第八十二話 姫様、妙案を思いつく
夜、ユリシア様の執務室にて。
「申し訳ありませんでした」
窓から差し込む月明かりを背後に背負った屋敷の主人にルークが謝罪と共に頭を下げた。
「うーん、ばれちゃったかぁ」
対するユリシア様は決して怒ることはなく、ただ苦笑するのみだった。
(この反応)
やはり彼女は知っていたのだ。
(いや……そもそも)
二人の様子から察するに、どうやら事の首謀者はユリシア様のようである。
「まぁ、しょうがないかしらね、これは」
肩を竦めたユリシア様は、まるで少女のように可愛らしく舌を出した。
「さて……どうしましょうか」
「……事情をお聞かせ頂けるのでしょうか?」
私は多少の緊張を滲ませ、目の前の妙齢の美女に問いかけた。
「……」
「……」
無言で彼女の視線を受け止める。
その時。
「そう……ですね」
ユリシア様から無形の圧力のような物を感じ取り、私は思わず息を呑んだ。
押しつぶされそうな程のプレッシャーを感じる。
私の心の深淵を覗き込むかのような、深く鋭い眼光。
(……怖い)
彼女の瞳は真剣そのものだった。
僅か一瞬ではあるが……まるで邪魔者を見るような敵意の籠った目が私を射抜いていたのだ。
数多の修羅場を潜り抜けてきたユリシア様の迫力に、意識せずとも身体が慄いた。
「……」
「……まぁこうなってしまった以上は、止むを得ませんね」
しかし次の瞬間には普段の――私のよく知るユリシア様に戻り、彼女は、やれやれ、と頭を振った。
そんな彼女の様子に途方もない安堵感が私を包み込む。
「まぁカナリア姫様の疑問は尤もですしね」
「え、えぇ」
胸を撫で下ろした私に彼女は告げた。
「結論から言いましょう。護衛のためです」
「……護衛、ですか?」
「う~んと、そうですねぇ」
彼女は少しだけ困り顔を見せて、唸った。
「……どこから話しましょうか」
☆ ☆ ☆
大筋の事情の説明を受け、私はようよう息を吐いた。
「メフィルさんの……」
ユリシア様の周囲に蔓延る暗い影。
それらを打ち払うための力としてルークを必要とした。
どうやらそういうことらしい。
女の格好をしているのは、男性恐怖症になってしまったメフィルさんのため。
なんでもルークは服装だけではなく、ユリシア様の魔法薬の力によって、肉体までも偽っているらしい。
ユリシア様以外の人間から聞かされたとしたら、俄かには信じがたい話だった。
「それ……って」
メフィルさんを守るために性別を偽っている。
事情は分かる。
分かる……けれど。
「メフィルさんが事情を知ったら……」
彼女はひどい裏切りを感じるのではないだろうか。
少なくとも私が見ている限りではメフィルさんはルノワールに対して、とても心を開いている。
それが本当は男だと知ったりしたら、彼女は――きっと傷付くだろう。
男性恐怖症が余計に悪化してしまう可能性もあるのではないか。
しかし。
「そうかもしれませんね」
平然と目の前の女性は断言した。
「だけどわたしは構わないと思っています」
そう口にするユリシア様の様子は平静そのものである。
「まぁ姫様の懸念は理解出来ますが……わたしにとっては、あの子の命よりも大事なものはありませんから」
濁り無き眼。
揺ぎ無い確固とした強い意志のみがそこにはある。
例え結果的にメフィルさんが悲しむような事態になったとしても。
娘を騙しているということに心を痛めたとしても。
人道に反していたとしても。
騙された、と糾弾されたとしても。
何よりも第一に娘の命が大事なのだ。
何よりも娘に平和で幸せな日々を過ごして欲しいのだ。
「……」
既に夫を失っているユリシア様の発言だけに、その言葉は重かった。
「……だからこそのルーク、ですか?」
「えぇ。姫様もこの子の力はよく御存知でしょう?」
知っている。
知り過ぎている。
「……」
横目でルノワールに目を向けると、彼女は困ったような顔で私を見た。
彼の力を持ってすれば、あらゆる脅威を退けることが出来るだろう。
そう信じられるだけの強さがある。
天賦の才に加え、劣悪な環境で生まれ育ったが故の圧倒的な生命力。
マリンダ様との弛まぬ訓練によって鍛え上げられた体術。
毎夜練り上げられ、洗練されていく魔術。
それに加えて転移のゲートスキルだ。
なるほど、これほど頼りになる護衛を私は知らない。
何よりも護衛として、信頼出来る、という点が非常に大きい。
大事な愛娘を守るための人選としては、確かに最良であるように私にも思えた。
「……このことを知っているのは――」
「一部、紅牙騎士団の面々とマリンダ……それからこの場にいる3人だけです」
「では屋敷内では……」
「ここにいる3人だけですね」
なんとまぁ、よくも何事もなく今までやってこれたものだ。
(ん? いや……)
本当に何事も無かったのか?
