間話 逃亡
見慣れた筈の王城。
日頃から庭師の手によって整然と調和を保っている美しき緑の庭園に、幾人もの足音が響いていた。
著名な建築家によって形作られた柱の影に身を潜める。
「追手は?」
私が小声で尋ねると、側仕えの従者たる女性、テオ=セントールは、鋭い目つきのままに周囲を探り、頭を振った。
「恐らくは、撒けたのではないかと」
「そう」
言いつつ、私は乱れた長い髪を首元で束ねた。
「どうなさいますか、姫様?」
テオの言葉に私は黙考する。
(どうする、か)
正直な所、どうすればよいのか、など私には分からない。
――事の発端は夕食後のことだった。
☆ ☆ ☆
食後の散歩がてら宮殿の中をテオと二人で歩いていると、不意にテオが怪しげな声が聞こえてきた、と私に呟いた。
眉をひそめつつ、彼女の言を元に、声の方へと歩を進めると、二人の貴族がこそこそと室内に入っていく姿が目に入った。
(あの部屋――)
確か、あそこはサーストン公爵の部屋だ。
名前は覚えていないが、室内に入って行った二人の貴族も、記憶の限りでは、よくサーストン公爵の傍にいる人間であった筈だ。
何やら不穏な気配を感じた私は足音を忍ばせ、扉へと近づいた。
周囲には誰もいないことを確認する。
しかし防音性能の高さもあり、室内の様子は窺えない。
私は傍で控えるテオに視線を送る。
すると意を介した彼女は無言で頷いた。
テオが静かに壁に手を当て、素早く詠唱を唱えると、僅かにではあるが、中の音が聞こえてくる。
迅速かつ、痕を残さぬように。
最小限の手間で発動された音魔術による、室内の盗聴。
見事な手際だった。
テオは音系統の魔術に関して一流の技量を有している。
そして。
聞こえてきた話は、恐るべきものだった。
『では、日時は決まったのだな?』
『はい。ルーディットの祭壇にて執り行わる儀式の最中を狙います』
『警備は厳重だと思うが』
『手は打ってあります』
『ふむ、そうか。私としても閣下が決めたことであるならば依存は無い』
(一体……何の……)
ルーディットの祭壇。
それは王国南部のルーディットの街にある、建国の祖たる『カーマイン』が天に祈りを捧げたという祭壇のことだろう。
毎年、王族全員が出席し、先祖に祈りを捧げる儀式を執り行うことが慣習となっている。
『ふふ、これでミストリアの王族の時代も終焉、か』
『これからは公爵方の時代が始まる訳ですな』
『はは、まさしくその通りだ……』
続く言葉に思わず耳を疑った。
『奴らには……消えてもらう』
(そんな……まさか!?)
クーデターを企んだ王族暗殺計画。
私にはそうとしか聞こえなかった。
隣に顔を向ければ、日頃冷静沈着なテオの顔も驚きに彩られている。
余りにも動揺してしまったせいだろう。
カラン、と廊下に響き渡るような音が鳴った。
「……ぁ」
気づけば私は態勢を崩し、倒れるようにして靴音を鳴らしていた。
『……っ!』
『今のは……っ!?』
室内からは慌ただしい声。
「くっ!?」
状況は未だに把握出来なかったが、今この瞬間――逃げねばならぬことだけは理解した。
素早く身を翻す。
だが。
「な……っ」
いつの間に近づいたのか、すぐ背後には巨体を揺らした大男の姿があった。
「くっ」
「姫様、こちらですっ!」
テオに腕を引かれて私は走り出す。
私達を追うような数人の足音が絶えず聞こえてきた。
どういうわけか、王宮の近衛騎士の姿は見当たらず、周囲には敵と思われる兵士達ばかりが迫って来ている。
背後を振り返ると、先程の大男の姿が目の前にあった。
その様子を確認したテオが口早に告げる。
「姫様、目を閉じて!」
反射的に私が目を閉じると、瞼の外側で激しい光が放たれたように感じた。
たとえ目を閉じていても明るさを感じるほどの光量。
「お手を!」
再び私の手を取り、走り出すテオ。
背後を振り返れば、目を押さえ呻き声を上げる男の姿があった。
☆ ☆ ☆
テオと共に、私はここまで駆けてきた。
結局、逃げてくる途上では、ついに一人の近衛騎士にも出会わなかった。
訝しく思ったものの、私の思考は家族のことで精一杯だった。
「お父様達は無事なのかしら」
家族のことが心配だった。
王宮でこのような無作法を働くなど前代未聞の事件に違いない。
これほど大胆な行動に出たからには、それ相応の目的がある筈だ。
ルーディットの祭壇での襲撃。
やはり最も考えられるのは――、
(――王族の拉致・監禁)
下手をすれば暗殺かもしれない。
今すぐにお父様に告げたい衝動に駆られたが、周囲には敵ばかり。
大声を出すような真似をすれば、ただちに敵に補足されてしまうだろう。
多勢に無勢。
私とテオだけでは、とてもではないが、状況は打破出来ない。
