第八十三話 学院へ行こう
青空の向こう側。
雲の切れ間から覗く太陽の光を浴びながら、私は両腕を掲げ、思い切り伸びをした。
「うぅ……んっ」
晴れやかな気分で屋敷の玄関口に立っていると、やがて二人の少女がやって来た。
メフィル=ファウグストスと、その従者ルノワールだ。
「……」
今朝は色々と支度があったので、まだ二人には顔を合わせていない。
私の姿を見て目を丸くするメフィルさんに向かって頭を下げた。
「おはようございます、メフィルさん」
笑顔と共に挨拶を口にすると、戸惑いがちに彼女は言った。
「えっと、もしかして……カナリア様、ですか?」
「はい、そうです」
とはいえメフィルさんの戸惑いは無理も無い。
現在私はユリシア様の魔法薬の力で、姿を変えていた。
話を聞く所によると、性別変換薬はルークぐらいの魔力が無ければ使うことが出来ないらしい。
しかし、そこまで大きな変化を起こさない変装用の魔法薬であれば私でも使用可能だった。
「どうでしょう、普通の学生に見えるでしょうか?」
ミストリア王立学院の制服で身を包んだ私は、若干の不安を抱えつつ尋ねた。
背丈こそ、そのままであるが顔立ちは随分と様変わりしている筈だ。
肩口で揃えられた短めの髪は、普段は決して身につけないだろう、可愛らしい小さな桃色のリボンで纏められている。
華美な装飾品の類は一切身に纏っておらず、王族らしい要素はどこにもない。
極め付けは目元を覆った赤い縁取りの伊達眼鏡だ。
今や顔の印象は元の私とは似ても似つかない程に変化していることだろう。
例え王宮で私の姿を目にしたことがある貴族生徒に出会ったとしても、まず間違いなくカナリア=グリモワール=ミストリアと結び付けることは出来ない……と思う。
「驚きました。元のカナリア様にはとてもではありませんが……見えないですね」
そう言って微笑むメフィルさんの様子に、私はホッと胸を撫で下ろした。
だけど一つだけ注意しておかなければ。
「メフィルさん。学院での私はキャシーと呼んでくださいね?」
それがこの仮の姿での私の名前だ。
ちなみに命名はユリシア様である。
「ふふ、そうでしたね、キャシーさん」
楽しそうに笑うメフィルさんの隣で、穏やかな表情で佇むルノワールに向けて私は言った。
「ルノワールもよろしくね?」
「ふふっ。ええ、よろしくお願いいたします」
☆ ☆ ☆
「学院……ですか」
昨晩の執務室。
ユリシア様は私の提案に対して難しい表情で俯いた。
「私の我儘であることは重々承知しています」
こんな状況下においては、馬鹿げた提案だと取られるかもしれない。
いや、事実非常識な考えだ。
しかし現状では、私は屋敷にいても、これといって、することが無い。
不謹慎ではあるが、やや退屈な日々を過ごしていた。
それも事実。
で、あれば。
学院生活というものを体験してみたい。
そして。
(何よりも)
出来る限り……彼の傍に居たい。
「屋敷の中にいることと……ルークの傍にいること」
確認するように私は尋ねた。
「どちらの方が安全でしょうか?」
「それはまた……難しい質問ですね」
ユリシア様は困った様に苦笑した。
「姫様がわたしの屋敷に逃げ込んだかもしれない、と敵が見ている可能性もありますので……下手をすればルークの近くにいる方が安全でしょうね」
「で、でしたら」
そこで一歩前に出たルークが口を開く。
「ユリシア様さえよろしければ……私としては構いません」
「ルーク……」
「メフィルお嬢様をお守りしている現状にカナリア一人が加わったとしても、それほどの違いは無いかと思います」
まるで説得するようにユリシア様に彼は言った。
次いでルークの瞳が私に向けられる。
高鳴る鼓動を押さえつけ、私は彼の瞳を受け止めた。
「学院へ……行ってみたいのでしょう?」
優しい声だった。
穏やかな慈しみの表情。
それは私が初めてアゲハの街へと繰り出そうとした時と同じ表情だった。
彼はあの時と同じ様なことを口にする。
「たまにはいいんじゃないですか?」
「……っ」
その言葉に懐かしい記憶が刺激された。
「姫様はいつも王宮で頑張っていらっしゃるのでしょう?」
そう。
でしたらたまには――。
「息抜きも必要ですよ」
「ルーク……」
思わず鼻の奥がつんと熱くなった。
「はぁ、まぁしょうがありませんね」
やがて観念したかのようにユリシア様が頭を振る。
「手続きとか根回しするのも結構大変なんだけど……まぁルークを怒らせると後が怖いし、今回は多めにみましょうか」
ただし、と彼女は言う。
「流石にテオの同行までは許可出来ません」
有無を言わせぬ口調だった。
「テオには……本当に悪いとは思いますが、屋敷に居てもらうつもりです」
「ではわたしの方の仕事を少し手伝ってもらいましょう」
後でテオには詫びることにしよう。
なんてひどい主人か、と思われるかもしれないけれど……今回ばかりはどうか許して欲しい。
「それともう一つ」
「な、なんでしょうか?」
ユリシア様の射る様な視線が再び私に向けられる。
「ルークから決して離れぬようにお願いします。彼の言う事には極力従って下さい」
ルークの傍を離れない。
それが条件。
「はい、分かりました」
だけど私にとっては願っても無いことであった。
☆ ☆ ☆
「初めまして。キャシーと言います」
