辻斬りと少女
辻斬りがあった。
この話を聞いたとき私は現実味を感じなかった。日本にサムライがいたのは百四十年近く前の話だ。街のどこを見渡しても刀を腰に下げている人はいないし、ちょんまげ頭もいない。おそらく忍者だっていないに違いない。
だから、辻斬りと言われても時代劇の話かと思うくらいだ。だが、話を聞いてみると私の住む四之山市の繁華街で日本刀を持った男が、若い男性を正面から切り捨てたのだという。理由は分からない。犯人は血まみれの刀を鞘に収めると悠々と自転車にまたがり夕暮れの街に消えていったらしい。
監視カメラには男の姿がはっきり写っていたし、目撃者も多かった。だが、いまだに犯人は捕まっていない。警察は何をしているのか、と言いたくなる。この事件はテレビでもくり返し報道された。見知った場所がテレビに映るというのは不思議な感覚で、どこか別の場所のことのように見えた。
事件の影響は少なからず私にもあった。私の通う高校では放課後の部活動をしばらくのあいだ中止とした。おかげで私は暇になった。私が高校に行く理由の大半は友達と会うことと部活をすることだった。その部活がなくなると私は何もすることがなかった。
小学校のころに始めたソフトボールは日焼けの跡がかっこ悪いことを除けば私の性にあっていた。白球を投げるのは気持ちよかったし、バットで思いっきりボールを打てば大抵の苛立ちは発散することができた。だから、部活動が中止となって一週間が過ぎるころには私は行き場のない衝動でいっぱいになっていた。
「あんた、そんなにソワソワするくらいならロードワークでもすればいいでしょ」
テレビを観ながら貧乏ゆすりをしていた私に母は、あからさまに苛立った様子で言った。
「辻斬りに会うかもしれないじゃん」
「あんたみたいな落ち着きない人間、辻斬りだって襲いはしないわよ。それに走ればあんな年寄りよりあんたの方がよっぽど早いでしょ」
何度も放送された犯人の映像は、どこにでもいそうな老人だった。しわしわの肌に薄くなった頭。手に日本刀を持っていなければ気にもならない風貌だ。きっと百メートル走をすれば三秒以上の大差をつけて私が勝つに違いない。
「そりゃ、そうだけど。普通、世の中の母親はこういうときは家から出るなって言うもんじゃないの?」
「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花みたいな可愛らしい娘ならそう言うけど、立てば向日葵座れば朝顔歩く姿は彼岸花みたいな娘のどこを心配すればいいのよ」
確かに私の身長は高い。男子と比べてもそう変わりはない。座っていても落ち着きがない。歩く姿などはあぜ道に生える彼岸花のように目立つに違いない。とはいえ、実の娘に対してひどい言い草ではないか。私は頬を膨らませてみたが、母がタオルと一緒に千円札を突き出したのを見て諦めた。
「ロードワークのついでにカレー粉買ってきてちょうだい。お釣りはお小遣いにしてあげるから」
「はいはい。分かりました。もし、辻斬りに襲われでもしたらお母さんのせいだからね」
「辻斬りだってあんたみたいな独活の大木よりも可愛らしい竜胆とか霞草みたいな娘を狙うわよ。相手にだって選ぶ権利があるわ」
とことんひどい母親である。
とはいえ、一週間もじっとしていたのでロードワークというのは悪い話ではない。私は制服からジャージに着替えるとはきなれた運動靴に足を入れた。あとはイヤホンを装着してプレイヤのスイッチを入れる。これだけで頭は走ることだけに切り替わる。
我が家から最寄りのスーパーまでは最短距離で一キロ。これだと物足りないので、自然公園の林道を通るコースにしよう。そうすれば片道二キロとなり往復で四キロだ。夕飯前の運動としてはちょどいいに違いない。
「じゃ、いってきます」
玄関を出ると背後から母の気がない声が聞こえたが、音楽にかき消されてほとんど聞こえなかった。
