千の夜をゆく 2
キョウという少女の庇護の元、その屋敷での生活が始まり、俺は毎日をかつてない程怠惰に過ごした。
医師によると、左足首の骨折は全治約2か月程。はじめの1か月はできるだけ横になって過ごし、後の1か月は様子を見ながら徐々に動かす訓練もするべしとのありがたい仰せだ。
さて、急遽現れたこの人生の猶予期間を、一体何に費やそうか。
はじめの一日二日は寝台に大人しく収まっていた俺だが、すぐに飽きた。
大の男がだらだらと一日中寝ているなど、全くやってられるか。
どうせ布団に入っているなら、女の一人でも連れ込みたいものだ。
つらつらと考えていると、余計なことまで思索してしまう。
一体ここはどこなのか。別れた仲間はどうしているのか。
春帝国崩壊後、夏、秋、冬の三国が乱立する中で、俺は夏国のやや北東で仲間と共に山中で戦った。こちらは少数、あちらは多数、剣を交えながら数を恃みとする敵の目をかいくぐって尾根を伝い逃げようとし、間抜けにも足を滑らせて山肌を転がり落ちたのだろう。
おかげで、敵からは無事逃れられた訳だが、骨折と打撲のおまけつきで仲間ともはぐれた訳だ。
どれくらいの距離を、どの方角に滑り落ち、どれくらい意識を失っていたのか。またキョウに発見されてこの屋敷に連れてこられたが、どれくらいあの場所から離れていたのか。意識がなかったため、正確にはわからない。
が、恐らくまだ夏国を出てはおらず、ここは夏国から冬国との境目に近づいた辺り、朝祝の街の近くではないかと俺は推測していた。
(しかし、思いつかんな)
キョウの正体。このような屋敷を構える者たち。
寝かされたこの部屋しか見てはいないが、出入りする者たちの様子や格好、照濫やキョウの身なりやふるまいを見ていると、相当大きな屋敷、名のある一族の住まいに思える。
だが、彼らには全く面識がなく、また朝祝の近くにこのような居を構える者たちの話も、寡聞にして知らぬ。
(不思議なものだ)
それでも何かしら手がかりがないかと考えていると、ふと、部屋の扉が開いた。
もの言わずキョウが入って来る。
栗色の髪は甘やかに結われ、耳元に差した九重の大きな紅の花が可憐だ。陶器のようにほんのり白い肌に浮かぶ藍色の瞳、にこりと笑みをこぼしさえすれば、さぞや多くの若者の恋を掌中にするだろう。
だが伏し目がちの目は凪いでおり、心を見せず、まるでよくできた人形のようである。
(なんとももったいないことだ)
キョウは両手に盤を捧げ持っている。寝台の上で半身を起こした俺の近くまで来ると、キョウは捧げ持った盤を俺の膝の辺りに置いた。
盤上にはいくつもの黒い線が格子に走っている。その盤の上に、黒白の石がそれぞれ詰められた小さい壺が乗せられている。
(天地黒白か)
黒または白の丸く平らに磨かれた石を持ち、互いに打って陣取りを争う遊戯だ。
「一戦交えるということか。悪いが、俺は打てない」
貴族連中の好きな盤上遊戯だが、生憎育ちの悪い俺はそんなたしなみなど持ってはいない。
体を動かすことは得意でも、じっと考えることは正直苦手だ。面倒臭さが先に立ち、やってみようという気にもならない。
俺が断ったのにも関わらず、キョウは俺の寝台の傍に椅子を持って来て座ると、黒い石を壺から取り出し、握った。
一つ、二つ、三つ、一つずつ順に俺の手元に石を落としていく。石の数が十になると、白い石を一つ持ち、俺の番だとでも言うように、こちらを見上げる。
(十石置けということか。しかも俺からか)
相当な譲歩である。
規則は全く知らない訳ではない。
(適当にやれば気が済むか?)
頷きもせずただじっと待つキョウに、俺は小さくため息をつき、十個の石を盤上に散らばせた。
それだけで、広い碁盤が狭くなったように感じる。更に俺は自分の番の石を一つ置き、キョウを見る。
キョウはぱちんと一つ白石を置く。
俺はまた一つ黒石を置く。
あまり考えずにぱちんぱちんと互いに打っていくと、盤上は白い石が駆逐され、黒い石でほぼ満たされていった。
途中でキョウが打つのをやめ、手前を白、奥を黒と石を並べ替えていく。それぞれの石をかためて数を数えているのだろう。無論、並べ替えたところで黒い石ばかりなのは変わらず、俺はキョウに大勝した。
勝負を確かめると、キョウは石を元の壺に戻す。
そして、また一つずつ、俺の手元に石を落とす。
今度は十個ではない。八個だ。
そして再び、じっと待つ。
俺は八個の黒石を盤上に配し、更に自分の初手を打った。
キョウが打つ。俺が打つ。
キョウはほぼ考えることなく次の手を打つ。俺はよくわからないまま勘で適当に打つ。
それでも、俺の黒い石がキョウの白い石を挟むと、にやりと俺の顔が喜び、白石を盤上から除く。
再び俺の圧勝。
キョウはやはりまた石を並び替え、律儀に数を数えた後、次の譲歩分の石を俺に賜った。
六個の黒石が落とされる。
再戦。
三度目ともなると、何を説明されなくても何となく試合の形がわかって来る。
どこにどう打てば相手の石を取れるのかが思いつくようになり、それまで適当に打っていたのを、キョウの白石を狙って黒石を置くようになる。
三戦目も俺が勝った。
しかし、その差は確実に縮まり、はじめは盤上を見ただけで勝敗が明らかになったものを、キョウがやるようにきちんと数えなければわかりにくいものとなってきた。
落とされる四個の黒石。四戦目。
ぱちんとすぐに返すキョウに比べ、俺は一手に時間をかけるようになる。
「…動かされてるな」
この無表情な人形のような少女に。
呟いた俺を、キョウはちらりと見遣る。
はじめ盤上遊戯を断っていた俺が、言葉で訴えられることもないまま、気が付けばそこそこ真面目にこの天地黒白に取り組んでいる。
キョウは何をしたかったのか。
(ただ遊びたかった訳ではあるまい)
素人同然の俺だが、この遊戯におけるキョウの腕前が相当なものはわかる。四個の譲歩でそろそろ俺の勝ちは怪しい。しかも、時間をかける俺に比べ、キョウは俺の番が終わると即座に返しを打つ。これが強くなくてなんだろう。
これだけの差がありながら、なぜ俺とわざわざ、この盤上遊戯をしたのか。
(打ち方には性格が表れるという。俺という人間を測られた訳か)
そう考えると、キョウの返し打ちも疑わしくなって来る。キョウは真剣な勝負を楽しんでいる訳ではなく、要所要所で俺の打ち方、物事に対する考え方を切り出すように打たせた訳だ。
「…食えん奴め」
思わず漏らしたが、キョウは無視。全く聞こえていないような顔で次の手を打ち、俺の返しを待つ。
俄然、この少女に興味が沸いてきた。
そして俺は、今までの人生で全く興味のなかった天地黒白を、侍女がキョウを探し呼びに来るまで、何戦も打ち続けたのだった。