第六十六話 湖の畔で
リヴァイアサン事件が一応の決着(リヴァイアサンの討伐・犯人の逮捕)を迎えた、その日の晩。
メフィルお嬢様はペンション自室のベランダから月を見上げていた。
昼間の事を踏まえてか、同室のクラスメイト達は僕達に気を遣って、現在は退室している。
彼女達には悪いことをしたな、と思う自分が居るのと同時に、ありがたいとも思っている自分が居た。
「……」
流れる夜風がメフィルお嬢様の前髪を優しく攫っていく。
あの月明かりの下で、彼女は今――何を考えているのだろうか。
お嬢様は特に憂いを帯びた表情をしているわけでも、哀愁漂う雰囲気を纏っている訳でもない。
ただぼんやりと。
彼女は黙したまま夜空を見上げている。
綺麗な横顔だった。
ベランダのテラスに片肘を付けて佇むメフィルお嬢様を見ていると、どういうわけか胸が少し苦しくなってくる。
「……お嬢様」
無言に耐えかね、たまらず僕が声を掛けると彼女はゆっくりと振り返り、その瞳が僕を真っ直ぐに見つめた。
「なに?」
「いえ、その……」
声をかけたはいいけれど、何を話したものか。
結局昼間の一件は、メフィルお嬢様に非は無いという話になった。
不満そうな表情をしている人達もいたが、僕がリヴァイアサンを倒した衝撃が強すぎて、細かな事はどうでもよくなったらしい。
ディ・プレミオール号は破壊されてしまったが、後から駆けつけてくれた外軍の人達が新しい船を手配してくれたので、明日帰る分には不都合が無いそうだ。
とはいえメフィルお嬢様が味わった苦痛が消える訳では無い。
僕が言い淀んでいると、メフィルお嬢様が仰った。
「ルノワール」
「は、はい」
「ちょっとこっちに来てもらえる?」
彼女に誘われるままに僕はベランダに出た。
メフィルお嬢様の視線に釣られるようにして僕も夜空を見上げた。
「ここに座って」
彼女は今しがた自分が座っていた椅子を指差し、自分は部屋の中へと入っていく。
「あ、あの?」
「そこで、こう肘を付いて」
「は、はぁ……」
「顎を引いて月を見上げるような感じに」
「こ、こうでしょうか?」
「そうそう。それで少し右を向いて、横顔が私から見えるように。あぁ、いい感じよ」
言われるがままに僕がポーズをとると、メフィルお嬢様は満足した様子で、部屋の奥へと入っていき、やがて、大きなキャンパスを室内の角にあった物置スペースから取り出した。
「ど、どこからそのような物を?」
「ん? 管理人さんに借りたの」
「そ、そうですか」
話しながらも、彼女は慣れた手つきでキャンパスを用意し、小さなパレットを左手に持ち、右手に持った筆を軽く撫でた。
僕の方を見つめ、頷くと彼女は筆を動かし始めた。
「あ、あの~」
「動かないでね」
「もしかして、今私の絵を描いていらっしゃいますか?」
「ええ、もちろん」
上機嫌に筆を動かすお嬢様。
どこか気負った様子も無く、彼女は静謐な瞳を僕に向けた。
真剣な表情で見つめられ、胸がドキリとして頬が熱くなる。
僕は彼女の視線から逃れるようにして、少しだけ顔の角度を変えた。
「あ、こら」
「も、申し訳ありませんっ」
悪いとは思ったのだけれど、何だか恥ずかしくて。
「ん……いや。その角度もいいわね。変更しましょう」
あ、なんかお許しが出た。
そのまましばらくの間、静かな時間が流れた。
僕は緊張したまま、黙って夜空を見上げ、お嬢様は黙々と筆を動かす。
だけど息苦しさは感じなかった。
互いに言葉は無くとも、嫌な空気になるようなことは無い。
むしろゆったりと流れる時間が心地良かった。
「……」
「……」
「……ルノワール」
「……なんでしょうか?」
「綺麗だわ、貴女って」
彼女の瞳は相変わらず真っ直ぐに僕に向けられていた。
(えっ、わ、きゅ、急に何を……)
思わず動揺してしまう。
僕は心がざわつくのを自覚していたが、顔には出さないように努めた。
でも駄目だ、多分顔が熱くなってしまっている。
「ねぇ、ルノワール」
「な、なんでしょう?」
シャッシャ、と小気味よく、小さな音を立てながら、筆がキャンパスの上を踊っている。
彼女の絵を描くリズムが、どうしようもないくらいに心地良い。
「私がどれだけの敵に襲われたとしても、貴女は……」
そこで言葉を区切り、メフィルお嬢様は筆を置いた。
「貴女は……私の」
言い淀むお嬢様。
(お嬢様……)
葛藤する彼女を見ていて、僕は途方もない哀しみを覚えた。
昼間の一件は確実に彼女の心を傷つけた。
リヴァイアサンに襲われた恐怖のみならず、周囲の人間達からの明確な敵意。
今回は生徒達に被害は無かったが、先生方や紅牙騎士団の人間は何人か怪我を負った。
メフィルお嬢様の周囲には依然として脅威が数多く存在しているのだろう。
学院に通うこと自体にも躊躇いを感じているのかもしれない。
もしかしたら今後――、
(再びメフィルお嬢様の周囲で事件があった時)
――クラスメイトや友人達が敵に回ることもあるかもしれない。
考えたくもないことだが、有り得ないことではない。
「……いえ、ごめんなさい。なんでもないわ」
言葉を途中で止め、頭を振ったお嬢様。