走り出すと気分がいい。昔から私は頭を使うよりも体を動かす方が好きだった。なぜかは分からない。だけど大きくジャンプしたときの浮遊感や全力で走ったときの風の感触、そういうものがどうしようもなく気持ちよかった。
友人に言わせれば、運動が好きな奴は被虐趣味の変態だ、ということだが私はそれは違うと思う。
鋪装された道路から林道に入るとシューズ越しに感じる感覚が変わる。土や雑草がクッションのように柔らかい。跳ね返るようなアスファルトの感じとは全く違う。私はどちらかと言えば硬い地面の方が高く飛べたり、速く走れそうな気がする。
林道は、四乃山天満宮の裏に広がる鎮守の森をぐるっと回るもので人気がない。無駄に飛び跳ねようと鼻歌交じりで走ろうが誰かに見られるということはない。私は何度かジャンプを繰り返した。別に何か意味があったわけではない。ただひさびさの運動で気分がハイになったのだ。
六度目の跳躍を決めたときだった視界の先に一台の自転車が見えた。私は少し恥ずかしくなって左右を見回した。幸いなことに誰かが居る様子はない。私はペースを落として自転車の方に近づいた。自転車は年季が入ったママチャリでスタンドが上がったまま倒れている。
こんな林道になんの用事があるのか、と思っていると自転車から十メートルほど先にひとりの男性が倒れていた。服の上には風で飛ばされたのかこの葉が数枚ついている。男性はピクリとも動かない。私はゆっくりと男性に近づいた。うつ伏せに倒れている男性の顔を覗き込む。年の頃は七十歳くらいだろうか。顔色は土色でどう見ても生きているようには見えなかった。
警察に電話しようとジャージのポケットに手を入れるが、携帯はここにはなかった。小さなミュージックプレイヤと千円札しか入っていない。私はロードワークの途中出会ったことを思い出して自分が相当に焦っているのだと気づいた。大きく息を吸い込むと少し落ち着いた。
私が死体を見るのはこれが二度目だ。一度目は一昨年に亡くなった祖父だった。脳梗塞で倒れてそのまま祖父は死んだ。葬儀のとき棺桶に横たわる祖父が私の初めて出会った死だった。テレビや映画で見る死と違ってそこにはなんの華やかさも物語もなかった。
老人もここでいきなり死んだのだろう。自転車に乗っていて脳梗塞か心筋梗塞でも起こしたのか。少なくとも男性は辻斬りに襲われたわけではないように見えた。自転車の周りも死体の近くにも血のようなものはない。ただ、老人は杖のようなものがしっかりと握り締めていた。
それが偶然だったか直感的に分かっていたのか、と問われれば分からない。でも、私はそれが日本刀だと思った。そして、この老人が巷を騒がしていた辻斬りなのだと私は確信していた。死体からそれを奪い取ると確信は、現実になった。
それは思っているよりも軽かった。黒塗りの鞘を抜き払うと鈍色の刃が蠱惑的な光を見せた。雲霞のような波紋は角度を変えるだけでいくつもの顔を見せた。考えてみれば、私はこのときから魅入られていたのかもしれない。
幸いここには私と死体しかいない。とがめる者はいようもない。この老人だって辻斬りとバレるよりもただの行き倒れとして扱われる方を選ぶだろう。
私は刀を手にしたまま、その場から走り出した。
辻斬りが捕まったという知らせがないまま二ヶ月がたった。
最初のころこそ、部活動の禁止を決めていた高校もらちがあかないこの事件に警戒することをやめた。このころ私は、人を斬ってみたいという欲求を必死にこらえていた。事件の映像を見たとき、私は犯人の太刀筋を美しいと思った。
私は剣道をやっていたことはないが、映像でみた老人の動きはただ斬るというその一点で完成されていた。どんなものでもあることに特化しているというのは美しい。ひたすらにバネを巻く機械の動きはいくら見ていても飽きないし、ガラス瓶に飲料をいれる機械なんて動く芸術ではないか、とさえ思える。
反対に応用が効くというものは美しくない。
