第七十八話 お姫様の変調
「せいっ!」
右拳が唸りを上げて風を切る。
実際には、それほどの威力は無いけど、私の中のイメージでは大気が大きく揺らめいていた。
「やっ!」
気合いの声と共に腰を捻り、今度は左拳の正拳突き。
続いて体重移動をしながら、身体を半身ずらし、一息に肘を突き出した。
停滞することなく、一歩身を引き、そのまま内側に寄せた右足の膝を勢いよく振り上げる。
「っ!」
ダンッと音が鳴るほどに力強く足を地につけた私はやがて、動きを止め、大きく深呼吸した。
「ど、どうかな?」
そして問いかける。
「いや、かなり良いと思います」
私の隣で見守ってくれていた少年に。
「失礼を承知で申し上げるならば。こんなに短期間でここまで様になるとは思っていませんでした」
そう言ってルークは微笑んだ。
彼の口調にはお世辞を口にしているような気配は無い。
私の成長を喜んでくれている。
それが嬉しかった。
「そ、そうかなっ?」
とはいえルークのレベルに追い付こうと思えば、それは遥か高みである。
今はまだその頂上すら窺うことは出来ない。
一緒に訓練をするようになってから、私は少年の尋常ならざる力の一端をより確かに感じるようになっていた。
「えぇ、姫様は大変才能が――」
「あっ! また姫様って!」
二人の時はカナリアと呼ぶように言ったのに!
私が睨みつけるような視線を向けていると、彼は一瞬だけ躊躇いながらも、ぎこちなく口にした。
「あ……その、カナリアは大変才能がありますね」
どこか照れた様子で私の名前を呼ぶ少年。
その言葉に、なんだか無性に嬉しくなってしまい、私は笑みを抑えることが出来なかった。
「ありがとうっ」
ここ最近私はルークから戦闘のイロハを学んでいた。
以前の誘拐事件の時のようなことが、またいつ訪れるか分からない。
いざという時のために対処出来るようになりたい。
そうお願いすると、彼は快く引き受けてくれた。
「ふふっ」
ルークに憧れた、というのもある。
私の目の前で瞬く間に3人の男達を撃破した彼の姿は未だに瞼に焼きついたまま離れない。
圧倒的な強さが眩しかった。
自分もあんな風に強くなりたいと思った。
あと、とっても格好良かった。
(それに……)
ルークに少しでも近づきたかったのだ。
彼と一緒に何かをやりたい。
ルークは戦闘にだけは多少の自信があります、と言い、嫌な顔一つせずに私に色んなことを教えてくれていた。
「うーん、そうですね」
しかし私の先程の動きに何か気になる部分があったのだろう。
若干の思案顔を覗かせるルーク。
「ただ……少しいいですか?」
そう言って彼は私の傍までやって来た。
「えっ!」
「構えの時なんですが」
背中側から私を包み込むようにしてルークは私の手を取った。
いきなりの抱擁(のような態勢)に思わず肩が跳ねる。
(うわぁっ!? ちちちっ、近いわっ!!)
彼の吐息が耳のすぐ傍を通り抜けていく。
少年の匂いが鼻腔を擽る。
硬くも優しい手のひらが私の肌の上を滑っている。
(は……恥ずかしい……)
「腕を伸ばした時に腰が少しだけ引けていますので、捻る時に――」
言いながら彼の左腕が私の腰に回される。
う、うわわっ!?
