落とし穴
俺は夜の森に足を踏み出した。
今度の家は入口の窓も出口のテラスも足場がよかった。家主は久遠秀介。都内に車用部品の会社をいくつか持つ資産家。妻・貴美子と娘が一人いる。3人は普段都内の高級マンションに住んでいるが、たまに都外近郊であるこの別荘に泊まりに来ることがある。そして2日ほど前からこの家には実際に3人が泊まりに来ているのだ。しかし今日は秀介は地方出張でこちらに帰ってくる可能性はかなり低い。貴美子は社長夫人同士の茶会で夜遅くまで帰ってこない。娘は林間学校で家には帰らない。つまり人の帰る家だがほぼ空家なのだ。
室内に侵入し、金庫とそれなりに金になりそうなものをバッグに入れ、若干中のものを片付けてから外に出る。片付けるくせはもともと綺麗好きだからだ。テラスから出ると、家の裏に広がる深い森に入る。ここから2km先に出ると国道があり、逃走用バイクがそこにある。
足元の悪い山の中に入り、周囲に気を配りながら前に進んでいく。しかし、1kmほど歩いたところで、突然足場がなくなった。
いや、抜けたのだ。冷たい土の感触をわずかに感じた気がしたが、そのまま穴に落ちた。
穴はもともとそこに空いていたようだ。しかし狭い。というのも、人2人分なのだ。
2人分なのに狭く感じる理由は、実際に俺のすぐ下に人がいたからだ。最初は幽霊かとゾッとしたが、触れた感触が暖かく生身の人間だという確信があった。
人、いや、少女は無事だった。
「なんで!?」甲高い声が耳に響く。
「い、いや、え?」
「なんでひとがいるの…」
お前こそなんでこんなところにいるんだ。
ショートカットの華奢な少女は俺が乗ってきたあたりの足をさすりながらこちらをジロジロと見た。
「君もこの穴に落ちたの?」
「・・・自分でほった」
「自分でほって、自分で入ったの?」
「・・・掘ってたら、入ってた」
「・・・なんでそんな、」
どれくらい長いあいだほっていたのだろうか。
少女は俯いたまま何も言わない。白い顔に土がへばりついている。
「誰かを、待ってたの」
意味深な言葉だが見た目小学生の少女の目は真剣だ。
「誰を」
「…わからない」
わからない誰かを、彼女は待ってた。
少女の鼻先を待つため、しばらくその場に残ってみることにした。ここで抜け出せたとしても、俺の気持ちはおそらく腑に落ちないままだ。
「随分深くまで掘ったんだな。おじさん、全然見えなかったよ」
「怒らないの?」
「なにが」
「こんな時間に、子供がこんなところでなにやってんだって。危ないって」
もとは育ちのいい子供のようだ。
「まあ、誰にだって穴に入りたくなることはあるさ。正直困ってるけど」
「出てっていいよ、おじさん出れるでしょ」
「出ていいって言われたって、小さい子供をこんなところに置いていけないだろ」
「10歳です小さくないです」
小さなじゃじゃ馬娘は頬を膨らませる。少々面倒くさい年頃だ。
「10なんておじさんの4分の1も生きてないぞ。」
「おじさんが長生きなのよ」
「このご時世にその言い訳は厳しいぞ」
「いいからでてってよ」
「待ってたんだろ。助けを」
「違う・・・!」
少女の声が震える。外の寒気が容赦なく二人を冷やす。
「・・・来てくれるかなって」
月明かりが彼女の頬に伝う涙を照らした。同時に俺は彼女の頬や首に数箇所の痣を発見した。
森の中で傷つけたものではない。怪我ではない。
虐待、いじめ、暴行。
それは、栄養がちゃんと行き渡っていないようにみえる細い体と血の気の失せた表情からもわかった。
「・・・お母さんを迎えに呼ぼうか」言葉を選んだが物を盗む取り柄しかない俺に語彙力はない。直接聞き出した。
「・・・今日も、お友達の人たちと、お茶会」
「お父さんは」
「・・・ずっと家を出てる。でもお仕事じゃない。きっと、また女の人と遊んでる」
間違いない。
久遠葵、久遠秀介の一人娘だ。林間学校に行っていたはずの。
しかしここにいるということは休んだのだろう。もしくは痣がまだ新しいことから、最中に暴行を加えられ、自力で帰ってきたのかもしれない。
両親のいない別荘からさらに奥深くの無人の森の中で、彼女は小さくなって凍えていた。両親からも、学校からも見放されて。
「二人共、私を見てないから。見てくれるって思ったから。こういうことをすれば」
俺はいま、彼女の両親の居場所を掴んでいる。しかしその場所にふたりがいるとすれば、この深夜に1時間以内に迎えに来るのはまず難しい。
「でもねえ、おじさんはやっぱ、君をひとりにはできないんだよ」
「通報はしないで・・・」弱々しく彼女が言う。
「しないよ。それはおじさんも困るから」
笑っていうが彼女はきょとんとしている。
「おじさんもここで死ぬよ?」
「大人をなめるな。簡単には死なないよ。それにおじさんは職業柄、ほかの人よりおそらくしぶとい」
