いでやる。その意気込みに見合う手立ても用意していた。
――が、万全とも思われたFilthのその「手立て」とやらは、次のリガヤ・ババイランの一手で無残にも水泡に帰す。
心理が逆なら、さっきまでの発想の方向性も全くの的外れ。
違う、違うのだ。
重大なる心得違いをしている。
考えるべきだったのは、イサとリガヤ・ババイランの両名が霧中の利を以て攻めてくるのに対し、如何に万全の防御を備えるか? ではなく、既に攻撃されている現状を如何に凌ぐか!
瞬間、突如としてFilthの全身を浮遊感が包んだ。と、同時に彼も悟る。自らの誤りを。
『攻撃は、既に……!』
そう、始まっている。【霧】で相手を包む事、それが即ちリガヤ・ババイランの攻撃なのだ。
分かっていた筈だ。
この【迷霧】が齎す神秘的効能――位置情報を支配する【転移】の業!
当然、知っていた。己が目で見、身体で感じ、理解していた。忘れていた訳でもなかったというのに、ここまで発想が至らなかった。考察が行き届いていなかった。完全なるFilthの手落ち、過失。
イサとリガヤ・ババイランは、何もノコノコと攻めてやる必要はないのだ。必要とあらば、向こうの方を手前勝手に取り寄せてくれば良い。このように――!
落ちる、落ちる、Filthの身体が自由落下を始める。しかし、ここで奇しくも目を瞑っていた事が功を奏した。目以外の感覚器官に意識を集中させていた事により、いち早く上下が逆転している状態である事に気づく事が出来た。もし、目を開けていれば【霧】だけの変化のない景色に惑わされ、一瞬ばかし把握が遅れたに違いない。
僥倖! Filthは個人神の篤い寵愛を感じざるを得なかった。
そして、淀みなく対応する。この時、Filthの脳内には、相手の取り得る行動が二つ思い浮かんでいた。
一つは、何らかの殺傷性を有する罠を設置している可能性。しかし、これはないと見ていた。そのような時間も気配も音もなかった。二人の【瑞】も見ている。【風化】と【迷霧】。まず、罠はない。
もう一つは、落下という無防備状態を狙って、どちらか或いは二人が即座に攻撃できるように待ち構えている可能性。
――恐らくは此方! Filthが瞬時に導き出した解答は、頭部付近への[牆壁]展開だった。
『なッ――!』
『……大当たりぃ!』
Filthの目論見通り、フルスイングされた【片刃剣】は、最小限の魔力素を使った[牆壁]にガッチリと阻まれた。
一撃で仕留めるとしたら上半身しかないものな……! 下半身では死なない、その為の上下逆転でもあると見た……! 何れの推察も正鵠を得ていた。自分でも今まで気付かずにいた天性の戦闘感性が、此処に開花しようとしていた。
間髪入れず、Filthは空中で既に崩壊し始めている[牆壁]に右手を付き、不完全ながらも姿勢を立て直してイサへ反撃を試みる。魔力素の刃を纏った左手刀!
対するイサは、もろに不意を突かれた形だ。予想外の防御、予想外の反撃。気が付いた時には、身を引こうにも【片刃剣】で防御しようにも間に合わない状況に陥ってしまっていた。
『ヤ、ヤバ――!』
『死ねィ!』
しかし――ここでもう一人の存在、リガヤ・ババイランがこの攻防をただ見詰めている訳もなく、当然のように横槍をいれてきた。予め備えていたリガヤ・ババイランは、イサの様に当惑するというような失態を犯すこと無く、Filthを再び【転移】させる。それにより、Filthの渾身の反撃の左手刀は空を切った。
『イサ、油断禁物よ。ごちゃごちゃとは話せないんだから、ちゃんと分かってよね!』
『ご、ごめん!』
Filthの耳に、【霧】の向こうから発せられた二人の話し声が聞こえてくる。内容は分からないが、女が男を責めている様な雰囲気だけは読み取れていた。
揉めろ、揉めろ……好きなだけ揉めてくれ。Filthは北叟笑みつつ、次にくるであろう攻撃に思索を広げる。直球で駄目だったのだから次は多少の変化を混ぜて来るだろう。時間差、連携、空かし、【転移】であちこち振り回しての揺さぶり……何が来ようと乗り切ってみせる……!