私は王族の中では最も戦闘能力が高いだろうが、自分一人だけで敵兵全員を倒せるとは思っていない。
そこまで自惚れてはいない。
慢心は身を滅ぼす、と耳にタコができるぐらいに聞かされてきていた。
(……敵の規模を把握したい所だけど)
数が多いのは分かる。
ほとんどは貴族達子飼いの雇われ騎士だろう。
しかしそれが100人なのか、1000人なのか、では全く状況が違う。
(……どうしよう)
心に暗雲が立ち込めてきた。
側仕えのテオの瞳の中にも不安の色が揺れている。
必死に危険な状況から脱するために行動していた時には感じなかった恐怖心。
冷静に思考を働かせている内に、どんどんと焦燥感が募ってくる。
(こんな時……)
こんな時――『彼』なら、どうするのだろうか。
額から零れ落ちる汗を拭いつつ歯噛みした、その時。
「いたぞっ!」
背後から声が聞こえた。
それに伴い、走る男達の靴音。
「ちっ!」
思わず舌打ちが溢れる。
敵を見つけた途端に私達にも聞こえるように声を上げるなど、戦闘を生業とする人間としては3流も同然。
しかし現在の状況では、そんな雑魚相手にすら逃げ惑わなければならない事が腹立たしかった。
「姫様、逃げましょう!」
「ええっ!」
テオと共に立ち上がり、私は駆けた。
最初に私を見つけた男目掛けて魔術を放つ。
それは簡単な火の魔術『ファイア・ボール』。
牽制にしかならないだろうが、この程度の魔術であれば無詠唱でも発動出来るので、有事の際には便利であった。
「な……っ!? こいつ無詠唱で!」
男が驚いている間に、既にテオが更なる魔術の構築を終えていた。
見る見る内に、周囲には霧が立ち込め出す。
テオが発動した魔術『ミスト』だ。
しかも彼女は風魔術でも簡単にかき消されないように、土魔術を併用し、霧に粘性を持たせていた。
後からやって来た男達に対しても、まるで絡みつくようにして、テオの放った霧が襲いかかっていく。
「ちっ! くそ!」
慌て騒ぐだけの男達を冷めた目で一瞥し、私とテオは庭園の外へと駆け出した。
「姫様、こちらへっ!」
先導され、私はひたすらに駆けた。
「はぁっ、はぁっ」
我武者羅に王宮を走り回っていると、こんな時だというのに、懐かしい情景が目蓋の裏に浮かび上がってくる。
ほんの少し前まで、私は無邪気に王宮を駆け回っていた。
いつも一緒に遊んでくれる友達がいたのだ。
それはまだ数年前のこと。
――私は一人の少年に恋をした。
彼は不思議な人だった。
優しいのだけれど厳しい。
強いのだけれど、それをひけらかさない。
背は高くはないが、存在感はとてつもなく大きかった。
貴族や王族には全く居ないタイプの人間。
私と一緒に王宮で教育を受けていた頃、最初、私は彼の事があまり好きでは無かった。
だけど自分の我侭に同年代でどこまでも付き合ってくれるのは彼だけだった。
女の身でありながら、武術を身に付けようとする私を本気で応援してくれるのも彼とその母だけだった。
そして――私を絶望的な状況から救ってくれたのも、彼だった。
「……そこまでだ」
一人の男が立ちふさがり、私は足を止め、同時に懐かしい情景も消え去っていった。
雑魚ではない。
先程相手にした男共に比べれば、いくらか強敵のように見えた。
現実が私の目の前に降りかかる。
男は無駄口を叩かずに、すぐさま行動に出た。
私にわざわざ声を掛けたのは、注意を自分に向けさせるためのフェイクだった。
後ろから呻き声。
「……がっ!?」
気付けば、背後から突然迫った魔力で形作られた光球がテオの頭を強かに打っていた。
「テオっ!」
声をかける間もあればこそ。
周囲から無数の光球が私に向かって降り注ぐ。
今生み出したような様子は無かった。
罠が仕掛けられていた、と気づいた時にはもう遅い。
視界を埋め尽くすのは敵の放った光球の嵐。
既に私は敵の攻撃の的になっていた。
だが、それでも。
恐怖を押さえ込んで、私は闘志を燃やした。
「こんな、ことっで!!」
気合の声と共に私は、結界魔術を発動した。
可能な限り素早く、可能な限りの強度で。
直後、ギリギリ発動の間に合った結界が、襲いかかってくる光球全てを弾き、四散していく。
「なにっ!?」
無詠唱で結界魔術を展開したからだろう。
驚いた様子の男に視線を向け、私は再び結界魔術を発動させた。
裂帛の気合が雄叫びへと変じ、呼応する全身に魔力を漲らせる。
「はぁ……っ!」
『彼』直伝の結界魔術。
私の知る限り、こと結界魔術に関しては間違いなく最高の技量を持つ魔術師。
彼のようになりたくて必死に練習した。
彼と同じ魔術を使いたくて教えを乞うた。
自衛のためになるからと、彼も私に親身になって教えてくれた。
それが今――私の身を守ってくれている。
(私が誰に師事したと思っているの!)