教室中の視線に晒されながらも私は笑顔で自己紹介をした。
私はこの時期に短期留学という形で学院にやって来た少女キャシーという『設定』だ。
ユリシア様の書類偽装は完璧であり、疑いの目を私に向ける者は一人として居なかった。
王立学院のセキュリティ上問題があるような気もしたが、ルノワールに尋ねたところ、ユリシア様以外には到底出来るような芸当ではないらしい。
「短い間になりますが、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、クラスメイト達から拍手が沸き起こった。
王宮で目にする貴族達の嫌悪感混じりの視線など欠片も感じない。
どうやら無事に自分が受け入れられたらしい。
そうと分かると自然と心が高揚してきた。
今回私がお世話になるのは、1組。
つまりクラスメイトの中には当然のように――優しい表情で私を見つめるメフィルさんとルノワールの姿がある。
(短い時間かもしれないけれど)
貴重な体験になることは間違いない。
ドキドキする胸を押さえて私は席に着いた。
☆ ☆ ☆
す、すごいなぁ。
僕は感心する思いでカナリアの様子を窺っていた。
「それでそれでキャシーさんはっ」
「ふふ、キャシーと呼び捨てでも構いませんよ」
「あ、じゃあキャシーさん。キャシーさんはその、どうしてこの時期に?」
「ちょっと家の事情が絡んでいて……詳しいことは言えないんです。ごめんなさい」
「あ、そ、そうなんだ」
「はい。もしよろしければ私に皆さんのお話を聞かせてもらえませんか? 例えば部活動とか。ロッテさんは何を為さっているんですか?」
「あ、私は……」
あっという間に彼女はクラスに溶け込んでいた。
持ち前の明るさと、初対面の人間に対しても物怖じしない堂々とした振る舞い。
感じの良い笑みを交えつつ、困る質問は上手くはぐらかし、それでいて場の雰囲気を盛り上げるような話を展開してみせる。
例え姿を偽っていたとしても隠しきれない王族としてのオーラが周囲の人間達を魅了しているかのようだった。
「今日はメフィルさん達と御一緒に登校されていましたが……」
「はい。実はしばらくの間、ファウグストス家に住まわせて頂けることになりましたので」
カナリアは言葉と共に僕達に視線を向けた。
「メフィルさん、ルノワールさんと一緒に居ることが多くなると思いますが御容赦下さいね?」
可愛らしく言うカナリア。
彼女の言葉には嫌な感じは全く抱かせない不思議な小気味の良さがあった。
☆ ☆ ☆
楽しい。
とにもかくにも楽しかった。
これほど多くの同年代の人達に囲まれる、という経験がそもそも無かった。
何もかもが目新しい。
授業の形式だって、家庭教師による一対一では無い。
一人の教師に対して40人近くの学生達だ。
当たり前の学生生活。
休み時間に他愛ないおしゃべりをしたり。
昼休みは自分達で弁当を持ち寄ったり食堂に向かったり。
部活動では様々な事に皆が時間を費やしている。
「ふふふっ」
こうやって制服を身に纏っていると、まるで自分も一人の学院生になったかのように錯覚する。
(いや……違う)
例え一時のものであったとしても。
今の私は立派な王立学院の生徒なのだ。
(それにしても)
案の定、恐れていた事態が学院で発生していた。
それは。
(……ルノワールの人気凄すぎ!)
世間話のように少しルノワールの話題を振るだけでも分かる。
周囲の誰もが彼女に一目を置いており、憧憬の眼差しを浮かべていたのだ。
興奮気味に話すクラスメイト達の姿を見ていれば、その影響力の強さが窺えるというものである。
もちろんメフィルさんも並々ならぬ存在感を放っているが、それを上回る程にルノワールが目立っているのだろう。
とある少女の言によれば。
見目麗しい容姿に加え、洗練された所作から生み出される華やかさ。
美しいソプラノの声は聞く者の心を溶かし、慈愛に満ちた瞳は見る者の心を奪うという。
一体それは何の妖怪だ、とも思ったが、その少女の表情は真剣そのものだった。
それ以外にも学院最強の少女を一蹴したとか。
料理の腕前が超一流であるとか。
絵画が好きで芸術の造詣が深いとか。
挙句の果てには独力で聖獣を討ち取ったとか。
(うーん、なんというか……さ、流石よねぇ)
王宮に居た時から知っているが、当時からしてルークはなんでもかんでもそつなくこなす少年だった。
才能だけではなく、努力も惜しまない性格なものだから、どんどんと様々なことに精通していくのだ。
女性として上手く立ち振る舞うことが出来ているのも一重に彼の能力の高さを物語っているのだろう。
「キャシーさん?」
「あっ……な、何ルノワールさん?」
いけない、少しだけボーっとしてしまっていた。
私は慣れない手つきでずれた眼鏡の位置を直しつつ、ルノワールに返事を返した。
「いえ。もう放課後ですから。今から部活動のために美術室に向かうのですが、よろしければキャシーさんも一緒にどうですか?」
これは予め聞いていた話だ。
ルノワールとメフィルさんの二人は美術部に所属している。
放課後はルノワール達は揃って美術部に向かうため、それに自然な形で付きそうように、言葉を投げかけてくれたのだろう。
「え、ええ。是非とも御一緒に」
私は立ち上がり、クラスメイト達と軽く挨拶を交わしながら、ルノワール達の後に続いた。