そうこう考えている内に、次の攻撃が来る。
またもや、全身を包む浮遊感を振り払うように、Filthは[牆壁]を展開した。
*
その灰崎炎燿の血に濡れた立ち姿を見て、鳳尾松は閃いた。時間を引き伸ばす事は、奴に取っても不都合がある筈だ、と。
「……待つのはいいが、失血死は勘案に入れているのか?」
失血死。
灰崎炎燿は、何発もの銃弾を食らっている上に、指を炸裂させている。既に相当量の血を失っている筈だ……。そう思っての発言だったが、灰崎炎燿は指が吹き飛んだ傷口を掲げて嗤った。
「問題ねぇよ。既に止血済みだァ……」
その傷口の上には生々しい火傷が覆っており、出血は一切見られなかった。指だけでなく身体の方も同様である。床へ滴り落ちる血液量は少なく、服に隠れてはいるが明らかに出血が止まっていた。
何時の間にやら、だ。
しかし、鳳尾松に取ってはその事実よりも、目の前の若造に嗤われた事実が我慢ならなかった。
こいつ、殺してやる……! 簡単には死なさん……! 腹を掻っ捌いて引き摺り出した臓腑を徐々に腐らせながら殺してやる……!
本来であれば、この様な些細な失敗などはすっぱりと忘れて、別方向へ思索の船を漕ぎ出すべきだ。しかし、偶然にもこの捻くれた偏屈爺の執着が、思いも寄らぬ新たな閃きを齎した。
――あ゛? 何時だ? 何時、傷口を焼いた?
その瞬間、鳳尾松は己の内に湧き上がる形容し難い感情を自覚した。
この空間内には『可燃性ガスが充満している』のだろう? そのガスとやらは、奴の言葉によれば『常温』でも『魔術具と魔力素を繋ぐ信号』でも爆発するという。
その『可燃性ガスの充満』の方は何時からだろうか、『ガスが不安定』である事が真実だとすれば、パイプを使って何かを炸裂させた後……だが、見た所、奴はその肩甲骨の傷口さえも何時の間にやら焼いている……。
形容し難い感情の正体――それは射幸心だった。
鳳尾松は辿り着いたのだ、『嘘』に装飾された真実に。故に湧き上がる歓喜、愉悦、解放感。
「ひ、ひ、ひぇっひひ……!」
「……なに気色悪い声だしてやがる」
なに、簡単な事だ。傷口を《焼く》という行為は温度の高まりなくして実現し得ない。それをやり遂げている事実が『嘘』を暴いていた。『可燃性ガスの充満』『常温で爆発』『信号で爆発』……全てが成り立たなくなる。
灰崎炎燿は『温度を低くしてガスを保っている』と言った。それが確かならば、傷口を焼きつつも爆発を回避しているという事になる。つまりは、灰崎炎燿の《能力》はそういう繊細な調整が出来るという事。また、出来なくともそもそもの『可燃性ガスの充満』が『嘘』であるならば何の問題ない。
とすれば、『魔術具と魔力素を繋ぐ信号一つで爆発する』というのも必然的に『嘘』となる。傷口を焼けるのならば、その程度では爆発しない。なにせ、ここでいう信号とは静電気以下の微小なものなのだ。
そう、行動を縛る為の『嘘』……! 恐らくは、傷口を焼いたように問題なく魔術を恣行できる……!
