左様ならば永久に
露が亡くなったと聞かされたのは、露にあの質問をされてから数日経ったある平日だった。
月曜日でもなく、テスト期間が近いわけでも受験が近いわけでもない。いじめがあったわけでも、親と喧嘩したとかでも、学校生活や人間関係がうまくいかなかったとかでもない。
まるで陳腐な三文小説みたいに、雲がひとつふたつある澄みきったよく晴れた日。私の目にはどこか膜を張ったように見える現実味のないその日、学校中に教師の緊急招集があった。
【全教員は職員室まで至急集合してください。繰り返します、全教員は・・・】
「・・・全員、自習とします。問題集の五十二ページから七十ページまでを予習しておくように。あくまで自習ですので、出歩かないようにしてください。いいですね?」
その時私のクラスで授業をしていた教員は困惑したような表情のあと慌てて廊下に出ていった。隣のクラスからも飛び出て来た教員と何かひそひそと話をしながら足早に去っていく。廊下側の壁は磨り硝子になっていて、教師の影が次から次へと移っては消えた。
私の学校は南棟と北棟に別れていて、前者は主に教室が、後者は特別教室と職員室があって、それらは二階の渡り廊下で繋がっている。
南棟の一階は一年、二階は二年、三階は三年と割り振られていて、一年以外の教室で授業をしていた教員は自然と二階から渡り廊下を渡って職員室に急いでいた。
当然、行き交う人の数も多い。
ひそひそとした話声、慌ただしい足音、雰囲気だけでも分かる異常事態の雰囲気。
教師が全員職員室に渡ったのか、辺りはすぐにしぃんとした静寂に包まれた。
息をするのも躊躇う様な静寂の後、教室中に困惑の漣が押し寄せて来た。
──何があったんだろう?
──緊急って言ってたじゃん? 変質者とか出たんじゃない?
──変質者でこんな大騒ぎになるのかな?
──誰か事故にあったんじゃない?
──事件でも起こったんじゃない。
──え、じゃあ、今日早退できるかな、この後の古典とかすっげーだるい。
──早く帰れても補導されるから遊べないかな。
──大会近いから部活できないとかマジあり得ない。
──てかどうするこの課題。やる?
──えー、やるわけないじゃん。かったるい。
「雫。」
教室中の喧騒を聞くともなしに聞いていた。
私の通う高校はちゃらんぽらんに見えてそれなりにレベルは高い。皆優等生だった。本気で教師に咎められるリスクは冒さない、そういう聡明な人ばかりだった。だから、全員教室に留まっていた。
席を離れておしゃべりを始める子、スマフォや携帯を使って遊び始める子、居眠りを始める子、耳にイヤホンを突っ込みながら本を読んだり真面目に課題をしている子、何か食べている子。
三十人程度しかいない部屋の中で多種多様なことがなされていて、人間って変なのと思いながらぼうっとしているとすぐ近くで私を呼ぶ声がした。
視線を上げれば、見慣れた無表情が私を見下ろしていた。
「なに、旭さん。」
「・・・ぼうっとしてる。」
旭は私の数少ない男友達の中ではたぶん最も静かな人だ。こんなに静かな人を私は見たことがない。口数が少ないとか、そう言うのじゃないと思う。表情が乏しいわけでもない。
現に旭は男友達の間ではよく話すし、よく笑う。旭の笑った表情は子供みたいだと思う。
その無邪気さが精神的な幼さが目立つ他の男子と違うように見えると露と話し合ったけど、結局その原因は導き出されなかった。
私は旭が隣にいても気にならないし、むしろ楽だと思う。でも気が合うかと言われればそうでもない。趣味も興味も違う、思想も思考も違う。だから時々お互いに『こいつは何を言っているんだ?』って表情で睨みあうこともある。
私や露相手にそれをぶつけてこれる人間自体が、ある意味貴重だ。そう言ったのは私と露の共通の友人だったかな。
真面目な旭と違って私はいわゆる平均的な人間だ。それなりに物事をこなして、それなりに生きている。可も不可もない。
でも旭は違う。努力を惜しまないし、結果を出そうとする。向上心がある。そしてそれを叶えるだけの環境と運に恵まれている。
恵まれた人間だと思う。僻んでいるとかじゃなくて純粋に、客観的に見て。
それはたぶん幸福なことなんだろうけど、どうだろう。恵まれる権利と引き換えに責任という義務がくっついてくる場合、単純に幸福だと断言していいのかどうか、私には分からない。
それもひっくるめて幸福という人もいるだろうし、利益だけが見えている状態で幸福という人もいるんだろう。単純に幸福という定義が人によって違いすぎて私には考えが及ばない。
