第八十五話 テオ=セントール
「あれ?」
夕食の仕込みを終え、なんとなく僕は窓越しに外を見た。
すると庭先で屋敷を見上げているテオさんの姿が視界に入る。
そのテオさんは、口をパクパクと動かしており、何かをしゃべっているようであった。
今この時も誰かがテオさんの様子を監視している筈だが、それでも現在はテオさんの近くには誰も居ないように見えるけれど……。
(? あんな所で一人で何を?)
興味を引かれた僕はテオさんの元へと向かった。
庭先に出ると秋風が僕の肌を撫でる。
最近は随分と寒くなって来た。もはや残暑は少しも感じる事が出来ない。
屋敷内との温度差に思わず身を震わせてしまった。
「テオさん」
「?」
僕が声を掛けるとテオさんがゆっくりと振り向いた。
何故か不思議そうな顔でこちらに目を向ける彼女。
テオさんは僕達よりも年上の女性だと聞いている。
しかし、あどけない横顔などはむしろ、僕達よりも幼い、それこそ小さな女の子のような無垢さを感じさせた。
「ルノワールさん? どうかなさいましたか?」
それはどちらかというと僕の台詞です。
「いえ。テオさんが御一人、庭先で佇んでいらっしゃるので……何を為さっているのかな、と気になりまして」
「……」
「あ、そのっ、御迷惑でしたか?」
じっと僕を見つめる視線にたじろぎ慌てたがテオさんはゆっくりと頭を振った。
「いいえ。なるほど。確かに私の行動は不可解だったかもしれませんね」
「不可解、と言いますか」
「魔力の気配を感じて、私が何か悪さをしていないかを確認しに来たのではありませんか?」
彼女は視線を逸らす事無く、淡々とそう告げる。
「ぅ……はい。客人を疑うような真似はしたくないのですが」
実は心の内で考えていた事を指摘され僕は正直に白状した。
「いいえ。貴女の立場を思えば、当然の対応だと思います」
先程の彼女はただ口を動かしていただけではなく、ほんの僅か、それこそ僕が意識を集中して探らなければ分からない程度であるが、魔力を使っていたのだ。
屋敷内で無闇に魔力を使う必要があるのか。それも一人で。
僕はどうしても、それらの事が気になってしまったのだ。
カナリアの事は信用しているけれど、僕はまだテオ=セントールという女性の事を余りにも知らない。
「……練習です」
「えっ?」
「魔術の練習をしていました」
彼女はそう言った。
「練習、ですか?」
「はい。姫様から、私の得意な魔術などは伺っておりませんか?」
「あ……そういえば、『音』に関する魔術が素晴らしい、と」
僕がカナリアの言葉を思い出しながら口にすると、テオさんはほんの少しだけ頬を染め、そっぽを向いてしまった。
普段はクールな彼女であるが、照れた顔はとても可愛い人だった。
「……素晴らしい、というのは言いすぎです。それは姫様の御世辞です」
だけどいつまでも照れた顔を見せてくれるような女性ではないらしい。
テオさんはすぐさま普段通りの理知的な表情に戻ってしまった。
「ですが……私が最も得意としていることは本当です」
そう言うと彼女はおもむろに魔力を練り始めた。
一体何をするつもりだろうか?
場合によっては突然魔術を行使しようとするなんて失礼に当たる行為だ。
とはいえ、僕に対する敵意のようなものはまるで感じない。
好奇心も手伝い黙ったままテオさんの様子を窺っていると、彼女は見事な手際で魔術を発動した。当然のように詠唱は無い。
そして彼女は突然言った。
「おはよう、ルノワール」
『カナリアの声』で。
「えっ!?」
僕は驚き、目を見開いた。
「どうしたの、そんなに驚いて」
「えっ、わっ! こ、これってもしかして」
「えぇ、そうよ。姫様の声を真似てみたの。似ているかしら?」
笑顔でこそ無いが、どこか楽しげな様子でテオさんは小首を傾げた。
仕草や口調までカナリアそっくりだ。
なるほど、これはすごい。
「す、すごいですね。とっても似ています……というか、まるきり同じに聞こえます」
「音魔術に関しては適性があったみたいなの。まぁ、そういうのもあって昔から練習もしていたのよ」
「は、はぁ。なるほど……」
彼女は特別に難しい魔術を使った訳ではない。
ただ声、音を変化させる魔術を使っただけだ。
魔術そのものは僕でも発動出来る。
だけど。
「こ、ここまでの練度の音魔術は初めて見ました」
僕は素直に感嘆した。
テオさんは微妙な調整、僅かな特徴も見逃さないように魔術の音の変化を、操っているのだろう。
一体どれほどの緻密な制御を要求されているのだろうか。
その細かな調整は一朝一夕で出来る物ではない筈だ。
いやどれだけの練習をしようともセンスが無ければ不可能な芸当だろう。
少なくとも僕はこれほどまで他人の声を正確に模写出来る使い手には今までついぞ出会った事が無い。
「……素晴らしい技量ですね」
繰り返しになってしまったが、僕は再び彼女の技量を褒め称えた。
「そ、そう?」
「ええ。感服致しました」
紛れもない本心だからだろう。
僕は自然と笑顔になった。
「ルノワールさんほどの魔術師に褒められる、というのは嬉しいものですね」
やがてテオさんは魔術を解き、いつも通りの落ち着いた声音で言った。
「私ほどの、ですか?」
「ええ。色々と御話は伺いました」
「はぁ」
「学院では大変な人気だそうですね」
「そ、そうなのでしょうか? 皆さまから好意を得られているのでしたら、それは大変嬉しいことなのですけれど……」
「今年の新入生の中ではルノワールさんが男子からの人気が一番高いそうですよ」
「うぇっ!?」
そ、そうなの!?
