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千の夜をゆく 1

頬を濡らす水滴にふと意識が戻り、俺はうっすらと目を開けた。

雨が降ってきている。

まばらに草の生えた湿った地面に横たわり、天上を振り仰ぐと、樹々の隙間から暗灰色の雲が天を覆うのが見え、そこからぽつぽつと水滴が降りてきていた。

(これは…駄目かもしれないな)

左足が動かず、じくじくした痛みがある。

全身がけだるく熱を持ち、視界もどこかかすんでいる。

(落ちた時にしくじったな。いよいよ俺も、命の納め時か)

怪我をし、熱を持ち、動けずにいて、そこにこの雨。

この後熱はいよいよ高くなり、意識が朦朧とした時間が続いて、やがてそれも途切れ、死ぬのだろう。

(それもまた良し)

疲れた。

今まで口に出すことはしなかったが、そろそろ休みたい。

たとえそれが死への(いざな)いとなっても良いような気がした。

今、自分の周囲には誰もいない。自分を慕い命を預ける部下も、戦うべき敵もいず、山中で一人地面に横たわるこの静寂の時間があることは、まるで奇跡のようだ。

天から落ちて来る水滴を見つめていると、このまま母なる大地に還るのもごく自然のことのように思えて来る。

俺は、しばらくその雨の降る様子を眺めていた。

そしてやがて再び目を閉じた。


どれくらい時が経ったのか。

もう消えゆくばかりを覚悟した俺の頬を、額を、何かが懸命に拭っている感触がし、俺はその違和感に目を開けた。

手だ。

か細い手が、何かの布の切れ端で俺の濡れた顔を拭っている。

と、俺が目を開けたのに気づき、その手の動きが止まる。

視線を動かすと、女の顔が見えた。

いや、女とは言えない。恐らく年は二十に満たない、未だ少女といった頃合いか。

整った顔ではあるが、すこぶる美人という訳でもない。柔らかい栗色がかった髪に、色白の肌、ほんのり桜色の頬、小さい唇、部分部分が可愛らしく作られているのに、それを従える瞳の輝きが、何かを(こら)えるように強い意志に満ちた眼差しをしている。藍色の星が煌めくような瞳だ。

だがその瞳は、俺と目が合うとすっと細められ、輝きもまたなりを潜めて隠れてしまった。

そうすると途端に、無表情に、冷たい陶器の人形のように思える。

その少女は、伏し目がちに俺を観察し、改めて額に手を当てた。

ひんやりとした手の感触が気持ち良い。

やがて少女は立ち上がり、くるりと身を翻す。そして俺を残してどこかへ駆けてゆく。

俺はその小さな背中を見送った。

(命運は尽きたかと思ったが…)

まだ俺は死ねないらしい。

小さな少女の影が雨の降る中に消えていく。それを見ているうちに、また瞼が降り、俺の意識は暗転した。


次に目覚めた時、俺は柔らかい寝台に寝かされていた。

やはり、という思いがある。意識がなくなる前に見たあの少女が、何らかの助けを呼んだのだろう。

天井に張られた板の木目をなんとはなしに眺めていると、そのうちに部屋の扉が開き、男が入ってきた。

壮年の細身の男だ。恐らく、何らかの武芸を相当たしなんでいる。鍛えた体つきをしている。

この男を倒すとしたらまずどこからかかるべきか、そういった些末なことを考え始めてしまう自分に我ながら呆れていると、男は俺の枕元へ来て話しかけてきた。

「起きたか。具合はどうだ」

「痛い。熱い。気だるい。ここはどこだ」

正直に端的に述べたのに、鼻白んだような顔をする。失礼な。訊いたのはそっちだろう。

憮然とした顔をしてやると、男はわずかに苦笑した。

「左足が折れている。全身の打撲に、雨でひどい高熱が出ていた。今は大分下がった筈だが。しばらくはここで養生するといい。倒れているおまえを、姫様が見つけられ、私に預けた。具合が良くなるまでここで面倒を見てやろう」