一連の思考の末にそう結論づけた鳳尾松は、ゆらりと右手を大きく揺り動かした。これ見よがしの予備動作。今まで頑なに隠蔽し続けてきたそれを、この時ばかりは敢えてしっかりと見せつける。
「待て! 何を考えている、動くなと言っただろうが……!」
「フンッ……もう、儂に『それ』は効かん」
使うぞ、使うぞ、魔術を恣行するぞ……! もし、この場に『可燃性ガスが充満』しているのならば、お前が維持せねば爆発するぞ……! していないのならば――
「そのまま、おっ死ねい……!」
この時、[転移]して逃げるという選択は頭から抜け落ちていた。もはや、殺さずには引き下がれない。そんな心情故に、まずは来たる爆発から身を守る[術]を恣行した後、灰崎炎燿を血祭りに上げようという算段だった。
「バ、バカッ! 早まるなって……!」
これに焦ったのは灰崎炎燿である。
このジジイは何をトチ狂っているのか。どうにか止めようと思考を駆け巡らすが、咄嗟には薄っぺらい制止の言葉しか出てこなかった。取り付く島もない。
灰崎炎燿の焦りは、その背後で死にかけている法倉螺湾にも伝わっていた。
「く、灰崎……! どっちなんだ!? ガスはあるのか!? 爆発するのか!?」
これまで事情がわからないながらも従ってきた法倉螺湾だが、とうとう我慢できなくなり、息も絶え絶えに口を挟んだ。
「……するに決まってんだろ!」
「下手な『芝居』じゃのう。なら、精々生き残れるように頑張れや」
「やめ――」
神意恣行。
その瞬間、『嘘』と真実、全ての解答が開示される。
灰崎炎燿が可燃性ガスを安定させているというのは『嘘』だ。可燃性ガスは充満しているが、常温でも問題なく安定している為に、灰崎炎燿は何ら働きかけを行っていなかった。そもそも、広範囲に干渉力を注いでいられる余裕など端から持ち合わせていない。
おおよそ、鳳尾松の読み通り。
だが、確かに灰崎炎燿は自身の傷口を《焼いて》止血した時、周囲の可燃性ガスに対しても干渉力を注ぎ、爆発を防いでいた。けれども、それは身体に触れている部分のガスであるからこそ出来た芸当であり、遠方の鳳尾松はカバー範囲外。
これが致命的な読み違いとなった。[驃・wilde]から危険性を大袈裟に伝えられていた所為で、《異能》の潜在能力を過大評価してしまった。
つまり、信号一つで爆発するというのは――ある意味で真実なのだ。
そんな事とは露知らず、鳳尾松は勝ち誇った態度で采配を振るった。
服の下に隠し持っていた魔術具から信号が走り、その熱量は当然、可燃性ガスに触れる……。
瞬く間に、膨れ上がった高温の圧が閉鎖空間に乱反射し、三人のちっぽけな体躯を巻き上げ、めちゃくちゃに掻き回した。
*
先程の轟音から一転、落下の落ち着いた瓦礫の山には静寂があった。死ぬも生きるも全てはその底に覆い隠されていた。
周囲の戦闘音も遠く、遠く……。
暫くその状態が続いた後、不意にその一角が持ち上がったかと思うと、中から二名の男女が息も絶え絶えに這い出てきた。[祝融・lieg]と厨川半心軒である。
四方のビル崩落の瞬間、レヴィを拘束し続ける為に玉砕の覚悟をハラに決め込んでいた厨川半心軒だったが、気が付くと彼の背後に祝融がいた。
てっきり逃げたものと厨川半心軒は思っていた。魔術師ならば、それぐらいは訳ないだろうと。
もともと、彼女を連れてきたのは不測の事態が生じた際に、なし崩し的に援護させつつ、隙あらば囮にでもしようと思っての事だ。それ以上の期待はしていなかった。
それが、まさか命を救われるとは。
どういう風の吹き回しか、祝融は[魔術]を用いて自身と厨川半心軒を概念的に隔離し、ビル崩落から厨川半心軒の命を助けた。
戦局が読めなかった訳ではあるまい。
生存の喜びもそこそこに気もそぞろな厨川半心軒は、こちらをじっと見詰めている祝融の顔を漠然と眺めた。言語の壁がある所為ではないのだろうが、その表情からは心の内が全く見えてこず、言い知れぬ居心地の悪さを覚えた。