まあ、それは置いておいて、そう言う人だから見えないものもあると思うことがある。旭には私が捨てて来たものが目に付くし、旭が捨てて来たものを私は見て来た。旭のことを余裕がある贅沢な人間だと思うこともある。逆も然りだ。
つまり、私達はお互いが目に付くのだ。そこに関わっていくか無関心に避けるかの違いだ。
どっちが正しいかじゃない、これは違いの話だ。どちらにも罪はないし正義もない。
たまたま旭が関わってくることを選択した。それが今を形成している原因だ。理由はない。
「いつものことじゃない?」
「そうだけど・・・。」
歯切れ悪く言いながら、旭は何故か気まずそうだった。でもそれも束の間、旭はクラスの男子に呼ばれて私の席から離れていった。クラスの喧騒の中にいくつか私と旭の関係を邪推する物があったけど徹底的に無視する。
他人の推測にいちいち目くじらを立てていたらそれこそ他人を喜ばせるだけだ。人間は邪推する生物だ。私のように。
「・・・あー。」
死にたい。その願いは確かに私の中に漠然と根付く答えだったけれど、たぶん本質は違うのだ。この蜘蛛の巣のように体の芯から皮膚へと絡みつく倦怠感のような感触。卵膜のような柔らかくて滑りを帯びた壁によって世界と隔てられたイメージ。
たぶん私は
「・・・。」
たぶん私は、私を消したいんだ。
私がこの世に存在したと言う事実ごと、抹消されたい。
そんなこと不可能だと分かっているから、無駄なことだから、無様な足掻きだから私は生きている。生まれ落ちた時の速度の惰性で、生きている。死にたいわけじゃない。でも消えたかった。
人間の生に意味などない。
私自身がその答えを真実としている。意味がないということは無価値になりはしないか。無意味なことが無価値に直結するかは分からない。そこまで答えを出すことが、私にはひどく重労働だった。だからしない。何よりそこまでの知識や思考能力を有していない。
だから仮定だ。意味がないことがすなわち無価値なことなら、無駄なことなら。
私は、そんなものはいらない。最初から無意味だと、無駄だと分かり切っているものなんて捨てたい。自分自身を持っていることすら放棄したい。
こんな私は消えた方がいいと、叫ぶ自分がいる。
でもそれは、一体どうしてなんだろう。
露ならどう答えるだろう。後で聞いてみよう。露だってきっと、同じことを思っているはずだ。
私と露は、【同志】なんだから。
「──露さんが亡くなりました。」
その言葉が、最初よく理解できなかった。耳に入ったのに情報として理解することができなかった。露の名前が、なんだか別人のような響きを持って私の鼓膜を揺さぶった。
教室中が動揺で震えた。それほどのざわめきが肌を不快に揺らした。旭が咄嗟に私のほうを見たのを視界の端に捉えたけど、そんなのは無駄なことだ。だって私は、何が何だか分からないんだから。旭の行動や意図自体は恐ろしいほどよく分かるのに、担任の言った言葉だけが私に追い付かない。
教室中の混乱に構っていられないとでも言うように、担任は沈痛な面持ちと目に涙を溜めながら話を進めた。
「今朝方のことです。詳細は不明ですが、先ほど病院で死亡が確認されました。お葬式やお通夜には校長先生と副校長、教頭と担任、クラス委員長が学校代表として向かいます。個人的な訪問は場合によってはお断りすることもあるそうです。」
淡々とした説明は、担任の感情に揺れた表情とはあまりにアンバランスで余計に現実味がない。悪い夢みたいだ。膜が張った世界で他の人が現実と呼ぶ、私がテレビの向こう側だと思う意味を成さない茶番劇。
でもそれが、今日はあまりに生々しく目の奥を焦がす。
「C組の仲間が亡くなったことは非常にショッキングなことです。黙祷を捧げようと思います。皆さん、立って下さい。」
がたがたと耳障りに響く椅子を引く音、人が立ち上がる音、それらに紛れる困惑と悲しみのざわめき。私は操り人形のように立ち上がった。誰も不信には思っていないのかこちらを振り返るのは誰もいない。
私はうまく動けている。見透かしているのは、きっと旭だけだ。
「黙祷。」
教師の声と一緒に目を瞑って下を向く。私の視界は薄墨色の闇に閉ざされた。それでも瞼と空気を揺らすのは日の光と整理することのできない教室中の混乱だ。いや、もしかしたら私の混乱だったのかもしれない。
空気を小刻みに揺らす生徒の呼吸が会話をしているようだった。声に出さずに皆が会話している。そんなあからさまな動きを感じた。
──なんで?
