月は照り、星は銀河に濫れ 2
その後、私はしばらく姫様のお傍には近づかなかった。
「今は、顔を見たくないの。ごめんなさい。お願い」
あの夜以来、私の顔を見るたびに、姫様は辛そうに眉根を寄せ、目をそらす。輝くばかりの笑顔を返し、気安く他愛のない日常のこまごました出来事を分け合って嬉しそうに話しかける姫様は、もういない。
それまで最も身近に使えていた護衛とて、男である私が現れることで姫様にあの悪夢の一夜を思い出させる。そのことは誰の目にも明らかだった。
護衛とは名ばかりの不甲斐ない役立たず、そう罵られても文句のないところを、姫様はただただ自分の心を痛めて、謝りながら私に下がるように言う。
(私がいても…近くに控えても、姫様の何の助けにもならず、寧ろ心を病まれてしまうのか)
姫様のために何もできない自分が悔しく、憎く、切ない。
私は、ただ頷いて姫様の元を辞去するしかなかった。
姫様が寝込む部屋を出て、姫様の部屋の扉を背にし、座り込む。
姫様の目に入らないところで、でもできるだけ近くにいたい、そう思った私は、自分の寝台で眠ることを忘れ、姫様の部屋の前で剣を抱いて過ごすことが多くなった。
何日も姫様は部屋を出ず、いたずらに時が降り積もっていく。
だが、時間の経過は何の慰めにもならず、姫様に残酷な現実を突きつけた。
まもなく、姫様が身ごもっていることが明らかになったのだ。
総領姫の不名誉な妊娠に、一族中蜂をつついたような大騒ぎになった。
人と人とが行合う度に、姫様と、姫様に宿る子どもをどうしたものか取り沙汰される。
「堕ろすべきだ。巫女となる身で、あのような男の子を孕むなど…」
「いや、相手は帝国皇帝ではないか。勝手に堕ろすなどできまい」
「あれ以来、界帝は姫様のことなど捨て置いている。もう忘れたのではないか」
「犯された娘など巫女にはなれぬと言うのに! なんというひどい扱いを」
「姫様はどうする」
「巫女になれぬ娘をなぜ総領姫に持ち上げなくてはならぬ。代替わりを。次の巫女は…利喜か」
「格が落ちるが仕方あるまい。全く何という不祥事」
「子供など殺してしまえばよい。どうせ誰も気にすまい。界帝も姫様も。生まれたところで厄介者じゃ」
(やめろ。何という醜さだ)
(これが、月の神に仕える一族だと、誇りを振りかざす者たちの言うことか)
ある意味、姫様は部屋を出ず寝込んだままで良かったのだろう。
このような醜い言葉を、心根の清らかな姫様が耳にすれば、どれ程傷つき悲しむことか。
やがて、侍女の利喜が堕胎薬を勧めたのを聞き、
姫様がそれを断ったのも、それとなく皆に伝えられた。
そしてその数日後、利喜は首を吊った。
「姫様…」
(なんというやつれようか)
あの夜から部屋に閉じこもり、寝台に縛られるようにして時を過ごしていた姫様に、久しぶりに見えた私は、姫様の変わりように衝撃を受け、しばらく放心してまともに話すこともできなかった。
以前と変わらぬぬばたまの黒髪、星のきらめくような藍色の瞳。だがその月色に輝いていた肌は血の気を失って蝋燭のように白く、ふっくらした薔薇色の頬はこけて、つややかな唇はかさついてひび割れている。姫様が遭遇した災禍が、天人のように華やかで幻想的な妙なる美貌を犯し、姫様を何か別のものに作り変えたかのようだった。
しかしそれでも、姫様は美しかった。
憂いを含んだ哀惜の満つる眼差しが、私の一挙手一投足にびくりと震え、怯えるさまが、なんという痛々しさを現し、庇護欲をそそるのか。
私は姫様のいる寝台から距離を取り、跪いて、やがて厳かに告げた。
「利喜が死にました」
「死に、…なぜ!?」
驚く姫様に、事実を淡々と述べる。
「覚悟の自殺です。中庭で首をくくっていました。部屋に遺書があり、此度のことは全て自分が招いたことだと」
「そんな、利喜が気に病むようなことではないわ! あの男が、私を…」