碌に実戦経験を積んだこともない、騎士気取り共では無い。
私を鍛えてくれたのは王国最強の騎士団、紅牙騎士団だ。
百戦錬磨の戦士の手解きを受けた。
私は遊びで戦闘訓練をしていた訳じゃない。
王女らしくないと諭されようと。
子供のママゴトだと揶揄されようと。
きっとこういう時に役に立つと思ったから。
私は頑張ってきたのだ。
「あんまり王族を、舐めないでよね!」
男が次の行動に出るよりも素早く、私は結界で男の動きを封じる。
途端に結界内で嵐の如き、魔力の乱舞が吹き荒れ、男の身体を切り刻んだ。
反撃の隙を与えない連続攻撃。
やがて男の悲鳴が途絶え、倒れ伏す音が聞こえた。
男が意識を失ったかどうかを確認する間も惜しく、私は肩で息をしながらテオに駆け寄った。
「テオ、大丈夫!?」
「え、えぇ……なんとか」
頭を手で抑えるテオであったが、意識ははっきりとしているようだった。
不意の一撃であるにも拘らず、敵の攻撃はテオを戦闘不能に追い込むことは出来なかったらしい。
「よかった……ならこのまま」
言い終える間もなく、次々と遠くから足音が聞こえてくる。
更なる追っ手だろう。
「くっ。テオ、立てる?」
「はい、もちろんです」
「辛いだろうけど、頑張って!」
そう言って私は外壁に向かって一目散に駆け始めた。
事ここに至っても。
私は一人の近衛騎士の姿も見なかった。
☆ ☆ ☆
ちょっとした林になっている敷地内の一角。
お母様の大好きなバラ園の横手。
資材置き場の隅に向かって私達は駆けていた。
「一度、完全にこの場から逃げましょう」
誰か頼りになる王宮内の人物に、先程のクーデターの話を伝えたかった。
しかし、この状況を鑑みれば、誰が敵であるかも分からず、また囚われてしまえば、どのような扱いを受けるか分かったものではない。
故に私はテオの進言に従った。
「っ! あった……っ!!」
外壁の一部。
無理矢理土魔術で塞いだ跡がある、小さな小さな横穴。
昔私がこっそりと穴を開けた場所。
一度地面へと深く掘り進め、地下道を潜っていくとアゲハの街の外れに出るようになっている。
私は昔、ここからお父様達に黙って王宮を何度か抜け出したことがある。
「ここから外へ出られるわ」
流石に敵も、こんな抜け道は知らないだろう。
知っているのは、王族縁の極一部の者に限られる。
テオの手を引いた私は土魔術で穴を開け、早速王宮の外へと向かった。
地下道を歩きながら、テオが私に尋ねた。
「これからどうなさいますか?」
「どう、すればいいのかな」
「……」
「……」
テオは私よりも年上であったが、それでもまだ19歳だ。
世間の基準で見れば私も彼女も小娘に過ぎない。
二人だけではどうしようもなかった。
それに他の王族がどうなっているのかも分からない。
そして……誰が味方かも分からない。
「……ユリシア様」
ポツリと、テオの口から言葉が漏れた。
「ファウグストス家に助けを求めてはどうでしょうか?」
「そう、ね……」
確かに。
王宮の外に出て誰かに助けを求めるのであれば、ユリシア様以上の適任者はいないであろう。
付け加えるならば、私が個人的に援助を求めることが出来るのもユリシア様ぐらいなものだった。
「とりあえず、向かうとしたらファウグストス家かな」
「お供いたします」
状況はどこまでが真実かも不明である。
しかし静観してはいられない。
もしも――あの貴族達が話していることが事実であったら――。
(王国は大混乱に陥る)
情報は少ない。
だけど私が知る限りの情報をユリシア様に伝えるだけでも意味のあることだと思えた。
「……もうじき外ですね」
「ええ」
こうして私は王宮の外に出た。
久しぶりのアゲハの街並み。
しかし私の心の中は高揚とは程遠く、むしろ暗澹たる思いが渦巻いていた。
☆ ☆ ☆
王宮から、一人の少女が従者と共に逃げ出した。
ミストリア王国第3王女。
その名は、カナリア=グリモワール=ミストリア。
お転婆で知られた彼女が一人、王宮で渦巻く陰謀の一端をユリシア=ファウグストスに伝えることに成功する。
そして彼女は再び出会った――初恋の少年に。
第2章 王立学院入学 ―完―
※例によって第3章開始まで少しだけ時間を頂きたいと思います。第3章以降の詳しい投稿日程は活動報告に載せておきますので、よろしければ御一読下さい。