──なんで死んだの?
──そんなの分からないよ。
──事故? 自殺? もしかして・・・殺されたの?
違う。
誰に言うでもなく、強いて言えば自分自身に私は零した。その言葉は小さくて、だけど確信の響きを孕んでいた。
「黙祷終了・・・これ以降の授業は中止となります。明日以降は平常通りの時間割で授業を進めます。また、悲しみの中にあるとは思いますがC組の仲間を気遣ってあげてください。」
違う。
露は
露は、自殺だ。
誰かに、世界に、殺されるなんてありえない。
そうじゃなくちゃ
『この世に生まれた意味なんてあると思う?』
あんなこと、私に聞いたりしない。
ホームルームが終わって何とも言えない雰囲気が教室中を、学年中を包み込んでいた。同じ学年にしか知らされていないと聞いたけれど、人の口に戸なんて立てられない。広まるのなんてあっという間だ。
C組の同級生は見るに堪えない様子だった。下を向いてすすり泣いていた。それをまるで見世物のように、腫れもののように遠巻きに窺うのが他のクラスの生徒というのが、私には不快だった。
その一人である私に言えたことではないけれど、動くことのない感情がなぜか五月蝿く騒いだ。
露と交流の深かった私でさえ遠巻きにこそこそと囁かれているのだから、クラスメイトは心中複雑なのではないかとどこか遠い感想を抱く。
何もかもが煩わしくて、私は早々に下校しようと昇降口を抜け、だけど今日に限ってまっすぐ帰る気にはなれず通い慣れた駅とは違う方向に歩く。
生徒のいない方へ、人影もまばらな方へ。浮浪者のように。
心のない状態で、それでも歩みだけはしっかりとした歩調でまっすぐに。まるで目的地があるみたいな歩調にすれ違った通行人や私の学校の生徒たちは見向きもしない。
これが現実だ、どんなに通常とは異なることが起こっても何にも変わらない。露が死んだ、そのはずなのに。何も変わらない。私だって変わらなかった。
【同志】と言いながら、なんて様だろう。
心の中だけで自嘲しながら当てもなく歩を進めていると、大きな声が後ろから厳しい語調で響いてきた。
「雫!」
呼ばれた言葉の意味を理解するのに数瞬かかった。
呼ばれた名前が自分の物であることに気付くのにさらに数瞬、やっと振り返った時には蒼褪めた表情の旭が息せき切って私を見つめていた。まさか私を追いかけて走ってきたのか、何のために?