「……ぁぅ」
消え入りそうなほど小さな声で私は呻いた。
胸がドキドキし過ぎて、頭が沸騰しそうだ。
今頃私の顔は真っ赤に染まっているに違いない。
な、なんだか変な気分になってきてしまう。
(あわわ、わわわわっ、わたしはどど、どうすれば……っ)
身体が硬くなってしまったからだろう。
ルークが不思議そうに首を傾げた。
「……カナリア?」
「あっ、いやその……ななっ、なんでもないのっ」
「具合が悪いなら今日はもう……」
「悪くないわっ! もうほんと全然! た、ただ少しだけ疲れちゃってっ」
ルークに抱かれるような姿勢のまま硬直する私。
恥ずかしさで一杯ではあったが、同時に幸せでもある。
「……そうですね。では少し休憩しましょうか」
微笑みつつ、離れていく少年の温もり。
「……ぁ」
私はその時途方もない寂しさを覚えると同時に内心で頭を抱えた。
(あぁ~……私は何をしているのか)
休憩が終わり訓練が再開されるまでの間、私の中から悶々とした葛藤は消えなかった。
☆ ☆ ☆
「では次は結界魔術を見ましょうか」
「う、うんっ」
結界魔術はルークの一番の得意技だ。
これに関してはマリンダ様であっても、とても敵わないレベルであるらしい。
実際に一度目の前で見せてもらったが、人間業とは思えない程であった。
「ふぅ」
私は一度瞑目し、ゆっくりと息を吐き出しながら魔力を練り上げた。
「――我が魔力、何物も通さぬ、いと堅牢なる力となれ」
全身を魔力が駆け抜ける。
その力の流れを逃さぬように、散らさぬように。
巡る過程で魔力を自分のイメージ通りに改編していく。
「眼前に万物を弾く壁を顕現せんっ!」
文言にまるで引き寄せられるように形作られた魔力という力の塊が私の掌から放出された。
そして。
「……できたっ!」
一面小領域での結界が私の前に出現した。
王国基準で言えば初級の結界魔術である。
結界魔術とは突き詰めてしまえば、魔力で形ある『壁』や『箱』を作り出す魔術であり、その派生形が存在したとしても、それらは別魔術との組み合わせである場合がほとんどだ。
故に一つ一つの結界魔術に特別な名前は付けられていない。
主にランク付けとして。
一面小領域に対する結界魔術を初級。
小規模立体形成領域に対する結界魔術を中級。
10メートル四方以上の広範囲に渡った大規模立体形成領域に対する結界魔術を上級という。
「初級の発動は問題なさそうですね」
「でも無詠唱はまだ無理そう」
「無詠唱に関しては感覚を掴めるかどうか、ですから。こればかりは回数をこなすしか無いと思います」
ルークは一度、というか瞬時に複数の結界を生成することが可能だ。
しかもその強度は近衛騎士であっても破れないほどである。
やろうと思えば王宮内の宝物庫に張り巡らされているような大規模結界も独力で作り出すことが出来るとか。
一体どれほどの修練を積めば、その領域まで昇れるのだろうか。
(いや)
本当は分かっている。
目の前の少年は真の『天才』だ。
彼と同じ高みに私は昇ることは出来ないだろう。
だけど少しでも近づきたい。
彼と同じ物を見ていたい。
彼が得意ならば私も同じ魔術が得意になりたい。
そう努力することは、私にとって意味があるのだ。
不純な動機だと笑われようが、それが嘘偽りない本心だった。
「しかし……うん。強度も申し分ないですね」
こんこん、と私の作り出した結界を手で軽く叩きながらルークが呟いた。
「中級の練習もしているのだけれど……初級の無詠唱の練習をした方がいいかな?」
「いえ、先程も言いましたが無詠唱は感覚を掴めるかどうか、ですから。中級の魔術を練習している最中に初級の無詠唱が出来るようになったりすることもあります。特に結界魔術は他の系統魔術以上に、上位魔術は下位の魔術の延長ですから。このまま順当に上を目指して行くといいかと思います」
優しい彼の言葉に頷きながら、私はルークの指導に従い魔術の練習を続けた。
そんな中。
時折私は視線を右手の指先に向ける。
薬指には一つの指輪があった。
使っている宝石は安物のようだが、デザインが可愛らしい。
