第六十八話 お屋敷のお姫様
カナリアが屋敷を訪れてから二日が経過した。
その日の夕食後のことである。
月明かりが差し込む屋敷の食堂で静かに食後の紅茶を楽しんでいたメフィルお嬢様の元に、カナリアがやって来た。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
そう言って、感じのよい笑顔で微笑むカナリア。
流石に王族、と思わせる洗練された所作である。
とはいえその表情からは疲れの色が覗いていた。
「もちろん構いませんよ」
「ありがとうございます」
テオさんが静かにカナリアの椅子を引く。
己の従者に軽く頷きつつ、カナリアはメフィルお嬢様の対面の椅子に腰かけた。
「何か御希望はございますか?」
僕が問うと、カナリアは「いえ……」と一度頭を振り、答えた。
「メフィルさんと同じもので構わないわ。新しいお茶を淹れるのも、いちいち手間でしょうし」
「そのようなことはありませんが……」
まぁカナリアが望んでいる以上、口を挟むことではない。
琥珀色の美しい紅茶をそっと注ぎ、僕は音を立てぬようにカナリアの手元へとカップを寄せた。
その時、僕の行動を横目でじっと見ていたメフィルお嬢様が咎めるような声を上げた。
「……ルノワール。砂糖はどうしたの?」
「え?」
(あ……)
しまった。
「……ぁ、も、申し訳ありません」
従者たるもの、角砂糖の瓶をそっと相手の手元に運ぶなり、いくつ入れるかをカナリアに尋ねるなりをすべきだった。
なんと気遣いが足りないのだろうか。
これは明らかに僕の使用人としての落ち度だ。
慌てて頭を下げると、カナリアは手を振って言った。
「ふふ、いいのよ、メフィルさん」
苦笑に続いて彼女は、探るような視線を僕に向ける。
「私は紅茶に砂糖は入れないの」
「……っ」
努めてポーカーフェイスを作ったつもりであるが、上手くいっているかどうかは自信が無い。
動揺が顔に出ていないといいのだけれど。
(あぁ、いきなりやってしまった)
僕はカナリアが紅茶に砂糖を入れないことを『知っていた』。
昔から彼女はお茶菓子を好む事はあっても、紅茶自体には甘さを求めない人なのだ。珈琲などについても同様だ。
故に砂糖については何も問わずに、そのまま紅茶を差し出した。
カナリアに対してはこれが当たり前だったのだ。
言ってしまえば、昔の癖である。
しかし冷静に考えてみれば、不自然かつ、失礼な給仕である。
公爵家の使用人としては、あってはならないミスだ。
「……うん、美味しいわ」
しかし特に頓着した様子も無く、優雅な手付きでカップに口をつけ、満足そうに微笑むカナリア。
「当家の使用人が失礼を……」
メフィルお嬢様が申し訳無さを滲ませた声音で謝罪の言葉を投げ掛けた。
「いえ。本当にいいのよ。私ってあんまり礼儀作法とかは気にならないの」
彼女は楽しそうに言った。
次いでカナリアはメフィルお嬢様の瞳を覗き込むようにして、口を開く。
「メフィルさんの画廊……勝手ながら見せて頂きました」
「……それほど大したものではありませんが」
「謙遜を。あれだけの作品は誰もが描けるものではありませんよ」
カナリアは素直な感嘆の気持ちを述べているようだった。
お世辞のような雰囲気は微塵も感じられない。
その声音には、小さくない興奮の色があった。
隣で聞いていただけであるが、お嬢様の絵が褒められたことで、僕まで嬉しい気持ちになる。
「カナリア様は絵画に詳しいのですか?」
意外そうな表情でお嬢様が尋ねた。
「少しだけ、ですが」
カナリアは照れつつ、頭を軽く掻いた。
王族としては下品だと言われかねない仕草であるが、愛嬌のある彼女がやると妙に似合っている。
「まぁ私は自分では描かないのですけど」
「そうなのですか?」
「残念ながら才能が無かったようです」
そう言って苦笑するカナリアは、少しだけ寂しげだった。