私が強い視線を向けると、メイド服に身を包んだルノワールが怯えたような表情になった。
「え、えっと……?」
「……貴方はそれでいいの?」
「へっ?」
「貴方はその姿で護衛をすることについて……どう思っているの?」
「私……いや、僕は」
一瞬だけ言い淀んだが、すぐに彼女は言葉を紡ぎ出した。
「……もちろんメフィルお嬢様を騙している、ということは事実だし、正直……後ろめたさはあるよ」
静かな口調だった。
彼は嘘を口にしている訳でも、自棄になっている訳でもなかった。
しかし、瞳は真っ直ぐに私を見ていて……そこにはどこか寂しさのような感情が混じっていることに私は気付いた。
「……」
「ユリシア様のお願いだから。そんな言い訳で自分を誤魔化していることも自覚してる」
彼の瞳を見ていて、ふと不安が過ぎった。
「だけど例えどのような非難を受けることになろうとも……僕は今、彼女の護衛を続けるべきだと思っているし、続けたいと思ってる。これは間違いなく僕の意思だ」
今私は……彼に言い難い、言葉に出したくない事を言わせているのではないか。
心の中で見まいとしていた事実を突き付けて、傷付けているのではないだろうか。
「……」
「僕はメフィルお嬢様だけじゃなく、屋敷の皆や学院の人達も騙しているような人間だけれど……」
中には同じ女性だから、と。
ルノワールに心を開く人もいることだろう。
そういった周囲の人達に対して。
「不誠実は働いていないのね?」
私は問いかけた。
答えは分かっている。
そんなことをルークはしない。
(そんな人じゃない)
それが分かっているからこそ、ユリシア様もルークに娘の護衛を頼んだのだろう。
しかしそれでも私は問うた。
「……騙しているという事以上に、周囲の人達を裏切るような真似は……自分ではしていないつもりだけど」
そこで一度言葉を区切り、彼は自嘲するような微笑みを浮かべた。
「信じられないだろうし……カナリアが僕を責める気持ちは当然だと思う」
「べ、別に責めている訳じゃ……」
事実、メフィルさんは何度か襲撃を受けているそうだ。
つまり、ユリシア様の判断は正しかったという事。
ルークが姿を偽ることで、救うことが出来た命が確かにあったのだ。
「せ、責めている訳じゃないけど、そのっ、やっぱり女性の格好をしていたらその、困ることとかあるじゃない?」
例えば着替えとか、お風呂とか。
というか、どうして私の方が慌てているのだろうか。
「そ、それはまぁなんとか」
そして何故頬を染め、恥ずかしげに俯くのか。
「そこで歯切れが悪くなると怪しいでしょっ」
「い、いやっ……その、自分からはそんな」
は、はぁ!?
『自分からは』ぁ??
「つつ、つまり、そういう状況があったわけね!?」
詰め寄り、ルークに指を突き付けると、彼は明らかに狼狽した。
「……う、いや、その……あのっ、ごめんなさい」
「私に謝ってどうするの!」
「で、でもその、そんなにひどいことは……」
おろおろと狼狽えるルーク。
女性の姿で身を震わす彼女のなんと官能的で淫靡なことか。
怒鳴っている私の心の方が落ち着かなくなってくる
同性の目から見ても、とんでもない魔性の美少女である。
ルークをよく知っているだけに調子が狂ってしまう。
(というか、学院に通っている、のよね……)
これは女性どうこう以前に男子達に対してもさぞ酷い裏切りだろう。
この姿で多くの男子生徒達の心を乱しているに違いないのだから。
「はぁ……もう」
私がソファに座り直すと、ユリシア様と目が合った。
それまでの賑やかな雰囲気とは一変して冷たい声音。
「姫様には、この事は黙っていてもらいます」
強い命令口調で彼女は言う。
「そ、それは……」
ある意味私は今回偶発的にユリシア様の秘密を握ったことになる。
これは何か交渉のカードになるか?
そんな思考が一瞬脳裏を掠めたが、すぐさま、目の前の女性に心の内を読まれたかの如く、釘を刺された。
「もしも姫様がこの事を周囲に喧伝するようであれば……心苦しいですが、わたしは貴女を見捨てるでしょう」
「え……」
「ですので、これは取引です。こちらの秘密を黙っていてもらえるのでしたら、貴女の支援を致しますし、王宮の調査も協力しましょう」
今の状況でユリシア様から切り捨てられたら私には行き場など無い。
そして彼女ならば本当にそうするだろう。
王宮の調査にしてもそうだ。
例え結果的に王宮が滅ぶことになろうとも、自分の周囲さえ無事ならば彼女にとっては何も問題は無いのだ。
他の全てをどれだけ傷付けたとしても、娘の身の安全と自由さえ保障されるのであれば、それで良し、とするような女性なのだから。
つまりこれは私に対する脅迫である。
「……分かり、ました」
私程度でユリシア様と渡り合える筈もない。
ここは大人しく彼女の言に従うしかないだろう。
再びルノワールに視線を向ける。
すると彼女は強い口調で私に迫ったユリシア様を責めるような瞳で見つめていた。
その視線に気付いていながらも、あえてユリシア様は無視している。
思わず言葉がついて出た。
「……一つ」
ルノワールの横顔を見ていたら。
私は意識せずに言葉を発していたのだ。
(なんだか懐かしいな)
彼はよくこんな顔で母を見ていた。
大人なんだからもう少し自嘲しなさい、と。
そんな風にマリンダ様に説教する彼の姿が瞼の裏に浮かびあがって来る。
「一つだけ……お願いを聞いて頂けないでしょうか?」
私の言葉に首を傾げるユリシア様とルノワール。
二人に向かって私は懇願するように言った。
「私もその薬を使って……学院に行くことは出来ないでしょうか?」