僕には彼女の瞳に憂いが浮かんでいるように感じられた。
「私は……」
気づけば僕は口を開いていた。
彼女の言葉の続きを引き取って、自分の心の中の気持ちを紡いだ。
「たとえ世界中の人達がメフィルお嬢様の敵に回ろうとも」
どこかの御伽噺で読んだ台詞だ。
恥ずかしくなってしまうような気取った台詞。
だけど今だけは赤面したりなどしない。
これは本心だから。
真摯にメフィルお嬢様に伝えるべき言葉だから。
僕は――。
「私は貴女の味方であり、貴女を護るために……この身を捧げましょう」
――この御方をお護りしたい。
☆ ☆ ☆
艶やかな黒髪。
透き通った瞳。
シミ一つ無い滑らかな素肌。
驚く程小さな小顔。
抜群のプロポーション。
整った容貌だ。
誰よりも強く、加えて清らかな心を有している。
「……」
誇張では無い。
私は本心から、ルノワールほど美しい女性は居ないと思っている。
アラン湖に降り注ぐ月明かり。
ぼんやりと光が反射し、自然溢れる景観を艶やかに染め上げていた。
朝とはまた違った妖艶な美しさだ。
昼間はそよそよと木々を揺らしていた風が静かにルノワールの前髪を攫っていった。
美しい夜空に浮かび上がる月、透き通ったアラン湖の湖面を背後に憂いを帯びた表情で佇むルノワール。
「……綺麗」
神秘的、幻想的ですらある。
心がガツンと持って行かれてしまうほどの破壊力だ。
思わず筆を取ったはいいが……この美しさは早々絵で表現出来る物ではない。
だけど私は右腕を動かした。
たとえほんの少しであっても、この光景を形にしたいと思ったから。
ルノワールは微動だにせずに、私に付き合ってくれていた。
唐突な私の命令にも意を挟まずに、ただ穏やかな表情で椅子に腰掛けている。
不満を抱く様子は微塵も感じさせず、むしろどこか楽しそうに私を見ていた。
彼女と目が合った。
はにかんだルノワール。
吸い込まれるような瞳から目が離せなくなる。
途端、鼓動が早鐘を打ち、頬が熱くなった。
(……え?)
胸が高鳴り、思わず私はキャンパスで顔を隠した。
隠しきれない動揺が私を襲う。
(……なに)
何を考えている?
今、私は――ルノワールを見て何を思ったのか。
強く美しい従者。
信頼の置ける優しき従者。
それだけ。
それだけだ。
(それだけ……なの?)
ルノワールが傍にいると落ち着く自分が居る。
彼女が近くにいると安心する。
心穏やかに、日々を過ごす事が出来る。
ルノワールと話していると楽しい。
彼女が笑っていると私も嬉しくなる。
(これは……)
これは――良くない。
(主人が従者に依存しすぎてはいけない)
そう自分を叱咤した。
ルノワールはこんな自分にも敬意を示してくれる。
なればこそ、私は彼女の主人として相応しく在らねばならない。
(いや)
違う――相応しく在りたいのだ。
そう考えたとき、思わず笑みが零れた。
「ふふっ」
「あれ、どうしたのですか?」
「いえ」
なんだか立場が逆転してしまっている気がしたのだ。
従者のために主人らしくあろうとする。
普通に考えれば、逆だろう。
(でも、それでも悪い気はしない)
多少のおかしみは覚えても、不快感は無い。
「……」
ぼんやりと筆を動かしていると、昼間の事が想起された。
(……あの時)
正直はところ――辛かった。
リヴァイアサンに襲われた事以上に、周囲の視線が、態度が、糾弾が。
怖くて。
悲しくて。
身の震えが止まらなかった。
「……」
余計な思考を挟んだせいだろう。
気づいた時には――思わず私は、尋ねていた。
心の中の不安を誰かに聞いて欲しくて。
確かな答えが欲しくて。
弱い自分が嫌だったけれど、どうしても、我慢が出来ずに、言葉が漏れてしまった。
「私がどれだけの敵に襲われたとしても、貴女は……」
そう。
まさしく周囲全てが敵のように感じられた、あの瞬間。
やはり私の身体の震えを止めてくれたのは、ルノワールだった。
「……」
だが続く言葉が紡げない。
情けないことに、私は逃げるようにして頭を振った。
「……いえ、ごめんなさい。なんでもないわ」
だけど。
沈黙した私に代わって。
「私は……」
ルノワールの優しい声が室内を満たす。
「たとえ世界中の人達がメフィルお嬢様の敵に回ろうとも」
朗らかに、気負わず。
普段と変わらぬ優しい表情のまま。
「私は貴女の味方であり、貴女を護るために……この身を捧げましょう」
真っ直ぐな、赤面してしまいそうな言葉が今はひどく嬉しかった。
思わず涙ぐみそうになった私は再び慌ててキャンパスで顔を隠した。
駄目だ、今声を出すと、掠れてしまう。
「……」
あぁ。
(……ありがとう)
私の安息は――ここにある。
公爵家の娘として、危険が周囲に満ちていたとしても。
ルノワールが傍に居てくれる。
(それはとっても)
――幸せなことだと思った。
「ありがとう、ルノワール」
なんとか絞りだした声は、嗚咽が混じっていたのか、そうでないのか。
私には分からなかったが、それでも私の表情は笑顔の筈だ。
(だって)
こんなに嬉しい気持ちなのだから。
こんなに素敵な従者に恵まれているのだから。
こんなに素晴らしい、夜なのだから――。