例えば掃除機がそうだ。床掃除だけではなく壁と棚の間も吸引できますというが、わざわざアタッチメントを交換しなければならない。他にもスマートフォンに最初から付いているアプリなんていらないのにごちゃごちゃとダウンロードされている。使う人がほとんどいない機能やアプリなんてものはずばっと外してしまえばいいのにどうして増やしてしまうのか理解できない。
人間関係だってそうだ。
先輩や後輩。先生やPTAの人。人類みな平等とか言いながら礼儀や慣例、よくわからないしきたりなんてもので散らかっている。平等だというのならもっとドライにできないものだろうか。そうは思いながらも私はそれらを綺麗にすることはできなかった。だからこそ、人間でありながら斬るという動きに特化したような辻斬りは私を魅了した。
何十回、何百回、何千回と彼の動きを追った。
自分でも同じ動きができるように繰り返した。それをするたびに私の心の中に人を斬りたいという欲求が生まれていった。私は空想する。私の手には刀が握られている。私はそれを振るう。サラリーマンをすれ違い際に肩から切裂き、ぎゃあぎゃあとうるさい同級生の首を刎とばす。私の手にした刀は弧を描く。そこにブレはなくただ一つの現象のように振り抜かれるのだ。
「愛梨さん。ねぇ、愛梨さんってば」
声に気づいて視線を動かすと同じ部活の竹里が立っていた。彼女は背中にバットケースを背負い、手には大きなスポーツバッグを握っている。どうやらいまから部活に行くのだろう。
「あ、ごめん。考え事してた」
「今日は雨だから体育館で筋トレだって」
竹里はそれだけを言うと部室の方へと歩いて行った。彼女と私は一年のときからレギュラーだった。だけど、このところ竹里は成績を落としている。理由は簡単だ。彼女は無駄が多い。守備にしても打撃にしても日によって癖が変わる。先輩や先生が言ったくだらないアドバイスさえ取り入れようとする。そんなことをすれば無茶苦茶になるのはすぐにわかるはずなのに彼女はそうしない。
シンプルであることそれが最善なのだ。
私は机の脇にかけてあった鞄を手に取ると彼女のあとを追って部室へと向かった。その道中、私は空想の中で五、六人の生徒を切り捨てた。
深夜、私は思い出したように刀を抜いてみる。
スラリと伸びた刀身はどこか妖しい光を私に魅せる。これが優美に見えるのは用途がすでに決まっているからだ。よくテレビで出てくる凶器はバールであったり包丁や灰皿。ときに毒蛇だったりする。だけどそれらの用途は本来、殺人のためではない。だから、違和感を感じる。
その点、日本刀は殺すためのものだ。凶器として正しいものだ。
人殺しは悪いことであり、そのために刀を振るうのも良いことではない。だが本来、凶器ではない包丁を振るうような狂気はそこにはない。なぜなら道具を正しい用途で使うことは正しいはずなのだから。私は少しだけ空想する。この刀を振るったらどれほど気持ちいいだろうか。しかし、それはいけないことだ。
なぜなら、これは人を斬るのものだ。
使うのならば人を斬るために使わなければならない。
刀を鞘に戻して私は眠りにつく。今日は少しだけいい夢が見られそうな気がした。
辻斬り事件から四ヶ月後、私の欲求はいよいよ限界を迎えていた。
空想の中で何百人という人を殺しても私は満たされなかった。だから、殺した。最初は犬や猫と言った動物だった。彼らは自分が愛玩されるものだ。守られるものだと錯覚しているのか私が刃を突き立てるまで愛想を振りまいていた。
まったくおかしい話だ。
鼠を捕るわけでもない。羊を追い込むこともしない。何の役にも立たないのにペットであるだけで優しくしてもらえる、と思い込むなんて。人間だって役に立たなければ意味がない。愛されることも尊敬されることもない。私は無能者が嫌いだ。また同じくらい凡百を憎んだ。だから、動物の次に選んだのは脳みその足りない同級生にした。
彼女は自分の頭の悪さを可愛さだと誤認している人間だった。
白菜とキャベツの区別もつかない私って可愛いでしょ? そういって笑う女の子だった。彼女の周りの人間は思っていたはずだ。こんな馬鹿が生きていてもなんの意味もない。人一人分のスペースが無駄に使われている。彼女を殺すのはひどく簡単だった。