ほんの少し前までは干戈を交える敵同士だった。しかも、攻撃を仕掛けてきたのは向こう。そんなヤツが今度は己の命を救った? 混乱するなという方が無理である。
なんとなく、全身に纏った【骸】は出し続けているものの、今更戦いを再開しようという気分でもなく、すっかり毒気を抜かれてしまっていた厨川半心軒は、ただ乱れた心が落ち着くまで相手の顔を眺めるほかなかった。
対し、祝融の方は、チラチラとレヴィが埋まっているであろう瓦礫の山を窺っていた。実は、厨川半心軒を助ける為に殆どの魔力素を使い果たしており、彼女は戦おうにも満足に戦えない状態となっていた。
故に、頼むから死んでいてくれと必死に願う。これで出てこられたら、今度こそお手上げ、打つ手なしなのだから。
生死はともかく、すぐに這い出て来ない所を見るに負傷はしている筈。出来るのなら――今の内に逃げておきたい。しかし、生まれてからの二十八年間で万人の模範となる魔術師たるべく培ってきた責任感と、自分が助けた事により未だ戦闘能力を保持している厨川半心軒の動向を警戒して動けない。
ついさっき命を助けた相手を警戒するという、何とも可笑しな笑い種。それを自覚しながらも、不思議と後悔はなかった。あれは交信不全の連携が、流動的な戦場で生んだちょっとしたアヤなのだ。ただ、それだけだ。
膠着状態を先に崩したのは、心を落ち着かせた厨川半心軒だった。もはや、使い道を失った【鎖】を己の内に戻し、メモ用紙に『潰』とだけ書いて手渡すと瓦礫の山を指差した。
「レヴィ少尉は……死んだ。俺の【鎖】の中で確かに圧し潰れた」
『……そうか』
拙くとも、意図した情報は十分に伝わっていた。本来なら信頼しようもない筈の『潰』の一文字を見た途端、祝融は出処も知れぬ安堵に包まれた。
予感があった――もう、終わるのだという予感が。
それを裏付けるように、何処からともなく鐘の音が鳴り響いた。戦場の粉塵に穢されてしまった空気を洗い流すような、極めて清廉なる音色。それは人工島中に響き渡っているというのに、毛ほども騒がしく感じない……。
これは、予め取り決めされていた戦闘終了の合図である。大目標の一つである『対話』が終わったのだ。
これにより、[転移]も解禁された。
なけなしの魔力素を使わずとも[転移]は容易に達せられる。合流地点で待機している別の魔術師と引き合うように[転移]する仕組みだからだ。万が一、魔力素をギリギリ使い込まねば生存できぬ状況になってしまった場合でも問題なく帰還できる様にそのような段取りとなっていた。
当然、祝融は間髪入れずに帰還しようとした。が、いざ帰れるとなると、途端に別れが名残惜しく感じてきた。この奇妙な縁と、胸の情をさっぱり無に帰しても良いものか。
いや、惜しい……。
ならば、結論は出たようなもの。逡巡はほんの一秒にも満たない時間だった。
祝融はケープ下の雑多な装備類から一つ、何の変哲もないナイフを取って厨川半心軒に投げ渡した。
――これで十分。
『また会おう』
最後、別れ際に流し目を残して祝融は瓦礫の積もる屋上から消えた。
「……何だったんだ?」
再び訪れた静寂。今度は周囲の戦闘音までもが徐々に消え始め、事態は収束しつつある事を如実に伝える。今の女と同じく帰ったのだろう、と厨川半心軒は当たりをつけた。
厨川半心軒は、手元に収まるナイフを一瞥した後、懐にしまい込んだ。理性は罠の可能性を主張していたが、理性の外の部分でそうではないと何となく分かっていた。
失う物の多い戦いだった。これぐらいは戦利品として持って帰らねば割に合わない。レヴィ少尉とその護衛二名……そして、弓削派にも付いてきてくれた忠臣二人……何れも、先程までは己の分身とまで思っていた者たちである。
無際限にも思える失意にひとまずの決着を済ませ、現状を把握すべく行動を開始せんと不確かな足場を足裏で探り始めた時だった。
「お~い、隊長!」