「・・・なに?」
私が不思議に思って問いかけると、旭は少し怯んだように視線を彷徨わせてからそれでも私をまっすぐに見つめて来た。その視線には何と声をかければいいのか迷っていることがありありと窺えた。
「何か用?」
そんなに言い難いことなら言わなくてもいいのではないだろうかと一瞬考え、旭の人となりを思い返してそれは彼の性格上無理だろうという結論に至った。
旭は他の人間なら見過ごす様な、あるいは適当に辻褄を合わせるようなことも明確にする性質だ。作業に抜かりがない。だからこそ、信頼が厚いのだ。同じくらい疎まれることもあるけれど。
その事実を知った時露と話したのは、何だっただろうか。
そんなことをぼんやりと考えていたら、旭は私の方に近付いてきた。周りを少し気にするようなそぶりを見せながら、内緒話をするようにそっと囁きを落とした。頭上から降ってくる声との距離よりも、それに見え隠れする強張りや気まずさ、緊張の方に目が行った。
彼にしては珍しいなと余所事を考えていたから、旭の言葉が耳を素通りした。
「・・・えっ? 今なんて言った?」
「・・・大丈夫か?」
なにを大丈夫というのか。一瞬本気で分からなかった。
そしてそれが指し示す内容が露の死であることにやっと思い至って驚いた。
私と露は、確かに友人であったけれど他の友人たちと同じだったかと言えば違った。クラスも違い、部活に入っているわけでもなく、家も近くない。
昼食を一緒に摂っていたくらいのものだ。
露には仲のいい友人がそれなりにいた。私と話をする時以外は彼女たちとつるんでいたし、彼女たちと一緒にいた方が楽しそうだった。
それでもこの目の前の少年が真っ先に心配したのは私だという。
私が露の死にショックを受けているのではないかと、心配している。それが、私には驚きだったし、不快だった。
ウェルテル効果で私が露の後を追って自殺するとでも?
彼女と私は別の個体で、別の人格を持っている。友人が死んだからって必ず死ぬわけじゃない。親友が死んだって、それは同じだ。
彼のは、お節介だ。
「別に・・・露がなくなったことはそれは残念だけれど、旭さんが心配するほどではないよ。」
「・・・本当に?」
「私が露さんの後追い自殺でもすると思っているの? そんなに柔じゃないよ。」
「そうじゃない。」
旭が断言したのを意外に思って顔をあげると、彼は眉間に皺を寄せてこちらをじっと見つめていた。何かに耐えるような仕草だった。
「雫が・・・辛いんじゃないかって、思ったんだ。」
それは・・・的外れと言える言葉だった。
傷付く? 私が? 何も意味なんてないと断言できる非人間が?
そこまで考えてかつての会話の内容を思い出した。
ああ、そうだ。露と私は旭のこの物事を曲げられない、優秀な同級生のことを可哀想だと思ったんだ。
旭は可哀想だ。いつも真剣で、細やかで、周りに期待されて、信頼が厚くて。
模範的でなくてはいけなくて、力を抜くことができなくて、周りに機微に聡くなくてはいけなくて。
そのせいで、見なくていいことやしなくていいことまで知ってしまって。
逃げることを・・・許されていなくて。
旭は、可哀想だ。
露と二人、そう言った。
でもきっと、そんなことを思っている私と露の方が可哀想なんだろうと、思いもした。旭を品定めするような真似をして、勝手に憐れんで。もしかしたら鈍感な方が、優秀じゃない方が可哀想なんじゃないだなんて思い上がっていたのかもしれない。
ただ気付かないふりをする仲間外れの私達に、旭以上の価値など私達自身が認めていなかったのに。
でも露は・・・そのことに気付いていたのだろうか。私より先にこの世に見切りを付けて去っていった、潔くて勇気のある強くて弱い【同志】は、自分自身の無意味さに、私達自身が可哀想なことに。
「買いかぶりすぎだよ、私はそんなに優しくも情に厚い人間でもないよ。」
そう言った私を、旭が堪らないものを見るような瞳で見つめていたのが、酷く印象的で、それがとても不思議だった。
淡々と過ぎていく日常の中で、あまりに大きな露の死という非日常は、でも異質だからこそ排他されていった。一ヶ月経った頃には、誰もが露のことを話題にしなくなった。
それはきっと露の死を、誰もが無視していったからだろうか。それとも私が導き出したように、人の存在は意味がないからだろうか。
私には、分からない。
そんなことの整理を付ける間もなく、私は、「死神」に出逢った。