「姫様?」

あの少女のことか。

一言も口を利かず、怪我をして倒れている男に驚きもせず、雨に打たれた俺の顔を拭い、助けを呼んできたあの人形のような顔の少女は、姫様と呼ばれる身分なのか。

「俺の恩人は、何という姫様なんだ」

「…まずは自分で名乗ったらどうだ。恩を感じるのなら」

(簡単には名を明かさないということか。まあそうだろうな)

今は傷つきろくに体を動かせないとしても、その姫様やこの男にとって俺は紛れもない不審者。警戒して然るべきだろう。

とその時、再び部屋の扉が開いた。

侍女らしき女を連れて、少女が入って来る。俺の恩人のあの少女だ。

「姫様、こちらには来られないようにとお願いしましたのに」

困ったことだと声ににじませる男に小さく頷き、少女は俺の近くへ寄る。

じっと見つめる藍色の瞳が、硝子玉のように見える。

星のように煌めく意志を宿した輝きは、今もまた、ない。

なぜなのか。あれは見間違いか。

(なぜそんな、死んだ魚みたいな眼差しをしているのか)

少女は視線を伏せ、やがて問うように男の方へと向ける。男は観念したように答える。

「先ほど気づいたようです。もう心配いりませんね。しばらくここで預かりますが、…」

「俺は、チヤだ。チヤ、千夜。おまえは?」

男が話すのに、俺は強引に割り込んで言った。二人は俺を見た。

少女がわずかに目を見開いている。だがそれもすぐに収まる。

(やはり一言も話さないな)

女と言えばもっと雄弁なものだと思っていた。だがこの少女は違うらしい。

「姫様に対しておまえだなんて、貴方、一体どういうつもり!?」

少女の後ろで控えている侍女が怒鳴ってきた。そうだろう、女とはそうやってよく喋るものだな。

(なぜ話さない。口が利けないのか。思うところがあるのか)

俺は少女の返事を待つ。

「…キョウ」

やがて少女は小さく答える。だが俺はそんな答えでは満足しない。

(隠したな)

キョウ、だけでは名の全てではない。家名と本人にのみつけられた真名、通常、名には音が二節あるものだ。

「どんな字を書く?」

キョウと読む字を挙げつらう。だがキョウは答えず、それで用は済んだとばかりに身を翻し、部屋から出ていく。侍女も慌ててその後を追い、出て行った。

「千夜、おまえ、姫様と何があった?」

訝しむ声で、残された男が尋ねる。

「何が、と言われても、何もないが。命は助けられたようだが」

「姫様が名乗られるなんて…」

ということは、少なくとも偽名ではない訳か。

問われて答えたのだから、家名ではなく、真名なのだろう。

「私も名乗っていなかったな。照濫、(あざな)は優翠。…千夜というのは字か。随分変わっているな?」

「名付け親が変わっていてな」

怪しむ照濫に空っとぼけて答える。

「で、名はなんという」

「…キョウが教えてくれたら、名乗ってやってもいい」

(うそぶ)く俺を、照濫は観察するようにじっと見つめた。

「今すぐ追いだしてやっても良いんだが」

「できないのだろう? なにせ姫様の仰せだ」

不遜に答えると、憎々し気に睨みつけた後で、うべなう。

「まあ、そうだ。ここでは姫様が絶対だからな。姫様のご加護により、おまえの命は保たれている訳だ。…裏切るなよ、千夜」

ぞっとする程低い声で、照濫は言った。

「姫様に害を為すなら、私はためらいなくおまえを殺す。私だけでなく、この屋敷の人間は皆そうだ。

…昔、それができずに苦い思いをした。だから、次こそは躊躇しないと心に決めている」

「裏切ったりなどしない。命の恩人だからな」

少なくとも、俺にはその気はない。今のところは。

俺の顔、その顔に浮かぶ真意を確かめるように眺めた後で、照濫は部屋を出て行った。

俺は、――少々浮かれていたのかもしれない。

今まで自分を取り囲んでいた、煩わしくさえあった人間関係と全く切り離されて、こうして見知らぬ場所にいることが新鮮だった。

そしてあの少女。キョウ。

それがこの、仙境にでも迷いこんだような日々のはじまりだった。

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