千の夜をゆく 3
天地黒白という盤上遊戯に思いの外はまってしまった俺は、それから三日ばかり、キョウと共にこの遊戯を堪能した。
今、俺がキョウから与えられる最初の譲歩分は、石三つ。大まかな規則しか知らなかった俺だが、名人級の腕前のキョウと立て続けで打ち、恐らく随分上達したと思う。
遊戯であれこれ策を練るのも面白いが、俺は大体、石を持ちながら、頭のはたらきの半分くらいを割いて別のことを考えている。
キョウだ。
このもの言わぬ、人形のような無表情な少女が、何を思って俺とこの遊戯に勤しんでいるのか。
俺と石を打ち交わしながら、何を見、何を得、何を考えているのか。
その一端を知りたいと強く思いながら、俺は天地黒白に臨み、キョウの一手一手を見る。
だがそれでも、相変わらずキョウの返しは速い。
(この速さで打ち返しながら、遊戯を通して何かを知ることなどできるだろうか?)
それができるなら、キョウの頭脳は常人離れした才を持つか、相当訓練されているかのどちらかであろう。
一案がある。
実はキョウは、天地黒白に身命を掛けるほどの達人で、言葉を発する代わりにところ構わずこの石を打つ、天地黒白狂いだった。
(…ないな)
我が考えながら呆れる。これはない。大体、キョウはお付きの侍女とも打たないし、照濫とも打たない。キョウが俺以外の人間と打つのを見たことがない。
さて、左足首の骨折と全身の打撲を抱え、山中で行倒れて雨に打たれて高熱を出した俺が、この大きな屋敷で意識を取り戻してから約五日。
キョウは大抵、昼下がりにふらりと一人で俺の部屋に入って来た。
よって、今日俺は、朝の食事を終えると頃合いを見計らい、部屋を出た。
無論、左足首の骨折は五日程度では対して治っていない。
木の芯を当て、包帯でぐるぐる巻きに固定している。用意された杖を付きながらの歩行だ。俺は人のいない方へ慎重に歩いた。
キョウは口を利かないが、キョウを呼び戻しに来るお付きの侍女、俺の世話を焼く使用人の男女、時折様子を見に現れる照濫、いずれもが、この屋敷やキョウ、住んでいる自分たちのことを語らない。
姫様と呼ばれるキョウが助け、命じたとは言え、身元の知れぬ若い男、つまり俺を警戒するのは当然のことだ。だがそれにしても、誰も話に漏らさないとは徹底している。
恐らく、俺を特別に警戒しているというよりも、もともと排他的で、常日頃から余計な口を利かないようにしつけられているのだろう。
そんな中で、よそ者の俺が部屋を出て屋敷をうろついているとなると、また風当たりが強くなって面倒だ。
それに、俺にも俺の事情がない訳ではない。
建物を離れ、庭を歩く。
振り返ると、やはり相当大きな屋敷だ。平屋だが、部屋が幾つも連なり、複数棟があり、屋根付きの回廊らしきものも見える。視界の大部分を屋敷とそれを囲むととのえられた植栽が占める。
広い敷地を不自由な足で慎重に歩き、俺は低い生垣の外へ出た。更に歩き、屋敷を囲む林に入り、進む。
そろそろ人目を気にしなくても良いだろうか。
空が見える視界の開けたところを探し、俺は腰を下ろして、口笛を吹いた。
ピイ――ッと音がする。
何度か繰り返すと、空に小さく黒い影がかかり、旋回する。
(やはり)
続けて口笛を吹く。ばさりとはばたきの音がして、影は差しだした俺の上腕に降りた。
「探していたか。悪かったな」
鷹が片足を上げ、下ろし、首をかしげるように俺を見る。全体は黒に近い焦茶だが、二枚の羽根の先と首から胴にかけてが白い鷹である。ぎょろりとした目は黄金のように輝く琥珀だ。
王者の風情があり、その気位の高さが気に入って戯れに仕込んでみたら、よく懐いた。大翔と名付けた時には、俺らしい直截な名だと周囲に苦笑された。
俺は大翔の脚につけられた輪を外し、中の手紙を取り出す。案の定、安否を問い、所在を知らせろとの旨が書いてある。更に、あの時の戦いの行方も。
俺は取り出した手紙の代わりに、先日したためたものを小さく折りたたんで、再び仕込んだ。
懐から包みを取り出し、大翔を乗せていない方の片手で苦心しながら広げる。朝食に蒸された白身魚が出たので、こいつのためにとっておいたのだ。
大翔は俺が出した魚をうまそうにつつき、やがてもう一度空へ飛び立った。
陽光に照らされた中、影は小さくなり、遠ざかってゆく。
(これで暫くの猶予が確保されたな)
俺は、短く、故あって身を隠す、また連絡するとだけ書いた。
はぐれた俺を仲間も探している筈だ。きっと大翔が放されているだろうと踏んだら、やはりそうだった。
戦った敵は何とか冬国へ追い返したとのこと。次は仲間である俺の捜索だ。だが俺は、戻るまでに今しばらくの時間が欲しかった。
キョウと出会い、どことも知れぬ場所での不思議な生活も無論気に入ってうる。だがそれとはまた別に、前々から、このままで良いのかという問いをずっと抱いていた。
春帝国崩壊後、なし崩しに今の仲間を率い、戦いをくぐり抜けてきた。
生き抜くために多くの敵を葬って来た。だが、生き抜くためだけとは言い抜けできない道に、俺は進もうとしている。いや、もう半ば進んでしまっている。
この俺が、何事も自分の意志をもって生きてきたこの俺が、決断を先延ばしにし、ずるずると周囲の期待に押されて状況を進めてしまった。
だがそれで良いのか。今からでも、俺はこの道を引き返し、別の将来を模索した方が良いのではないか。それをじっくり考えたかったのだ。
どうせこの足では、しばらく満足に動く訳にいかない。
ならば丁度良い機会だ。足が治るまでの間、俺は自分の将来を見つめ、この千の夜のように降り積もったがんじがらめの状況を打破し、再びまさに自分自身が選んだ人生を勝ち取るべきだ。
(我ながら、千夜とはうまく名付けたものだな)
大翔の消えていった空を眺めながらそんなことを思い、そろそろ戻るかと杖を突いて立ち上がった俺は、ふと水音が聞こえるのに気が付いた。
よく耳を澄ますと、さらさらと流れるせせらぎの声、ぱしゃんと魚でも跳ねるような音が、林の静寂に潜んでいる。
屋敷に戻ろうと思った俺だが、方向を変え、林の奥に進む。と、程なくして水音はより身近になり、小さな川が流れているのが目に入った。
いや、目に入ったのは川だけではない。
キョウがいた。
衣を身に着けず、禊でもするように小川の中に身を沈め、髪を解き目を閉じて清廉な水を浴びていた。