彼女は彼女と同じくらい馬鹿な子たちと繁華街を遊び歩いていた。そして、世の中に危険はないと信じきったようにバラバラに家路に着いた。深夜の住宅地に人通りはない。私は優しく彼女に声をかけた。彼女はひどく驚いた様子で振り向いたが、相手が私だとすぐに気づいて脅かさないでよ、と微笑んだ。
それは犬猫と変わらない自分が無条件に愛されるべき存在である、という顔だった。
だから彼女の首筋を裂いたとき彼女はひどく驚いた顔をして口をパクパクと動かした。その様子が金魚のようで私は彼女を心底から気持ち悪いと思った。それでも気分は良かった。こんなに簡単で気持ちがいいのならもっと早くからしておけばよかった、と思ったほどだ。
私は鼻歌を歌いながら家路に着いた。
誰も見ていない夜の闇が私を隠していた。
同級生が死んだ。
そして、テレビではまた辻斬りの犯行ではないか、と騒ぎ出していた。だが、私はそうではないことを知っている。なぜなら辻斬りの老人はすでに死んでいて、彼の日本刀はいま私が持っている。また、部活動が中止になるかもしれない。そうすると私はこの刀を眺めることが増えるかもしれない。いや、確実に増える。それだけは確信できた。
学校にはたくさんの報道陣が来ていた。正門では先生たちが校内に入らないように叫んでいるが彼らはそんなことお構いなしに登下校する生徒にマイクを向けていた。なんでも辻斬りに切り殺された男性と彼女は顔見知りだったのだという。
だが、それがどれくらいの仲だったのか、ということはどこの番組でも言わなかった。
四之山市は小さな地方都市だ。知り合いの知り合いからそのまた知り合いを紹介してもらえば、誰とだって知り合いになれるそれくらいの規模しかない。体育館で臨時の集会があり全校生徒で黙祷をした。下級生や上級生の中には少しふざけた態度をとるものもいたが、ほとんどの生徒が彼女を悼んでいるように見えた。
不思議なものだ。
私は自分が冷たい人間であると自己嫌悪に陥りそうになりながら校門をでた。そこで顔見知りが報道陣に囲まれているのを見つけた。部活の同級生だった。彼女はなにやら取材の人たちに話していた。私が知る限り彼女はとくに死んだ女生徒と仲が良かったわけではない。それがあれだけ喋れるというのはなかなかのものだ。
もしかしたら、彼女も私と同じくらい冷たい人間なのかもしれない。
同級生を殺したあと、私の浮かれた気持ちは一週間も持たなかった。
殺したいのだ。
自分でも呆れるほどのこらえ性のなさだった。欲求というのは抑えがきかないものだ。次は誰にするものか、と考えたとき黙祷のときにはしゃいでいた生徒の顔が思いついた。確か彼は上級生だったはずだ。私は丁寧に一枚の恋文をしたためると次の日の朝に彼の下駄箱に放り込んでおいた。
『あなたのことが前から好きでした。今夜十時に四之山自然公園で待っています』
こんな馬鹿らしい手紙で彼はやってきた。
「君か。俺が好きっていうのは。こんな場所に呼び出すなんてとんだ恥ずかしがり屋だな」
すかすかの頭で警戒することなく現れた彼の心臓を私はひと突きにした。首を斬るよりも如何にも人を殺したという感触があった。心臓を刺すと返り血があるのではないか、と着替えを用意していたがその必要はなかった。
衣服が壁になって血が噴き出すことがなかったからだ。
私は少しだけ残念な気がしたが、すぐにどうでもよくなった。今の私は人を殺すそのための機能しかないそう思えたからだ。無駄なものが削ぎ落とされていく気がした。そして、今以上にもっと殺したい。この欲求を満たしたい。
そう思うと愉快になってきた。
大声で笑ってやりたいそう思えるほどだったが、いまは目の前で死んでいる男子生徒のために我慢しよう。だって私は黙祷のときに騒いだりするようなお調子者ではないのだから。
さらに生徒が殺されたことで学校への取材はさらに激しくなった。