は、初耳だ。
というか淑女らしからぬ変な声を出してしまった、反省。
そもそも何故テオさんがそのようなことを御存知なのでしょうか?
「姫様が楽しそうに仰っておりました」
「そそ、そうなのですか?」
楽しそうに?
本当は僕男なのに?
カナリアはそれを知っている筈なのに?
学院の人達から好かれているのは、とても幸福で心底から嬉しいと思えることだけれど……流石に男女の恋愛観みたいなのは、そのぉ……困る。
とってもとっても困る。
互いに不幸になる未来しか想像出来ない。
というか僕にそっちの趣味は無い。
「ふふっ」
「え、へっ? なな、何か面白いことがありましたか?」
「いえ……」
クスクスと小さく笑みを浮かべるテオさんの姿はとても愛らしいけれど、僕には何故突然笑い出したのかが分かりません。
「なんだか可愛くて」
「は、はぁ……?」
「こう、手をわたわたとさせて、なんだか目を丸くしている姿がその、ふふっごめんなさい」
あ、僕の反応が面白かったのですね。
でも。
「そ、そう言われてしまうと」
こちらとしては非常に恥ずかしいです。
「ふふ、好かれている、というのは良い事ですよ」
「う、うぅ」
思わず熱くなった頬に手を当てて困っていると、テオさんは静かに言った。
「姫様もメフィルさんとルノワールさんにはとても感謝しておりました」
「え?」
「あの御方は普段からとても国民の生活に憧れておりましたので。こうして一時の事とはいえ、普通の学院生活を送ることが出来て良かったのだと思います。最近は毎日がとても楽しそうです。それもこれもユリシア様の力添えと、貴女方のおかげでしょう」
そう言ってテオさんはとても……とても優しい表情を浮かべた。
「あの御方は……王宮では……」
寂しそうに呟く彼女の姿を見て僕も胸を痛めた。
今やカナリアの王宮での立ち位置というのはかなり微妙だ。
例の事件の話を盗み聞きした、という意味合いだけではない。
カナリアの母親の具合は一向に良くならず、以前は父親、要するに現ミストリア国王から与えられていた寵愛も最近はほとんどない。
まぁ廃人同然となってしまった現状を考えれば王様を責めるのは酷かもしれないが、母親の立場が軽んじられるようになるほど、娘であるカナリアの肩身も当然狭くなる。
しかも彼女は淑女らしからぬ武芸に秀でた王女だ。
今の王宮ではまず間違いなく受け入れられることは無いだろう。
それでも持ち前の明るさと聡明さで、普段は気丈に振舞っているらしい。
「……あの方はとても強い方なんですよ」
己の主人を誇るようにテオさんは言った。
「それと友人を大切にされる方なんです」
「えっ?」
「王宮での己の立場がどのように移り変わろうと。彼女は友人と交わした約束を愚直に守っていました」
「約束、ですか?」
「はい。昔友人に言われたそうです。魔術や体術の練習は毎日やることが重要なのだ、と。だから毎日、姫様は誰に後ろ指を指されようとも己を高める努力を続けていらっしゃいました」
「そう、なのですか」
「礼節の作法も、その友人よりも綺麗に身につけて見せる、と別れる前に約束したそうで。パメラという教師が王宮にいるのですが、彼女から一生懸命に教わっておりました」
「……」
「姫様の部屋には彼女の肖像画が飾ってあるのですが……よく辛い事があった時などは、その絵を見て『これは私の友達が描いてくれた宝物』なの、と。微笑んでおりました」
「……ぁ」
(それって……別れ際に僕が贈った……)
やがて一息に話し終えると、テオさんはハッとしたような表情になって自嘲気味に呟いた。
「すいません。従者が主人のプライベートを口にするなど……あってはならないことでしたね」
「テオさん……」
「でも何故でしょうか……ルノワールさんになら、姫様も御話になることを許してくれるのではないか、と。そう思いました」
駄目な従者ですね、と彼女は言った。
だけど僕はそうは思わない。
「駄目な従者なんかじゃないですよ」
決して気安めで口にした言葉ではない、本心からの言葉だった。
もしかしたら彼女は傍に居ながらにしてカナリアを救えない自分の力不足を恥じているのではないか。
勝手な妄想かもしれないけれど、なんとなく、僕はそんな風に感じた。
だけど、それは違う。
たとえ僕がテオさんと同じ状況だったとしても、王宮の現状を変えることなど出来ないだろう。
それはきっと個人の力でどうにかするには、とても難しい事なのだ。
むしろ、そのような状況でも、決して見捨てることなく、傍に控え、主人を案じる彼女が良い従者でない筈が無い。
今現在だってカナリアを支える者として、彼女と共に王宮を後にして来ているではないか。
僕がそう口にしても、テオさんは再び自嘲するように呟くのみだった。
「いいえ……駄目な従者ですよ」
「テオさん……」
少しだけ乾いた声音が秋風の中を流れて行く。
僕の慰め程度では、どうやらテオさんの心を晴れやかにすることは出来ないらしかった。
「「……」」
なんだか湿っぽい雰囲気になってしまった。
僕はこの雰囲気を変えるために、努めて明るい声で尋ねた。
「えっと……テオさんはいつ頃からカナリア姫様の従者を?」
僕の気持ちを汲んでくれたのか、テオさんも心なしか、弾んだような声音で答えてくれた。
「そうですね……前任の執事の方が辞めてからだったと思いますから。もう2年近く前からになりますね」
僕はテオさんのお話を聞きながら。
テオさんは僕の学院でのお話を聞きながら。
従者二人、のんびりと夕食までの時間を過ごしていた。