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遺書は捨てられし 1

その日は、私にとって晴れがましい、心地よい緊張に満ちた、記念すべき日だった。

一族の総領姫として大切に育てられた私が、いよいよ神の花嫁となり、この身を生涯信望する月神に捧げる、始まりの日。慣れ親しんだ人々と離れ、神殿の奥深くで神に仕え、祈り、神託を下ろす、その静かで厳かな時間に身を沈めていく筈の、その最初の日。

だが、そうはならなかった。

禊を終え、設えられた泉から上がった私の前に現れたのは、背の低い、痩せた男。

――男。

「ほう、なんという美しさか。これが今日から巫女となる姫か。ふふ、こんな鄙びたところで、このように美しい姫に(まみ)えるとはな。なんという幸運」

その男は、口元を奇妙に歪め、嘗め回すような視線で私を見る。

はっと息を飲み、私は我が身を両腕で抱きしめ、隠す。だが、特に鍛えた訳でもない細い腕が四肢の輪郭を隠しきる筈もなく、禊で濡れた簡素な白服は体に張り付き、脅えたその姿は禁欲的な色香をかえって醸し出してしまっていた。

「月の神に仕える巫女姫か。ふむ、其方こそが月の神のようではないか。夜闇のように流れる黒髪、月のようにほの白い肌、煌めく藍色の瞳、なるほど、なるほど、良いのう。其方に一夜の誉れをやろう」

男がずいっと足を進める。蛇が這い、絡みつこうとする禍々しさを感じ、私の足が一歩下がる。

脅えた私の様子を楽しみ、男はまた足を進める。

「…誰か。誰か、誰か来て! 照濫! 利喜! 誰か!!」

近づく男に、私は震えが止まらない。叫び、身近な人々を呼ぶ。少なくとも禊の泉の次の間には、侍女が一人控えていた筈。その向こうには護衛で照濫がいた筈。

私の悲鳴は続く。だが誰も来ない。男が近づく。

どうして誰も来ないの。こんなに呼んでいるのに。

泉の中央まで下がり、体は再び腰ほどまで浸っている。冷たい。先ほどまで感じていた清涼な空気が、今はよそよそしい。男が泉に入り、進み、私へ手を伸ばす。

(私以外、巫女以外の何ものも入れないこの場所に)

男が笑う。私の意識が回る。

これから何が起こるのか、悟った。

「いやあっ! いやあ、助けて、誰か!! 照濫! 照濫っ!!」

男は私の腕を掴み、腰を抱き、強引に泉から引き上げる。ばしゃばしゃと水しぶきが飛び、男は水を被る。

男は笑っている。歪んだ顔で、私を見て、無力な抵抗が嬉しくてたまらないように笑う。

「助けて! 誰か! 誰か、助けて!! いやあ――――っ!!」

私は冷たく固い石の床に組み敷かれた。

神の花嫁となる日は、永遠に来なくなった。

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