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日も落ち始めた夕暮れ時。太い枝を選んで上り森を上から見下ろした私は、遠く、夕日を裂くように立ち上る僅かな煙を見て、目を細める。
しばらく確認してほっと息を吐く。火事、というわけではない。恐らくあそこに何か火を扱う者がいるのだ。果たしてそれは、人か亜人か。見えるのが魔力による街明かりではないところからして、かなり小さな集落なのか。こちらの界の情報は天界から私が見えた範囲でしか知らないが、この東の国はモンスターの活動がそう激しくはないといってもそれは安全だという意味ではなく、モンスターが弱いということは根城を隠した賊もそこそこいるということもあり、人であっても安全だという保障はない。
この世界全域でよく見られるゴブリンやオークの可能性もある。インプやハーピー……はこの近辺では確認されていない筈だ。まさか、サラマンダーが燃えているわけでもないだろうし。あ、東の国だと雷獣やワーウルフ、鬼人のほうが有名か。まぁ雷獣や鬼人はこの辺りの森じゃないだろうけど。アルラウネがいるのは知っているが、アルラウネは植物系だ。まさか生活の為に火を起こすわけがないし。
距離はそこそこある。歩いて半日……いや、もう少しかからないだろうか。この地は安全だとは思うが、もともと土地の力が強いのか、私の魔力を糧にした幻覚系の術の効きが悪く、私が認めた者以外をこの周辺で迷わせ帰す術が完成しきっていない。近辺に獣道すらないのはこの数日で確認している為人や中型以上のモンスターが紛れ込む可能性は低いだろうが、と考えつつ、ふうと息を吐いて枝から飛び降りる。羽はもがれたままであり、特に再生に魔力を回してもいない為飛んで確認することもできない。移動速度を上げる魔法を使って走って行ってもいいが、一晩彼らをここに残すのも不安がある。この敷地内の結界は完璧なのは何度も確認しているし、安全であるのは間違いないだろうが……トーヤはともかくナツはちょっと目を離すのが危ういところなのだ。どうにも彼はまだ魔力の受け入れにムラがある。
そうして残ることにした私の判断は、正しかった。
ここに多くの薬を用意する為、前任の残した子供たち用の常備薬のリストを見つつ調合する日々を過ごす私は、今日も同じように薬草をすりつぶしていた。
何故孤児院なのだろう、私の見た目では、いくら世話をしている大人も一緒にだとは言っても連れてくるのに苦労するのではないかと思っていたこの任務。蓋を開けてみれば、これは様々な事情を考え前任が必死にひねり出した苦肉の策であったようだった。その事情に私が絡んでいたとなれば、さすがに無視もできない話である。
この世界において、私が天界に生まれるのは確定していたのだが、天界は元々生命の誕生が極端に少ない界である。
とある事情により私は生まれてすぐに堕とされるのではないかと推測されており、それが少しずれたとしても、かなり幼少の時点で墜ちる可能性が非常に高かった。私はこの世界で『上』が一番期待した潜入戦闘官であり、まだ弱い幼少期に死なせるわけにはいかない。そう判断した前任潜入官は、私がいつ堕とされたとしても対応する為、孤児院の人間に近づきこの世界の子供に教えるべきことを学んでいたようなのである。
前任は調査を主とした調査官であり、戦闘班の者ではなかったが、情報収集については高い能力を有していたようだ。もちろんこの世界の人間やモンスターに比べれば戦闘能力も十分高いのであるが、前任は極力それを控え、錬金術士として名を上げ情報を得ることに役立てていたらしい。私は彼の弟子としてここで暮らす筈だったのだ。
この世界で、薬師の上位に立つのが錬金術士である。薬師では扱えない、高い効果を誇る薬品を扱う者、錬金術士。当然命を救う力を持つ薬品のほとんどは錬金術士が生み出しており、随分と活動範囲では重宝されていたらしい前任は、私に多くの情報を残している。特に重要なのは、この世界のモンスターについてや魔法について、そして、何より、確定黒判定を受けた者たちの情報と、判断条件基準。この世界が破滅に向かう原因を今もなお担っている者たちなどの情報は、私の特殊スキル、情報視覚化能力で常に確認可能だ。前任は、私が生活し、任務を遂行する為の基盤を作ってくれた人物なのである。
その彼が、私をなんとか育て上げる為接触した孤児院。それを知ってできる限りの支援は行いたいと思ったのだが、転移魔法がないこの世界、幼い子供たちを連れてこの森への移動は、危険が伴う。どうすべきかと残された書面を読んだ私は、その危険な任務を遂行することを結局決めることとなる。
