第八十六話 家庭科のお時間
ミストリア王立学院、教室棟の1階。
その北端には他の教室の3倍程度の広さの教室があった。
室内にはちょっとした調理器具や大きな作業用テーブルが設置されている。一般教室とは違い、随分と雑多な物がたくさん置かれていた。
ここは家庭科室。
そう、今日は家庭科の実習授業の日であった。
「あ、キャシーさん。そこは裏側に手を当てて……生地を離さないと」
「う、裏側?」
「そのまま縫い進めると、閉じてしまいます」
「あ、あれっ!?」
実習の内容は手芸だ。
各々好きな題材の簡単な手芸作品を作成することになっている。
小物入れや手袋、ポシェットや、小さな敷物など、様々だ。
「う、うぅ~……私って本当に手先が不器用で……」
そして私は小物入れを作っていた。
デザインも特に凝ってはいない。教科書通りの……悪く言えば味気のない小物入れ。
しかし己の作品の不格好さに思わず悲しくなった。
「そ、そんなことないですよ! ほら、私達は今までの授業でマリー先生から教わっていますしっ」
そうやってルノワールは必死にフォローしてくれるけれど、本当にそれだけなのだろうか。
ちょっと教わったくらいじゃ、手先って器用にはならないような……。
「あ、あのルノワールさん……お話し中ごめんなさい。この部分なんですけれど……」
クラスメイトのサーシャさんは模様が上手く作れずに困っているようだった。
ちなみに他の生徒たちからも、ルノワールは度々相談を受けている。
「えーっと。あ、なるほど。ここはですね……」
サーシャさんから生地を借りたルノワールは一度、結び目を解き、再びするすると縫い始めた。
その速度の素早い事と言ったらない。
「う、うわっ、すごい……っ。あっという間に!」
華麗な指使いは見ていて惚れ惚れするほどであった。
「……うん、やはりこうですね。サーシャさんのデザインは少しばかり複雑ですので、この角の模様を縫う時に……」
サーシャさんの傍に顔を近づけレクチャーするルノワール。
ちらちらとサーシャさんは時折ルノワールの横顔に視線を向けて、頬を赤らめていた。
なんでもこの学院にはルノワールのファンクラブが存在しているらしく(なんだそれは!)、彼女もその一員であるらしい。
「あ、なるほど。ありがとうございます!」
「いいえ。他にも何か困った事がありましたら、気軽にお声掛け下さい。私に出来る事でしたらお手伝いしますので」
サーシャさんの問題を解決したルノワールは私に目を向けた。
「キャシーさん」
「ぅんっ!? な、なに?」
「そのまま縫うと再び閉じてしまいます」
そして残酷な宣告。
「あ、あれ~っ!?」
ぐすん。
どうせ私に手芸の才能は無いのよ。
「まずはこの先の部分をご覧ください。この場所に糸を通して」
だけど彼女は根気強く私に教えてくれる。
あ、なんだか王宮に居た頃を思い出しちゃうな。
「こ、ここ?」
「そうです。そして反対側の……」
密着するほどの距離でルノワールの手の平が私の手の平に重なった。
「うっ……!?」
あ、なんだか良い匂いがする。
男の姿の時とはまた違う、なんというか甘い香りがルノワールから漂ってくるのだ。
気付けば目の前には整った小顔があり、透き通った瞳が左右に揺れた時、美しい黒髪が私の頬を僅かに撫でる。
その感触にくすぐったくも、なんだか心地よさを感じてしまい――私はハッとした。
(はっ!? 私は何を!?)
