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遺書は捨てられし 3

私が子を孕んでいることは、たちまちのうちに周囲に明らかになった。

あの男に襲われてから約二か月、何かするとは吐き気を催しているのだから、当然推測できる事態ではある。ただただ続く気持ち悪さに翻弄される私をよそに、何がしかの取り決めがあったのだろう。ある日私は、侍女の利喜から、一瓶の薬を差し出された。

「どうぞ、お飲みください。楽になりますから」

当然の如く差しだされた薬。

それは、子を堕ろすためのもの。

「飲めというの? その薬を」

「姫様…」

途方に暮れたような目で、利喜は私を見返す。

私は首を振った。

「できない。だって、だって、…生きているのよ。ここに」

両手で抱きしめるようにおなかを押さえる。

「襲われてできた子供ですよ。堕ろすのが当然ではないのですか? 姫様だって苦しまれているではありませんか。まさかその子を、あの方を、愛しているとでも言うのですか?」

泣き笑いのような疲れた顔。いつも優しい姉のように私に接し、幼い頃から身の回りを世話してくれた利喜の言葉に、私は愕然とした。

愛している訳などない。強姦した相手をなぜ、好ましくなど思うのか。

それまで面識すらなかったあの男を。その果ての子供を。

「でも、でも、それなら私が今まで信じていた月神(つきかみ)の教えは何だというの?

月神は夜を統べるもの。闇を守るもの。命育む神にお仕えするものは、あまたの尊き命を重んじるべし。

貴方たちが、私に、日々そう言い聞かせて来たのじゃないの」

決して責任を負わせたかった訳ではない。

だが、生まれた時から何かにつけてそう教えられ、唱えて育った私は、もう、たとえそれがどのようなものであれ、生きるものを無碍に殺すことなど、できはしない。

そういう風に私は育ってしまったのだ。

「飲めない。無理よ。できない」

きっぱりと言って断る私に、利喜はしばらく無言でいた。

「どうしても、飲めないと。では、…その子を、お生みになる、と」

生みたくない。でも、堕ろすことはできない。ならば、結果的に、生むことになる。

私はただ頷いた。それ以上、どんな言葉も形にはできない。

「ああ…」

利喜は顔を覆い、嘆息した。

わかりましたと小さく答え、その薬の盆を下げて、利喜は部屋から出て行った。


数日が経ち、いつもなら朝の支度にと利喜が入って来るところを、照濫が入室して来た。

久しぶりの愛しい照濫の顔に嬉しく思う一方で、あの男との忌まわしい記憶に苛まれる私は、男性の存在にただただ寝台で体を強張らせる。そんな私の様子を見てとり、照濫は寝台から少し離れたところで跪いて、やがて厳かに言った。

「利喜が死にました」

「死に、…なぜ!?」

「覚悟の自殺です。中庭で首をくくっていました。部屋に遺書があり、此度のことは全て自分が招いたことだと」

「そんな、利喜が気に病むようなことではないわ! あの男が、私を…」

「あの男を招いたのは利喜です。権威と金銭で脅され、あの日、禊の場に入れたのです」

照濫の言葉に、私は声も出なかった。

あの男。私を犯した、名前すら口にしたくないおぞましいけだもの。

それを招いたのが、他ならぬ、私の侍女の利喜だというのか。

あの日いくら叫んでも、利喜も、照濫も助けには来てくれなかった。

それも利喜が手配したことだと。

「利喜は、ただ深窓の巫女姫を一目見てみたい、この春帝国に並ぶものなく美しい姫をかいま見るだけだからと言われ、それくらいならとあの男を入れたそうです。まさかそこで姫様が…襲われ、まして妊娠することになるとは思わなかったと。…堕胎の薬を断ったそうですね」

私が子を堕ろさなかったから。だから利喜は死んだというのか。

あの時、私が差しだされた薬を前にしてできないと言ったその時に、私は強姦の果ての子供の命を選び、長らく仕えて来た姉とも思う利喜の命を捨てたと言うのか。

利喜とやりとりしたあの時の言葉、光景が、ぐるぐると回る。

「わたし、…あの薬を飲むべきだった…? 照濫、…」

「…姫様は如何様にお考えですか。今からでも、子を堕ろしますか」

逆に問われ、言葉に詰まる。

やっぱり、できない。命を摘み取ることなど。

「皆は、どう思っているの…」

照濫は逡巡し、だが言った。それは私の予想を超えた言葉だった。

「今となっては、堕ろすべきではないと。

利喜の死により、月神様にお仕えできる巫女がいなくなりました。当代巫女姫と成り得る娘は、姫様と利喜の二人だけでしたから。そのお子がもし女ならば、唯一、次の巫女となることのできるお子です」

「…そんな」

強姦された子だと私に堕胎を勧め、利喜が死んだ今、今度は一族のために生かせと言うのか。

「利喜は、まさか、そのために自殺したの」

「いえ…多分、利喜はそこまで考えてはいなかったでしょう。ですが、利喜の死が、結果的にその子供の命を一族に認めさせたのは事実です。

姫様、私は、姫様のお気持ちに従います。皆の意見がどうであれ、子を堕ろすも、生かすも、姫様がお決めになってください。私が必ずそれを守り抜きます。今度こそは」

照濫の顔には、強い決意が浮かんでいた。

あの時、私があの男に犯されたそのとき、いくら呼んでも来てくれなかった照濫が、深くそのことを悔いているのが、十分に伝わってきた。だから今度こそはと、照濫は言うのだ。

私の考えは変わらなかった。

この子を生む。

あの狂った夜の出来事を、思い出すたびに命が凍り付きそうになるあの時を、決して忘れた訳ではない。

でも、私は、貴女を生むと決めたわ、ちい姫。

私の可愛い、可愛い、赤ちゃん。

だって、生まれてくる命には、そこに至るまでの出来事など、関係のないものだもの。


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