「あの男を招いたのは利喜です。権威と金銭で脅され、あの日、禊の場に入れたのです」
私の言葉に、姫様は絶句した。
私とて知っている。利喜は、姫様とは幼い頃から親しく過ごしてきた、腹心の侍女。
侍女というよりも、最早姉妹のように、親友のように姫様と接してきた間柄だ。
まさかその利喜が、姫様にこのような災いを運んでくるとは。
「利喜は、ただ深窓の巫女姫を一目見てみたい、この春帝国に並ぶものなく美しい姫をかいま見るだけだからと言われ、それくらいならとあの男を入れたそうです。まさかそこで姫様が…襲われ、まして妊娠することになるとは思わなかったと。
…堕胎の薬を断ったそうですね」
それが利喜の死を決定づけた。
子を堕ろさず、生もうとする姫様。その子を生ませたのは自分。
消すことのできない、取返しのつかない罪の証をつきつけられ、利喜は耐えられなかったのだ。
「わたし、…あの薬を飲むべきだった…? 照濫、…」
「…姫様は如何様にお考えですか。今からでも、子を堕ろしますか」
頭の片隅に、堕ろすと言ってくれと、願う自分がいる。
(何ということを。私は…)
身の程知らずにも、私は、姫様をお慕いしてしまっていた。
姫様を守れなかった無能な自分以上に、姫様を犯したあの男を殺してやりたい、この手で引き裂いて滅ぼしてやりたいと憎む自分がいる。
姫様の腹の中に宿るのは、その男の子どもだ。姫様を犯したあの男の、その卑しい血を引く子どもを、なぜ、姫様が受け入れ、生まなければならないのか――。
「皆は、どう思っているの…」
恐る恐る小さい声で問うた姫様に、私は逡巡し、だが言った。
「今となっては、堕ろすべきではないと。
利喜の死により、月神様にお仕えできる巫女がいなくなりました。当代巫女姫と成り得る娘は、姫様と利喜の二人だけでしたから。そのお子がもし女ならば、唯一、次の巫女となることのできるお子です」
「…そんな」
私の答えは姫様の予想を超えていたようだった。
私とて、まさか利喜の死がこのような考えを引き出すとは思ってはいなかった。
(勝手なことを…姫様を、純血をつなぐためだけの道具扱いに)
強姦された子だと姫様に堕胎を勧め、利喜が死んだ今、今度は一族のために生かせと言う。
このような一族など、姫様の害にこそなれ、生かしたところで何の助けにもならぬ。
(いっそ滅びてしまえば良いのに)
「利喜は、まさか、そのために自殺したの」
「いえ…多分、利喜はそこまで考えてはいなかったでしょう。ですが、利喜の死が、結果的にその子供の命を一族に認めさせたのは事実です」
(だがそんな事情は、姫様が憂うべきことではない)
どうしても、これだけは伝えたい。私は、今すぐにでも姫様の言う通りに剣を振るう覚悟で、告げる。
「姫様、私は、姫様のお気持ちに従います。皆の意見がどうであれ、子を堕ろすも、生かすも、姫様がお決めになってください。私が必ずそれを守り抜きます。今度こそは」
そのためなら、あのような身勝手な醜い一族を滅ぼすこともする。
全ての元凶である春帝国皇帝であっても、殺しに行く。
姫様がそれを望むなら――何ものが敵に回ろうとも、この剣できっと血路を開き、姫様を望む場所へお連れする。
(だから今度こそは)
姫様の考えは変わらなかった。
「この子を生むわ。私、この子を生む。だから、お願い、助けて、照濫…」
(これ程の目に遭っても、まだ、貴女は真っ直ぐに空を見上げ、前へ進もうとする)
(誰よりも尊い、誰よりも清らかな、私の姫様)
その姫様に付き従うのは、ただびとなる私にはどれ程の苦行だろう。
(いっそあの男を、古き慣習に捕らわれる干からびた一族の皆を、殺し滅せよと、命じてくれたら)
(この憎しみを、悔しさをぶつけ、憂さを晴らして良いと言ってくれたら)
私は姫様の懇願に頷く。
「はい。必ず、この照濫が、姫様をお助けします。この命に代えましても」