「……」
まるで何かを思い出しているかのように、ゆっくりと瞳を閉じるカナリア。
「カナリア様?」
「絵が……」
「え?」
「絵画が好きな……『友人』がいたんです」
そう言って瞳を上げ、優しく微笑む彼女の姿に、僕はドキリとした。
「友人、ですか?」
「はい。王宮で一緒に暮らしていた頃……よく彼は絵を描いていました」
窓の外から差し込む太陽の光を見上げつつ、カナリアは記憶の中に眠る情景を思い起こしているようだった。
「男性だったのですか?」
「ええ、とはいえ顔立ちは女の子みたいでしたが」
カナリアは懐かしむように目を伏せながら、薄く笑った。
「宮廷画家のビルモ様に憧れたみたいで……絵が好きで、料理が上手で、とても強い人でした」
どこか切実な声音だった。
王宮での突然の事態で疲弊してしまった心の弱さが露呈しているのだろうか。
僕の知る限り、昔のカナリアはもっと強く、覇気に満ちていたように思う。
「……」
心に小さな痛みを感じつつ、僕が無言で佇んでいると、お嬢様は少しだけ目を見開いて言った。
「まぁ。それだけを聞いていると、なんだかルノワールみたいですね」
(……っ!?)
メフィルお嬢様には他意は無いだろうが、僕は焦燥に駆られる心を抑えるのに必死だった。
淡い笑顔を浮かべるカナリア。
その表情はとても……とても哀愁に満ちているように感じられた。
空になったカップを音も立てずにテーブルの上に下ろしたメフィルお嬢様は真摯な瞳をカナリアに向けて、静かに呟いた。
「……カナリア様は」
「なんでしょう?」
優しい表情、慈愛に満ちた声で彼女は言う。
カナリアの瞳を覗き込むように。
「その方が……随分と好きだったのですね」
今しがた話した『友人』について、いきなりこんなことを言われてしまい、カナリアは戸惑ったようだった。
「あはは……そう思われますか?」
「あ、失礼な物言いでしたか」
「いえ、構いませんよ」
笑いながらカナリアは答えた。
「それに事実です。昔……私の命を救ってくれた恩人でもあります」
カナリアがそう言うと、お嬢様も驚いた顔をした。
「王族を救うなんて、すごい方ですね」
全然そんなことないです。
女みたいな顔した女みたいな奴なんです、その人。
「本当にすごかったんですよ。実はここだけの話……私はずっと、憧れていました」
カナリアはゆっくりと再び目を伏せた。
(えっ?)
弱々しい彼女の姿を見ていると、俄かに僕の胸が締め付けられた。
知らぬ仲ではない。
むしろ彼女は僕にとっても大切な――。
「あんな風に……強くなりたかった。私が……あれだけ強ければ、きっと王宮でも……」
悔しそうな表情と共に呻くカナリア。
彼女の右拳は硬く握り締められていた。
(……違う)
カナリアは努力していた。
周囲の人間にどれだけ陰口を叩かれても。
例えその言葉に傷ついたとしても。
周囲の理解が得られなかったとしても。
カナリアは自分の才能が戦闘に偏っていることを自覚し、その能力を伸ばそうと。
それがいつか役に立つのだと信じて、頑張っていた。
実際に彼女は強い。
ただ王族、という立場が今以上の成長を阻んでいるのも事実だった。
実戦経験無しでは……恐らくこれ以上強くなることは難しいだろう。
しかしそれは王族としては当り前のことなのだと思う。
「カナリア様は、その時その時で、自分に出来る最良の手段を講じたのではないのですか?」
「え?」
顔を上げたカナリアにお嬢様は言った。
「そうであれば。貴女は誰に対しても胸を張って良いのだと思います」
「ですが……」
カナリアの言葉を目で押さえ、お嬢様は続ける。
「誰もが『強い力』を持っている訳ではありません。ですが、今、その時、持っている自分の力で、為すべきことを為せる人間のことを……『強い人間』と呼ぶのだと思います」
立派な言葉だと僕は思った。
この歳にして、随分と達観したような物の考え方である。