とはいえただ子供っぽいというだけではなく、どこか上品さも感じられた。
大人の女性が身に着けていても違和感の無いような。
そんな洒落た指輪。
「むふふ」
思わず気持ちの悪い笑みが零れた。
これはルークが私にプレゼントしてくれたものだ。
以前私が攫われた日に露店で眺めていたものを、私が欲しがっていたのだと勘違いしたルークが購入したらしい。
受け取った時には思わず飛び上がって喜んでしまったものだ。
(本当はお母様のプレゼントにどうか、って思ってたんだけど)
確かにあの時は別に私自身が欲しいものではなかった。
だけど今は違う。
今やこの安物の指輪は私の宝物になっている。
思い慕う少年が私のために買ってくれた初めてのプレゼント。
それだけでなんと価値のあることか。
私にとってこの指輪はミストリア王国一の職人が手掛けた装飾品よりも価値がある。
「カナリア、集中しないと怪我をしますよ」
雑念があったからだろう。
きつい物言いではないが、明確な叱咤の声が聞こえた。
ルークは優しくはあっても、無条件に甘やかす人間では無かった。
例え王族であっても諌めるべき部分は諌めようとする。
それは別に戦闘や訓練に限ったことではない。
特に最近は気の置ける関係になってきたからか、以前よりも他人行儀ではなくなった。
なんでもかんでも頷くだけの従者よりも私はルークのような人間の方が、本当の意味で優れた使用人だと思う。
「ご、ごめんなさい」
悪いのは私なので素直に頭を下げる。
彼の言っていることは尤もだ。
戦闘訓練中に集中力を乱すなど、あってはならない。
「いえ……」
ルークは言いにくそうに俯いた後に、呟くように私に尋ねた。
「でも……本当に良かったのですか?」
「なにが?」
「その、僕の指導を受けていて」
王宮で暮らす王族や貴族達から見れば、いくらマリンダ様の息子とはいえ、ルークは所詮外様である。
そんな人間から指導を受けている。
それも王族の姫君らしからぬ戦闘の訓練だ。
これに関して王宮内でも私に侮蔑の視線を向けてきたり、蔑みの陰口を叩く者が少なからず存在した。
だけど。
「ふんっ。関係ないわ」
私は彼と共にいたい。
この時間は誰にも邪魔などされたくはなかった。
それに感情面を抜きにして考えてみても、ルーク程に優れた魔術師の教えを乞うことが出来るというのは、この上なく幸運なことだろう。
折角のチャンスをみすみす棒に振るなど愚の骨頂である。
この機会にしっかりとした自衛の手段を身につけたい。
「貴方みたいに……私は強くなりたい」
強くあることは、この先きっと役に立つと思う。
いつまでも平和が続くとは限らないことを私は身をもって知ったのだから。
それに芸事や礼儀作法の勉強などよりも武術や魔術の訓練の方が遥かに楽しいし、私自身、多少の才能を感じてもいた。
「あ、でも……ルークが迷惑だというのなら」
私がおずおずと問いかけると彼は頭を振った。
「いいえ。私は一向に構いませんよ」
「でも、貴方も忙しいんじゃ?」
ルークは王宮では様々なことに手を出している。
宮廷料理人から料理を学び。
宮廷画家から絵画を学び。
マリンダ様との訓練を日課付け。
ユリシア様やマリンダ様と一緒になにやら難しい魔術の研究をしていたりする。
その上で空いた時間を縫って私の従者をしているのだ。
「いえ。どれもこれも楽しいことばかりですから」
微笑むルークの顔を見て再び私の胸は高鳴った。
(それって……)
「私と一緒にいるのも……楽しい?」
意識せず。
思わず口から言葉がついて出た。
(わっ、私は一体何を聞いているのか!?)
考えなしの自分を叱りたくなったが、発した言葉は戻らない。
狼狽する私であったが、ルークの微笑みは消えなかった。
「ええ、もちろんです」
中性的な彼の表情は女性であっても男性であっても、惹き付けるような魅力に溢れていた。
(あぁ……もう駄目だ)
「そ、そう。ふ、ふぅん」
直視していることが出来ずに私は視線を逸らす。
(私は――)
どうしようもないほどに。
――この少年に恋してしまっている。