そう言って俺は彼女に上着をかけた。両腕をさすると、細くて折れてしまいそうな感触がある。
「よそのおじさんに気を許すのはよくないんだぞ」
「いいよ。誰も来ないで死ぬよりいい。」
本当に死ぬ気だった。それでも、待っている。「生きたい」という感情が、彼女の中にはまだある。
絶対に、死なせない。
「君によく似た子供を知ってるんだ」
両手をさすりながら、彼女があ俺の方を見る。
「その子は親たちがあまりにも自分勝手で次第に不良のようになっていってな。それでも親の監督が行き届かず、高校生のうちにはタバコや無免許バイクなんてしてた」
言葉の意味が彼女に通じるか不安だが、とにかく続ける。
「親は時に理不尽でわがままで、人によっては永遠に子供だ。その子の親もそうだった。こどもがそうなったのは自分のせいではない、育児放棄した夫のせいだ、育児が至らなかった妻のせいだと喧嘩ばかりで、それがおさまれば逃げるように自分の世界に入って子供をほうっておく。子供もすっかり親と口を利かなくなってな」
彼女は静かに俺の話を聞いてた。カタカタ震えてた体が、次第に大人しくなる。
「ある日、バイクを運転してたその子は、トラックと正面衝突して意識がなくなった」
沈黙。声が詰まる。外の寒風の音と、何か動物が蠢く音だけがする。
「その子は植物状態になった。しかも、いつ心臓が止まってもおかしくなかった。親は離婚し、母親はどこか別の男と再婚した。父親は、消息不明だ」
彼女は驚いた様子もなく俺を見てる。
「あくまで知人の話だから何とも言えないけど、親には監督って義務がある。特に君みたいなまだ小学生の子供を放っておくなんて、俺には許せないんだよな」
「その人は、今も植物状態のまま?」
俺は「さあな」と答えた。雲の流れで月明かりがさっきより強くなる。彼女の表情が、心なしか少し穏やかに見えた。
「君の親がもしずっと君のことを見てないっていうなら、やっぱ少し危なくても伝える必要はあるよな」
少女がこくり、と頷く。
「でもこの穴は少し効率が悪いよ。俺普通に落ちたし」
「おじさん、泥棒でしょ」
ぎくりとした。泥棒らしい格好はしていないつもりだったが、4年ほど稼業しててはっきりバレたのは初めてだ。
「なんでそう思うんだ」
「穴掘ってる時に窓から出るの見えたから。私すごく目がいいの」
子供の観察力は時に大人を凌ぐ。ここでまたいい勉強になった。
「何を盗んだの?うちから」
「まあ、泥棒だから金目のものばかりだ」
バッグをちらりと見ると、彼女ができましたおもむろにカバンを奪って開けた。
正直ここでとられても悪い気はしなかった。
「もっととればいいのに」
「は?」
「うちが貧乏になれば、眩んだ目がさめるかもしれないのに」
それを聞いた時、一つ案が浮かんだ。
「…なあ、ちょっと賭けてみないか。君の親に」
翌朝、森林深くに冷え切った少女が倒れているのが発見された。
少女は身体中に暴行を加えられてた。家には何者かが侵入した形跡があり、1億円相当の資産が盗まれていた。
彼女は目を覚ますと、恐ろしい男に森につれていかれ、暴行を加えられ穴に落とされたと言った。出張中の父親は飛んで帰宅し、彼女を抱きしめた。母親は失った額を知って青ざめたが、彼女の生存を確認すると途端に涙を流した。
親も子も、大切にされていた。
親も子も、大切にしあっていた。
そのことに気づけたのだ。
彼女につれられて家中の金物を回収してる時、「通報してもいいぞ」と言ったが、全く通報されなかった。また、身元不明の男の似顔絵も公表されたが俺とは真反対の男性が描かれてることから、警察に知らせる気はさらさら無いようだ。
「葵、何か食べたいものはある?」
「大丈夫」
久しぶりにお母さんと会話をした。お母さんは普段よりずっとみすぼらしい姿になったが、その分ずっと優しくなった。
病院のベッドで過ごして3日が経った。もう怪我も大丈夫だけど、警察や親には男にあれこれされたと言ってしまったため、多くの検査を要している。入院が延びたのはそのためだ。
となりの入院患者のおばさんたちが、新聞を広げて囁くのが聞こえる。
「あら、植物状態の男の子が意識回復ですって」
「それ、相当お金かかるらしいわよ。お金のある家じゃ無いと厳しいみたいで」
「そう?でもこれ一般家庭の男の子…ってこれ、親御さん行方不明じゃない。お金どうしたのかしらね…」
闇に落とした時、その人の大切さが初めてわかる。
そこの過程は万人に必ずある。誰もが誰かを闇に落とし、闇に落ちている。
そこはあまりに深い穴の中で、1人で出るには難しいかもしれない。でも、そこは誰しもがもっている闇。共有はできなくても、感じ方は違くても、みんな痛みを知っている。
ゆっくりでいい。一緒に出てこよう。
落とし穴