千の夜をゆく 6
照濫の猫発言にいささかへこんだ俺は、その夜再び部屋を抜け出した。
無性に星が見たくなったのだ。
深夜、昼間に比べて屋敷は落ち着いてはいるが、通常なら寝静まっているところを、人の起きている気配がそこそこにある。これも、この屋敷の不思議なところだ。
(つくづく怪しいところだな。一体何をしているのか)
キョウは姫様姫様と大切にされているようだが、さて、この怪しい屋敷の主はキョウなのか。それとも他に誰か黒幕がいるのか。
そんなことを考えながら、人に会わないように気を付けて慎重に動き、そろりと庭へ降りる。昼間たどった道を思い出しながら、屋敷からやや離れて茂みに腰を下ろす。
開けた空には、雲はなく、満天の星が見えた。
(…俺がいなくなって、あいつらはどうしているのか)
別れた仲間のことを思う。が、それ以上思考は進まない。
俺は、――あの場所に戻りたくないのだ。
この足の怪我を口実に、本来なら戻って然るべきところを、何日も行方をくらましている。戻る意味も、義務も、義理もあったが、懐かしくも暑苦しい仲間の元に、心配しているだろうからすぐに戻ろうとは、まったく思わない。鷹の大翔に書付を託したのも、安否を知らせるというよりも、これ以上探してくれるなという意が強い。
(キョウどころか、俺の方が余程薄情だな)
くくっ、とのど奥から笑いがこぼれた。
しばし夜空を眺めていると、ふと、小さく歌声が聞こえてきた。
歌声と、楽の音。琴だろうか。音は小さく、遠い。
注意して聞いていると、知っている曲――『満天の星空の元で』であるようだ。
(キョウか)
何の根拠もなくそう思う。そして俺は、その歌声に歌詞が伴わないことに気づいた。
『満天の星空の元で』は巷によく知られた歌で、無論歌詞がある。
輝く星が人の営みを見守っているとかなんとか、そのような趣旨の歌だ。
だが今聞こえてくる歌には、形となった言葉はなく、あ音が連ねられているだけだ。
この声がキョウだとしたら。
(歌ですら語らないのか。キョウは)
それは何を意味しているのか。
――そうまでして、何を拒絶しているのか。
自由なようでいて、全く自由でないあの少女の面影を、俺は思い返さずにはいられない。
歌声は続く。
高く澄んだきれいな声だったが、その声は言葉という実を結ばず、何を訴えることもなく、ただ夜の星空に溶けていくだけだった。
翌日。今までキョウが訪れていた同じ時間にやってきたのは、キョウではなく、キョウの侍女だった。
キョウの周りで始終うろちょろしている、この気の強そうな侍女は、確か朝維と言ったか。如何にも姫様至上主義で無駄に忠義に厚そうな侍女だ。
姫様至上主義は照濫もそうだが、照濫がそれをひけらかすことなく少し離れて見守っている風なのに比べ、朝維は俺に見せつけている風である。対応が刺々しい。
俺が何かしたか、と思い、初対面で朝維の大切な姫様をおまえ呼ばわりしたことを思い出した。
「キョウはどうした」
俺が問うと、苦々しく顔をしかめて、心底嫌そうに答える。
「今日は姫様はいらっしゃいません。代わりに、貴方の相手をするようにと仰せつかりました」
「…そこまで嫌そうな顔をして相手をしてもらう必要はないが」
「いいえ。姫様の仰せですから、私は貴方の相手を致します。大変気乗り致しませんが。貴方にも、姫様のご指示には従っていただきます」
「相手と言っても、何をする? 何ならここで俺と寝てみるか?」
軽い冗談で言ったつもりが、吹雪に遭ったように心底冷たい軽蔑の眼差しを食らった。
「冗談だ」