耳に馴染んだその声を聞いた途端、厨川半心軒は瓦礫を一目散に駆け下りた。けれども、不確かな足場では大した速度も出ず、途中で「まどろっこしい!」と飛び降りた。
約十五メートルの落下。だが、五点着地の訓練を受けている厨川半心軒に取っては二十メートルまでなら問題にならない。足が地面に触れると同時に膝を折り、脛、腰、背中、肩と順に接地させて衝撃を完全に殺した。そして、すぐに立ち上がり、彼等の前に立った。
「三岳、石橋! 生きていたか!」
そこに居たのは、多少の傷を負っているものの共に肩を支え合い、生きて立っている部下二人だった。
「へへっ」
「隊長も……ご壮健なようで何よりです」
照れ笑いを浮かべているこの二人には、丁度いいビルを見繕って貰った後、レヴィの足止めを任せていた。その命令を下すのは厨川半心軒も心苦しかった。到底、生存できる見込みのない任務。しかし、二人は打てば響くような返事で快諾してくれた。
望外の生存ではあるのだが、厨川半心軒の胸中では「喜び」より「驚き」の方が勝っていた。
「しかし、どうして……何があったんだ?」
当然の疑問である。聞いた二人の方も照れ笑みを苦笑いに移行させた。
「それが、どうも良くわからんのですが……レヴィ少尉の方が見逃してくれたのです」
「この通り、すぐに駆け付けられない程度の傷は負わせられましたが、命だけは残しておいてくれたのです。まあ、足止めが目的でしたので、それを見抜かれたのかもしれません」
成程、と厨川半心軒は口では返すものの、その脳内では正体不明の強烈な違和感が跋扈し始めていた。
レヴィ少尉の目的が分からない。彼女の口振りによると、『纏骸皇と近衛を裏切り、弓削派を結成したから襲う』……なし崩し的に戦闘に入ってしまったが、これで合っている筈。つまり、目的は『粛清』だ。
――では、何故部下二名を殺さない? 時間が惜しかった? 後から殺すつもりだった? いや、彼女に取っては赤子の手を捻るようなものである筈。
「……隊長?」
「ど、どうかしましたか?」
部下二人の言葉も耳に入らぬ程に考え込む内、厨川半心軒は戦闘中に感じ、そして危急故に忘却した違和感に再び思い至った。
そうだ、足りてない……!
レヴィ少尉には、圧倒的に『憎悪』が足りてない……!
纏骸皇の信奉する者。或いは、別なる何かを信奉する者。それらに共通する狂信的にして盲目的な衝動――今回の場合でいえば『裏切り』に対する『憎悪』が足りなさ過ぎた。
思い返してみるに、レヴィは一気呵成に片を付けるでなく、何故か余裕綽々の態度で『見』に回る事が多かった。
違和感の正体はこれだ。
そこまで至れば、あとは自動的。そう――、
「――レヴィ少尉の目的は粛清ではなかった……!」
「It's correct!」
何処からか女声が響いた。思考を直接に覗き込むようなその声の気配に、思わず厨川半心軒の背筋が凍りついた。
「レ、レヴィ少尉か!? 何処だッ!」
「た、隊長……」
即座に【鎖】を励起し、静寂漂う周囲を警戒する厨川半心軒。しかし、そう必死こいて探す必要もないのだ。声の出処はすぐ目の前。部下の片割れ――三岳条の口なのだから。
「た、たい、たた、た……」
「み、三岳……?」
「たい……ちょう……!」
ミシリ、と音を立てて、三岳の身体が大きく歪み、膨張した。それはまるで脱皮、羽化、孵化……中に潜む何かが、外へ出ようとしている動き。彼女を抑えるものはなかった。
「タ・ダ・イ・マ」
この世の理に反する。合ってはならない事が起こっている。三岳という殻を脱ぎ捨て――現世に、死人が帰還した。見逃したのではない。予め、保険を打って[復活の術]を仕込んでおいただけの話。
レヴィから噴き上がる魔力素の圧は先程と同等、或いはそれ以上だった。そして、厨川半心軒は肌で理解してしまった。彼女が、もう手加減をしてはくれないのだという事を……。
「コレデ……ヨウヤク殺セルッ!」