登下校では誰彼かまわない通り魔のようなアナウンサーや記者が五メートル間隔で並んでいて一部の生徒たちがなにやら訳知り顔で取材に応じている。私はと言えばそれを何とも言えない気持ちで眺めるだけで関わりもしなかった。
そんな落ち着かない日々であっても時間だけはしっかりと進んでいた。私の所属する部活もインターハイ予選が始まったのだ。事件以降、部活動は向き中止となっており、個人練習はできてもチームでの練習は全く出来ていなかった。
結果は惨敗であった。
三年生にとっては後悔が残るに違いない。もっと練習ができていれば勝てない相手ではなかった。そう思える試合だった。だから、涙を流す先輩たちを見て私は罪悪感を感じずにはいられなかった。ひとしきり泣いたあとキャプテンを務めていた先輩は、私に言った。
「次の主将なんだけど」
家に帰ったあと試合を思い出した。
ひどい試合だった。いくらろくに練習ができなかったからといって五点差をつけられるなんて考えられることではない。確かに部活動を中止にさせたのは私が犯した殺人のせいだ。だから、この点はどのように非難されても仕方がない。
だが、同じくらいひどい人間がいた。
同級生の竹里さんだ。彼女は二番打者を任されながら一度もヒットを出さなかった。一番打者である私がいくら塁に出ても後ろが続かないのでは意味がない。前からムラの激しい選手だと思っていたが、今日のは特別にひどかった。
打席ごとにフォームが違う。
選球眼が甘い。
打つという気がないのではないか、そう思ってしまうくらいだ。
だから、私は思った。次は彼女を殺そう。先輩がいなくなったあとの主将は私だ。そのチームに彼女は必要ない。いても皆に気を遣わせるだけだ。
翌日、彼女は直ぐに見つかった。やる気もないのにバットケースを背負ったその姿はいかにも「昨日のことを気にして練習するんです私」と言っているようで気分が悪かった。彼女は校門まわりにいる報道記者から逃げ回りながら校内に逃げ込んだ。
「竹里さん」
声をかけると彼女はひどく驚いた顔で私を見た。昨日の今日だ。私と顔を合わすことすら気まずいのだろう。だけど、それは今日だけで明日からは顔を合わすことはない。なぜなら、あなたは今日死ぬ。私はそう教えてあげたかった。教えてあげたら彼女はどんな顔をしただろう。
「愛梨さん……。おはよう」
「昨日のことなんだけど話があるの。放課後いい?」
彼女は私と目線を合わさずに「はい」と答えた。
それから放課後まで私はいろいろな想像をした。彼女の首を切ろうか。それとも手足の筋を断って動けなくなったところで殺そうか。背後から心臓を貫いてやろうか。とても楽しい時間だった。放課後の鐘の音がなると私は部室へと向かった。
誰もいない部室はがらんとしていた。
もうすぐここで彼女を殺すのかと思うと私は胸が弾んだ。
「愛梨さん、早いね」
竹里は通学鞄を机の上に置いた。彼女がバットケースを背負ったままだったので後ろから心臓を狙うのは難しい。私は少し予定を変更して正面から彼女を殺すことに決めた。
「ええ、それで話なんだけど」
「次のキャプテンのことだよね」
「そうなの。このチームでずっとレギュラーだった二年は私たちだから今のうちにと思って」
私は出来るだけ優しい声を彼女にかける。彼女はずっと俯いたまま私の言葉を聞いた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……私ね。部活を辞めようと思うの」
「そう」
私は驚いた。彼女はヘタなりにずっと努力はしていた。だが、私にとっては好都合だ。不要な人間が自ら辞めてくれる。でも、残念なことがある。私が彼女を殺す理由がなくなってしまったのだ。せっかく、いろいろな方法で彼女を殺そうと考えていたのにできないなんて最低の出来事だった。
「これまでありがとう。じゃあね」
彼女はそう言って去っていった。私が狐につままれたような気分でいると、部室の扉が開いた。
「あら、愛梨。部活はないわよ」
「主将こそどうして?」
「引退だからね。荷物を持って帰ろうと思ってね」