「ええそうでしょうとも。なぜ貴方のような下劣下品な輩を、姫様は庇護されるのか…。姫様へ神が与えた試練ですわね」
朝維は俺に盤を示し、小さい二つの壺を置く。
そうだろうとは思っていたが、やれやれ、全くこの屋敷の人間はどうかしている。いつでもどこでも天地黒白か。それとも、これは姫様であるキョウの影響か。
「勝負していただきます。譲歩はなし、千夜が黒、わたくしが白。姫様の見立てでは、わたくしが勝つとのことですわよ?」
「ほう。そんな話を聞いて、俺が素直に乗ると思うか?」
挑戦的に微笑する朝維に、俺はすかさず切り返す。
キョウの言うようにこの生意気な小娘が本当に俺に勝利するかどうか試したい。それに、この盤上遊戯にはまりつつある今の俺には、打ったことのない相手と一戦交えるのも魅力的だ。
俺の心は朝維との対戦に大分傾いていたが、一方で、キョウの言いなりになるのが面白くないという心もある。
「わたくしと五回勝負して一度でも勝てば、姫様の名を一字教えます。
それでも勝負致しませんか?」
朝維は黒石の入った壺を俺の方に押しやる。
俺は、ちら、と朝維を一瞥した。
「いや。それなら受けよう。望むところだ」
壺の蓋を開け、俺は初めの一石を置いた。
季は晩春、桜花のほころびも過ぎる頃。
どことも知れぬこの大きな屋敷で、まだ何日かにしかならぬ短い間に、俺は何度、天地黒白を打ったのか。
キョウと打ち、照濫と打ち、朝維と打ち。
栗色の髪も甘やかな、優し気な風情の少女である癖にほとんど口を開かぬ無表情のキョウは、何もかも見透かしたと言わんばかりに瞬時に返す手を打つ。
細身で鍛えた体躯の壮年の男、照濫は、実直で爽やかな風情のままに、堂々と守りに厚い手を打つ。
さて、目の前の、忠義に厚く気位の高い少女である朝維は、一体どのような手を打つのか。
朝維は、優し気で春霞のようにつかみどころのないキョウとは異なり(もっともキョウはその無表情な眼差しで、せっかくのやわらかい美貌をつくりものの人形のように台無しにしているのだが)、釣り目気味の目、くっきりした眉、薄い唇と、気の強く鋭い、どことなく冬の北風に似た冴え冴えとした雰囲気がある。
その朝維の打つ手に、俺は初手から驚きを隠せなかった。
果断だ。思いもよらぬところに、陣地をえぐるように、切り込んでくる手を打つ。
通常なら悪手だろう。防御を考えずに深く入り込む一手は、あっという間に分断されて地を失うところだ。だが朝維の手は怯まない。攻撃は最大の防御と言わんばかりに、攻めて攻めて相手を自分の動きに巻き込んでしまう。
そして、――俺以上に自分の石を犠牲にした手の組み方をする。
(なんだこれは。自殺か。…いや待て。ここで俺が取り、次で左へ逃げ、下へ下がるとあの右側を持って行かれる。差し引き二石、俺の負けか)
(これだけ盤面を荒らしまくって、たった二石。だが負けは負け、勝ちは勝ちだ。…無茶苦茶だな)
一戦目は朝維の動きにつられ、俺は負けた。
二戦目、三戦目と続く。やはり一石二石のわずかな差で俺は負け、朝維は勝った。
朝維の攻めは止まず、俺は防御に回ってばかりいる。それがままならず鬱陶しく、苦しい。
俺の打ち方も攻めに秀でている。その俺を上回る奇抜な攻めを打たれ、俺は本分を発揮できずにいる。
俺は打つ手を置き、敢えて大きく息を吸い、吐いた。
(流されるままでは負ける)
(俺の本来の動きができない。それで勝てる訳もない。慣れた動きに戻り、俺は俺らしく打つのが、勝利への第一歩だ)
俺が石を持たず時を費やすのに、朝維は少々苛立っているようだ。本人も気づいているのかどうか、唇の端をわずかに噛んでいる。