なんというか……やはりユリシア様にそっくりだった。
「とは言っても、母からの受け売りなのですが……。なんだか偉そうに……申し訳ありません」
「いえ……ありがとうございます、メフィルさん」
(……王族、公爵家)
どちらの家も華美な一面がありながらも、負の側面も存在している。
自由の利かない、鳥籠の中のような生き方。
まだ成人にならぬ頃から、相応の態度、対応が求められ、年頃の少女らしからぬ言葉づかいで相手の心情を慮る。
もしかしたら彼女達のような存在は健全では無いのかも知れない。
だが傍にいると、とても立派だとも感じられる。
僕は彼女達とは正反対の薄暗く、血生臭い場所で生まれ育った人間だ。
(いったい……)
どちらが幸せなのだろうか。
窓の外へと目を向けると、秋空の中に、眩い光を放つ三日月が浮かんでいた。
☆ ☆ ☆
「テオ……貴女なんだか屋敷に来てから随分静かね」
ユリシア様に用意して頂いた部屋。
王宮の私室にも引けを取らないような豪奢なベッドに腰掛けながら私はテオに尋ねた。
「そうでしょうか?」
「まぁ貴女は元々寡黙だけれど」
苦笑しつつ言う。
「そう……ですね。やはり常に監視の目があるので、それが少し」
「あぁ~」
屋敷に居る間。
この部屋に居る時以外は、常に屋敷の使用人の誰かが傍に控えており、私達の動向をチェックしているのだ。
もちろんあからさまに私達を見張るような無礼を働くことはないが、さりげなく誰かが私達二人の近くにいる。
王族への対応としては、不敬に当たる行為なのだろうが、ファウグストス家ではユリシア様の意向が絶対である。
彼女の立場を思えば、それが当然なのかもしれなかった。
ユリシア様は例え旧知の間柄であっても部外者である以上は、屋敷内で監視の手を緩めることは無いだろう。
「そういう用心深さがあれば……王宮も違ったかもね」
思わず皮肉が口から付いて出た。
「姫様……」
「ごめん。変なこと言ったわね」
頭を振って私は窓から外を見つめる。
静かな夜だった。
王宮と同じで、ファウグストス邸には、外部から生物が入り込むことがほとんどない。
それ故の静けさ、だろうか。
「……」
この屋敷に張り巡らされている結界は恐らくミストリア王国でも屈指の強度を誇っているだろう。
ユリシア様は万が一の事を常に想定して行動している。
そんな彼女を見ていると、王国で生きる者としては頼もしさを感じるが、王族としては自分達の不甲斐無さを思わずにはいられなかった。
「あれは……?」
ぼんやりと庭を眺めていた私は、屋敷の隅に何やら大きな結界のようなものがあることに気付いた。
「中に何か居るわね……」
「あそこには山狗がいるそうです」
「山狗!?」
流石に驚いた。
山狗なんて伝聞で耳にした事がある程度だ。
「なんでもファウグストス家で飼っているのだとか」
「や、山狗って飼える生き物なの?」
「普通は無理でしょうね」
「そ、そうよね」
正真正銘の魔獣。
しかも山の王者とも呼ばれる山狗を飼っているとは……なんというか規格外な屋敷である。
「ふぅん」
だけど。
「明日見に行ってみようかしら」
「えっ?」
この屋敷に居ても当面の間、私に出来る事は無い。
強いて言えば、屋敷の外に出ずにおとなしくしていることが、私のやるべきことだと言えるかもしれない。
「だって私、山狗見たこと無いし。正直ちょっとだけ退屈だしね」
それに、うん、好奇心はやっぱり刺激されるわよね。
珍しい生き物であることは間違いないし。
「……畏まりました。お供いたします」
「あ、今笑ったわね?」
「ふふ、滅相もありません」
「あ、また!」
クスクスと笑みを零す従者を見て、私も思わず微笑んでいた。
(この子がいてよかった……)
先行きの見えない不安に襲われることがあっても、私は一人では無い。
なんだかひどく救われた気持ちだった。