授業中に同性のクラスメイト相手にうっとりとした表情を浮かべるなんて……サーシャさんの事を笑えない。
そしてそんな私の顔がどうやらサーシャさんに見られていたらしい。
彼女はこっそりと私に向かってうんうん、と頷いていた。
言葉にせずともサーシャさんの言わんとしている事が理解出来てしまい、私は思わず赤面してしまった。
「ん? キャシーさん?」
「はぅっ!? なぁ、なんでもないわ! そ、それでここからどうすればいいのっ?」
ルノワールに教わりながら私が手元を真剣に見つめていると、ゆったりとした穏やかな声が聞こえてきた。
「あらあら、ルノワールさんがいるとわたしも助かるわ~」
おっとり、という表現がこれ程似合う人も早々いないだろう、と思わせるような女性が朗らかに微笑んだ。
家庭科のマリー=ジュネス先生だ。
来年50歳を迎える彼女は非常に優しい先生として学院内では評判だった。
「ルノワールさんは、わたしよりもよっぽど御上手ですからね~」
「そ、そんなことは決して無いですっ」
首を振りながら否定するルノワール。
しかし彼女の技量の高さを否定する者は彼女以外には居なかった。
「うふふ、ルノワールさんは良いお嫁さんになれるわね~」
マリー先生の言葉に他意は無いだろう。
周囲の生徒達も熱心に頷いている。
しかし事情を知っている私とリィルは複雑な表情をしていた。
「あ、あはは……そ、そんな私がお嫁さんなんて……」
何よりもルノワール自身がぎこちない笑顔を浮かべるばかりである。
乾いた笑みだった。
うん、あれはショックを受けてるわね。
でもそれもしょうがないだろう。
マリー先生の言う事は尤もだ。
話を聞く所によるとルノワールにも歴史などの苦手科目は存在するらしいが、家庭科においては右に出る者は存在しないのだから。
その時、少し離れたテーブルから一枚の生地が飛んできた。
「ん?」
ひらひらと舞う一枚の生地。
ルノワールが飛来したそれを空中で掴んだ。
「これは……?」
「あっ、やべ。ご、ごめん、ルノワールさん。それ俺のなんだっ」
慌てた様子でこちらに駆け寄る少年の姿。
どうやら別のテーブルで作業していたクラスメイトの作品らしい。
「あ、テリーさんの物でしたか」
笑顔で頷きながらルノワールがテリー、と呼ばれた少年の作品を見つめた。
「これは……ボールですか?」
テリーの生地には、確かに何やら丸い物が描かれている。
お世辞にも上手、とは評せない出来栄えであるが、球技に使うような大小様々なボールが生地の上を踊っていた。
「いっ!?」
ルノワールに見られた事が恥ずかしかったのか、テリーは頬を染めながら呻き声を上げた。
「い、いやその~」
「何これ、ボールにしては歪じゃない?」
呆れ声で言ったセリさん。
まぁ確かに彼女の言う事は間違っていない。
だって真円には程遠い形状をしているもの。
「う、うるせーよっ!」
だがルノワールは決して馬鹿にする事無く、テリーにその生地を返しながら微笑んだ。
「ふふっ。いいじゃないですか」
言われた途端、テリーの物腰が柔らかくなった。
「え、あの、そ、そうかな?」
「ええ。男の子らしくて素敵です」
ルノワールにその気は全く無いだろう。
うん、彼女の言葉に他意は決して無い。
それは分かる。
分かる……んだけど。
そんな風に学年一とも噂される美少女に微笑みを向けられて、嬉しくならない男子などいない訳で。
「なに、にやついてんのよ!」
今度はスージーさんがテリーに向かって声を上げた。
さもありなん。
テリーはとっても嬉しそうな顔で佇んでいた。
「に、にやついてねぇよ、馬鹿!」
いや、どう見てもニヤニヤしていたよ。
まぁ気持ちは分かるけれどね。
逃げるようにして自分のテーブルへと戻っていったテリーだったけれど、彼はその席でもからかわれていた。「お前わざとルノワールさん所投げただろ」「んなわけねーだろっ」「ほんとか~?」「てかお前がそもそも俺のを投げ出したりしなけりゃ」「いやだってボールは投げなきゃ」「これはただの敷物だっつーの!」
そんな会話が聞こえてくる。
私とリィルは静かにゆっくりと互いに顔を見合わせた。
自然と苦笑が浮かび上がって来る。