主将は短く切りそろえた髪を揺らしながらロッカーからジャージやテーピングを乱雑にカバンに放り込んでいく。彼女はあまり上手な選手ではなかった。昨日の試合でも四番としての活躍はほとんどなかった。私はこれは神の采配ではないか、と思った。
竹里さんの代わりに主将を殺せばいいのだ。
幸いにも彼女の家は私の帰り道とだいたい一緒だ。
「せっかくですから、一緒に帰りませんか?」
私が言うと主将は少し考え込んだあと「いいよ」と笑った。
「途中で四之山天満宮の方に寄ってもいい?」
「いいですけど、なにかあるんですか?」
「うん、ちょっと待ち合わせ」
「恋人ですか?」
冗談めかせて言うと彼女はひどく驚いた顔で「それならいいんだけどね」と複雑な顔をした。
私はたわいもない話をしながら主将を見つめた。警戒することなく私の冗談に笑い。ときに冗談で返してきた。だけど、私の頭にはそのほとんどが入ってこなかった。なぜなら彼女を殺すことだけが私の関心事だったからだ。そっとカバンの中に手を入れるとナイフのひんやりした感触が伝わる。その冷たさが私を冷静にした。
四之山天神の境内は静かだった。夕暮れの神社は朱に染まっていてまるで血の入った桶をひっくり返したようだった。主将は辺りを見渡して「まだいないか」と呟くと私の方を見て真剣な顔をした。
「あのね。愛梨。あんたは上手い。才能が有る。今の部員のなかじゃピカイチだ。でも、それじゃ部員はついてこないんだよ。次の主将だけど竹里に頼んでる。悪いけど、こればかりは能力じゃないんだ。人としての」
主将の言葉を私は最後まで聞かなかった。
私は怒っていたのだ。竹里が主将? ありえない。あんな下手くその後塵に私がつくなんて正気の沙汰ではない。だから、私は主将の身体に何度もナイフを突き刺した。最初は悲鳴を上げた主将もいつの間にか何も言わなくなった。
「愛梨さん、何をしているんですか?」
血に染まった手とナイフが背後からの声に震える。振り返るとそこには竹里がいた。
「なにって主将を殺していたの」
「殺してって……」
「ホントはね。部室であなたを殺すつもりだったの。でも、あなた帰っちゃうから。主将を殺すことにしたの。つぎの主将は私じゃなくってあなたなんだって。よりにもよってあなたみたいな下手くそがよ」
竹里は怖がる素振りを見せなかった。それが私をさらに苛立たせた。人殺しが目の前にいるというのにどうして怯えないのか。竹里は私を甘く見ているのかもしれない。なら、教えてあげよう。
「でね、竹里さん。隠してたんだけど、最近の事件は全部私が殺したの」
「そう。あなたが殺したの。でも、どうして?」
竹里は悲しいような顔をして私に問いかけた。
「辻斬りの映像。あなたは見た?」
「見たよ」
「なら、あなたは思わなかった。あの太刀筋の美しさ。あんな風に人を殺せたらどれだけ気持ちいいだろうって」
「思わないよ」
竹里は小さな声で答えた。そして、彼女はどこまでも凡庸な人間だった。あの美しさがわからないのだから。
「そう。それは残念ね」
私は血に染まったナイフを振るった。刃先は竹里の日に焼けた首筋を切り裂くはずだった。
しかし、竹里は背負ったバットケースを横薙ぎに払ってぎりぎりで軌道をそらしていた。だが、刃をモロに受けたバットケースはだらりと口を開けるように裂けていた。もう、受けることはできない。私は笑った。
「太刀筋は分からない。でもあの刀だけは綺麗だったよ。本当に」
私は彼女が何を言っているのかわからなかった。ただ、彼女がバットケースから取り出したものがなにかだけは分かった。日本刀だ。なぜ、彼女がそんなものを持っているのか分からない。
竹里はそれを無言で抜き払うとすっと上から下へ撃ち下ろした。
それはとても綺麗な斬撃で三日月を切り取ったように見えた。あとは痛いだけで私には何も見えなかった。
愛梨さんを殺した。
刀を刀として使った。その結果は人殺しという事実だ。
私はどうしたらいいのだろうか。
握り締めた刀を見る。彼女の血が付いたそれはひどく赤くて熟れた果実のように甘そうに見えた。