(たったこれだけ、ほんの少し待たせただけでもう苛立つとは、随分短気だな)
そう思い、俺は気づいて朝維を見直した。
天地黒白でどれ程乱戦をこなそうが、攻撃的な手を打ち、相手をきりきり舞いさせようが、朝維は、少女だ。
年齢はキョウよりも更に若い。十六、七と言ったところか。
無論、どれ程天地黒白を打ったところで、その年の少女がまさか戦の鉄火場に出て、幾度となく命のやり取りをこなしてきたなどということはないだろう。
俺は、天地黒白では初めて間もない素人だ。技も定石もよく知らぬ。
だがこと精神面での戦い、ここぞという時の粘り強さ、不利な状況での立て直しにおいては、姫君の侍女である朝維よりも、幾多の戦線を切り抜けてきた俺に一分の利があるのではないか。
俺はもう一度盤面を見た。
四戦目、盤は六割がた埋まり、俺の黒石が地を広げようとあがいているところを、無情にも朝維の白石が割り、引き裂き、閃光のように伸びている。
だがよく見ると、朝維の手は対応が速い分隙が残り、一つ一つの場面を伸びしろのあるままに放置しているとも言える。
(よし)
俺はわざとゆっくり黒石を取り、置き場所を考える体で、指で挟んだ黒石を盤上でさ迷わせた。
朝維の唇のかみがわずかに深くなる。俺の心に余裕が沸いてくる。
勝てる。
何の数値的根拠もないが、俺はそう直観する。
鼻歌でも歌いそうになるのをとどめ、俺はのんびりと次の手を打った。
然して、四戦目は俺が制した。差は四石。
これで、五戦のうち一度でも勝てば、キョウの名を一字教えるとの賭けには勝った。
しかし俺は敢えてそれを言い立てず、朝維と五戦目をやり、それにも六石の差で勝利した。
盤を挟み、朝維は悔しそうに睨みつけて来る。
だがやがて、朝維は大きく息を吐くと、いっそ清々しい顔で石を片付け始めた。
「姫様の仰った通り。本当に、さすが姫様だわ」
「キョウの言った通り? キョウは、おまえが勝つと言ったのではないのか」
「姫様は、わたくしと千夜が対戦すれば、最初はわたくしが勝ち、恐らく四戦目か五戦目で千夜が勝つだろうと言われた。一度千夜が勝てば、もうわたくしが勝つことはできないだろう、と。
わたくしはそうならないように尽くしたつもりだけど…」
朝維は薄暗くなりつつある室内を見遣る。
「丁度良い時間ね。賭けは貴方の勝ち。約束通り、一字教えます。
姫様の名は、響」
「響…」
朝維が大切にそっと呟いたキョウの名の一字を、俺もまた、大切に、抱きしめるように、繰り返す。
キョウ。響。響。
それがあの少女の名か。
「もうすぐ夕食が運ばれてくるわね。わたくしはこれで失礼するわ。いくら姫様の客人だからとて、あまり出歩かないように。いいわね」
朝維は盤と石を片付け、部屋を出る。
(響。響。おまえに会いたい。今すぐに)
教えられた名を、おまえに向かって呼びかけたい。あの優しく揺れる栗色の髪のそば、耳元で、響を抱きしめてその名を愛おしく囁きたい。
その一方で、俺は今日のこの一幕の意味を考える。
あれほど頑なに口を利かぬ響。何も喋らぬ使用人たち。
それなのに、突然示される姫君の名の一字。まして、響は俺と朝維の勝負の行方を見越していたという。
(与えるべくして与えられた)
何のために。
(何かがあったのだ。今日、いつもなら響の訪れるこの時間に)
足の怪我が治りつつあり、部屋を抜け出すこともある俺は、響の名の一字を餌に、朝維に足止めされた?
『丁度良い時間ね』
薄暗くなった、日が暮れつつある室内を確認して朝維は言った。
響の名を知り、あの人形のような少女を愛おしく思う一方で、俺の心の一部は鉛を抱いたように凍えた。