そんな私達を余所にカミーラさんがマルクさんに己の作品を見せていた。
ちなみに1組とは違うクラスの彼女がこの場に居るのは、家庭科室は大部屋の為、3クラス合同で実習を行うからだ。
「どうよ、これ?」
「うわ、なんだこれ、へったくそだな」
「ちょぉこら。少しは遠慮しなさいよ!」
「なんでかなぁ。彫刻はあんなにすげぇのに。不思議だなぁ」
マルクさんは心底から不思議そうな顔でカミーラさんを見下ろしている。
カミーラさんが怒り混じりで言った。
「あんたのはどうなのよ!」
「俺のか? うーん、まだ途中だが」
「……上手いじゃない」
「カミィと比べたら皆上手いよなぁ」
「おいこら、従者!」
う、マルクさん止めて。
私はそんなカミーラさんと間違いなく同レベルだから。
いや下手すれば……うぅ何も言うまい。助けてルノワール。
「……よし」
と、そこで黙々と作業をしていたメフィルさんが顔を上げた。
己の主人の様子の変化に気付いたルノワールがすぐさまメフィルさんに尋ねる。
「あ、お嬢様出来ましたか?」
「うーん、まだ納得いっていない部分もあるけれど、ほとんどは完成したわね」
彼女が広げて見せたのは、マフラーだった。
濃いめの赤いマフラー。
縫い目は丁寧で、粗も無い。
私からすれば素晴らしい出来栄えである。
「わぁ……流石にお嬢様はお上手ですね」
ルノワールの称賛。
その声にお世辞を言っているような声色は無い。
メフィルさんは絵画だけに留まらず手芸も達者だった。
(うぅ……メフィルさんが羨ましい)
今日の家庭科の時間はまだまだ半分くらい残っているけれど、メフィルさんの課題は終わりかけていた。
「んー、デザインを妥協しすぎたかもしれないわね」
「ですが初めからあまり難しい物を作るのはお勧めできません。途中で詰まってしまった時に対処が出来なくなる可能性があります」
「まぁ……そうね。貴女の目から見て気になる部分はあるかしら?」
「そうですね。この端の部分なのですが……」
ちなみにルノワールも既に自分の課題は終わっている。
彼女はそそくさと一枚の敷物を完成させて、他のクラスメイト達の補佐に回っていた。
ルノワールの技量ならばもっと難しい物を作っても良いのではないか、と思ったが、彼女はファウグストス家の台所で使う敷物が丁度もう一枚欲しかったらしい。
「……私も頑張ろう」
私は再度、慣れない手付きで糸とのにらめっこを開始した。
☆ ☆ ☆
その日の夜。
「? 姫様?」
ファウグストス家の屋敷で私はテオに今日の授業で作成した小物入れを手渡した。
「えっ……これは?」
突然の贈り物に驚くテオ。
私は言い訳するように口早に言った。
「あ、いや、ほら、さ。テオにはお世話になってるし、そのお礼、というか」
「……」
「こんな大変な時にも私の従者としてよく尽くしてくれているし」
なんだか妙に照れてしまい、私はテオから視線をちょっとだけ外して言葉を続ける。
「そ、それは今日学院のね、家庭科の授業で作ったの! せ、折角だから、誰かへの贈り物を作りたくてっ。私って不器用だから全然上手に作れなかったのだけど、ちゃんと要所要所はルノワールに手伝ってもらいながら作ったから、その、小物入れとしてはちゃんと機能すると思うわ」
「……」
「あっ、もちろん、不格好だし、どうしても普段使いしなさい、って言ってる訳じゃないの。別にいらないのだったら、全然使わなくても良いし――」
「大事にします」
珍しく。
テオは私の言葉を遮るようにして、力強く言った。
「嬉しいです」
言葉と共に微笑を浮かべる私の従者。
私を見つめる彼女の優しい瞳。
「……ぁ」
それがなんだかとっても嬉しくて。
「そ、そう? まぁ王族の贈り物としては多分歴代で最も価値が低いけどね!」
この気持ちを誤魔化すように私は言った。
だけどテオの微笑みは一層深くなり、彼女は静かに首を振る。
「いいえ。そのようなことはございません」
「そ、そのようなことあるわよ」
「いいえ、ありません」
窓から差し込む月明かりの下で。
穏やかな顔で首を振るテオに心の中で感謝の言葉を投げかけた。
このような状況の中にありながらも。
(私のような王女に仕えてくれて)
いつも、ありがとう。