詳しい情報は開示されていなかったが、ここに数名の子供を保護するのは優先任務の一つに指定されていたのだ。ならば、前任が声をかけているという孤児院の子供たちを連れて行くのが自然であろう。
予想はつく。もし万が一、『最悪の事態』、世界の破滅に王手がかかった時、僅かでもこの世界の子供を残そうとする意図である筈だ。だがそれはあくまで最終手段であり、ここに孤児院の子供たちがいれば破滅してもいいというわけではない。万が一、億に一つでも可能性があれば、……例えば私が何らかの原因により任務達成前に死亡した場合、だとか。上が干渉できる唯一の場所として、やたらと術の施される建物を私に託したのだろうということは、予想がつく。これは深く考えるべきではないのかもしれない。ここに保護できない子供が死んでもいいとは思えないのだから、私はあくまで任務を遂行することを考えるしかないのだ。
前任もそれは同意のようで、前任がここを孤児院としてほしい理由はいくつか別に記載されていた。それもまた、重要な内容が多い。
例えば、この場所を選んだ理由。ここは比較的モンスターの活動が穏やかな東の国とされているが、実際は西側にある隣国であるソントレス皇国との境であり、私たちがいる位置は隣国にかなり近いが、特に足を踏み入れるのに障害があるわけではない。かなり大きな国である東の国と、皇都一つしかない小国である隣国は様々な理由から良好な関係が保たれているようで、出入りが自由なのだ。そしてそれは、私が目的地の一つと定めているソントレス皇国のさらに西にある国、ドラゴンの住まうレイムディーク国に向かうにあたっても、かなり役立つだろう。文字通り私の初期活動拠点となる。
また、この界では子供が生きる為に仕事をする、というのは珍しくなく、例えば農村では子供たちが畑を手伝っていたり、街では店先で販売の手伝いをしていたり、優秀な魔法を扱えるものは早くからそれを磨くことも多い。学校に値する施設が非常に少ない為に識字率は都から離れる程低くなるが、皆幼い頃から生きる為に仕事をする世界だ。だが孤児院では稼ぎ手が子供ばかりで常に貧困に苦しめられていることも多く、しかし街にいれば国から僅かばかりの支援があることから仕事斡旋については伝手が少ないため大した仕事も得られない悪循環に陥っており、あまり環境も良くない。
前任は任務で数名子供を保護しなければならないことを知り、その子たちに錬金術士の彼は生活に欠かせない魔力石の生産の指導や、特殊な薬品の製作を手伝ってもらおうとしていたらしい。それは小さいことの積み重ねにはなるが、この世界の浄化の役割も担おうとする試みだった。なにせ指導する環境がないだけで、この界の子供たちは魂の穢れが少なく、良質なものを生み出すだろう。その手で生み出されたものは、もしかしたら破滅の一歩を遅らせることができるかもしれないのだ。……もしかしたら契約するかもしれないことになった今、異世界から来た彼らにもこの辺りは説明したほうがいいだろう。
さらに、子供たちそばにいる環境で暮らすということに関しても、重要な意味を持っていた。つまり、多くの理由から前任が考え出した苦肉の策なのだ。
「あとはこの人、か」
書類に記載されているのは一人の女性。孤児院で子供たちを守っているこの女性は前任が私が幼少期に墜ちてきた時の場合協力を仰ごうとしていた人物であり……前任の、運命共同体候補、だった人。彼の恋人であり、死後その魂を貰い受ける約束をしていた人物。非常に残念なことに、それを決めた時には既に前任の滞在期間が長期に渡っており、契約する力が残っていなかったらしい。彼女は契約を受け入れており、こちら側の事情を知る人物。
――なんとか彼女をこの残した施設に保護してほしい。
それが前任の、任務ではない、私への依頼。これは、遂行したかった。
くしゃりと手の中で僅かに書類が歪む。すりつぶした薬草も片づけ、一息ついたのは既に日付も変わった頃だろうか。
睡眠時間を人間より必要としない私はまだ起きていても問題ない時間帯だが、とっくにナツとトーヤは寝ているだろうと思ったその直後。
「ルティ、ルティ! 起きてるか、ちょっと来てくれ!」
ひどく慌てたような声と、ドンドンと扉を叩く音。何事かと顔を出せば、薄明かりの中、顔色の悪いトーヤが、がしりと私の肩を掴む。
「ナツがやばい! なんか魔力がうねって、苦しそうっていうかっ、とにかく来てくれ!」
息を飲むと同時に、やはりとどこか頭で自分の声がする。精神力が非常に高い彼は、魔力の器として優秀だ。だがそれが突如として得た……異世界転移という強引な手段で得たものだったせいで、肉の器が追いつかなかったのだろう。それは即ち……死を意味する。
「くそが、だから異世界転移は禁忌だっつの馬鹿野郎!」
今生きてるかもわからない彼らの召喚主を罵りながら、私は部屋を飛び出したのである。