第六十二話 洗脳の魔術師
アラン湖の中を荒れ狂ったように暴れ、メフィル達へ向かって突進を図ったリヴァイアサンの眼前に一つの小さな影が躍り込んだ。
ファウグストス家の従者、少女の名はルノワール。
両者の体躯の差は歴然。
リヴァイアサンと比較すれば人間一人など豆粒の如き大きさに過ぎない。
彼女の姿を目撃した大勢が、無謀な少女の特攻に悲鳴を上げた。
唯二人。
メフィルとリィルだけが祈るような表情で両手を重ねた。
大衆の叫び声は全て遮断し、ルノワールは右足を振り上げる。
両腕を振り、腰を捻り、無駄なく全ての力を足先の一点に集中。
一瞬の動作とはいえ、見る者が見れば、まるで踊るような美しいフォームだと評しただろう。
凝縮されていく魔力が白き輝きを帯びていく。
冷徹な瞳に静謐とした表情を湛えたまま。
魔力で満ち満ちた足を振り下ろした次の瞬間――。
――雷鳴の如き、稲光が空中を走った。
衝撃が大気を駆け抜け、ズシン、と魂まで届くかのような衝撃音がアラン湖に響き渡る。
猛烈な風が巻き起こり、湖の水が波打ち、木々が一斉に鳴いた。
見事にリヴァイアサンの鼻面にヒットした回し蹴りは、リヴァイアサンの強固な表皮をぶち破った。
その巨大な体躯が僅かに浮き上がり、仰け反るようにしてリヴァイアサンが転倒していく。
――少女の蹴りが、聖獣の突進を凌駕した。
余りにも理解しがたい光景なのだろう。
泣き叫び、阿鼻叫喚の様相を呈していた人々の声が消えた。
そして代わりと言わんばかりにリヴァイアサンが悲鳴を上げた。
甲高い、人間には聞き取りにくい鳴き声と共に、アラン湖に沈んだリヴァイアサンであったが、あの程度で倒せるとはルノワールは思っていない。
黙したまま、彼女は体内の魔力を練り上げていた。
(ゲートスキルや奥の手は使えない)
これほどの人目がある中で、切り札は切りたくない。
一連の事件を引き起こした下手人が近くにいる可能性もある。
敵がどこに潜んでいるか分からないのだ。
可能な限り、手の内を晒さずに、そして迅速に。
(やってみせる……)
再びゆっくりとリヴァイアサンが水上に顔を出した。
先程までよりも、鋭い表情、充溢する魔力が聖獣から伝わってくる。
その力に対抗するようにして。
濃密なトーガの魔力光がルノワールを包み込んだ。
☆ ☆ ☆
ベルモント=ジャファーは、誰であっても嫌悪感を抱くであろう薄暗い笑みを浮かべていた。
「ひゃは、ひゃははっ! 殺しちまえ、あのくそ女を!」
視線の先に映っているのは、ミストリア王立学院の制服を身に纏った、ファウグストス家の従者、ルノワール。
颯爽と宙に浮き、構えるルノワールを血走った瞳で追いかけている。
彼は唸るように吠えた。
「あの女のせいでおれは!」
ベルモントは昔からミストリア王国のとある貴族の汚れ仕事をひっそりとこなしてきた男だった。
今年で既に50歳を迎える年齢であるが、未だに彼は現役で依頼を受けている。
今回依頼されたオーダーは、メフィル=ファウグストスの誘拐。
可能ならば洗脳をかけることが望ましい。
特にそれ以外に要求されたことは無い。
対象のメフィルは、美しい少女だった。
この依頼を受けた時、既にベルモントはメフィルを自分の意のままに操り、性的搾取することを夢想していた。
彼には幼少の頃から魔術の才があった。
昔から学んできた洗脳系の魔術を極めていく内に、ベルモントは10年前についにゲートスキルを習得するに至ったのだ。
得られた能力は、ベルモントが長年に渡って研究を続けてきた『洗脳』の力、まさしく彼に相応しいゲートスキルだった。
自身の仕事内容を踏まえると、これは天の配剤であると彼は信じた。
今までに手にかけてきた王国民は数知れず。
洗脳、という強力無比な力をもってして、彼は今まで自分の意のままに人を殺し、女を犯し、金を得ては、好き勝手に生きてきた。
殺す対象は貴族もしくは貴族子飼いの護衛や騎士が多い。
甘ったれた防衛意識の薄い貴族を殺すことは、彼にとってはそれほど難しい事では無かった。
しかし。
そんなベルモントだったが、今回は思いの外手こずっていた。
まず初めに、けしかけた一等級魔術師は、メフィル本人に撃退されてしまう、という情けない事態になってしまった。
いくら公爵家の息女とはいえ、まさか一等級魔術師を撃退出来るとは予想だにしていなかったのだ。
一度目の襲撃での失敗のせいで、メフィルの外出頻度がグンと減り、手を出す機会が大幅に減ったのみならず――忌々しいあの女がやって来た。
「……ルノワール」
恨みの篭った低い声で呟く。
あの護衛が現れてから、状況は一変した。
これまでとは違い、まるで隙が無くなってしまったのだ。
最初の失敗を踏まえて、今度は慎重に事を運ぼうとしたベルモントであったが、全てがあの護衛に防がれた。
人を雇って尾行をさせても、山狗を操り襲わせても。
それ以外にも、数々の罠を街中に仕掛けていたが、それらの全てがルノワールによって撃破された。
一度は毒も用いたが、あの女は一体どんな身体構造をしているのか、毒を体内に入れてもケロリとしていた。
――時間が掛かりすぎている。
帝国の動きが慌ただしい。
王宮の方も何やら、きな臭い感じになってきている。
いよいよ依頼者からの催促も本格化してきた。
このままではベルモント=ジャファーの地位は失墜してしまうだろう。
生半可な攻撃ではルノワールはビクともしない。
それを痛感した彼が用意したのが、今現在アラン湖で暴れまわっている聖獣リヴァイアサンだった。
流石のベルモントでも聖獣を操るのは容易では無い。
依頼者からの『手伝い』もあり、なんとか2ヶ月ほどの時間を掛けて、メフィルの合宿に間に合わせた。
そしてベルモントは更にもう一つの策を用意していた。
(何のために、あのようなことを行わせたのかは分からなかったが、これ程の効果が認められるとは)
ここのところ、彼は慢性的に炎の魔術を行使し、周囲一体で火が絶えることが無いようにしていたのだ。
植物の働きを抑制する秘薬を燃やし、薪などをくべて燃料とした。
また、アラン湖周辺の空気の出入りを阻害するように風を操作し、大規模な空気の圧縮作業を行ったりもしていた。
火災狙いでは無い。
目的は人々の理性の檻を破壊することだった。
依頼者からの指示でベルモントが行っていた、この『燃焼』作業は人の理性を低下させることに繋がるらしい。
依頼人の言葉が脳裏を過ぎる。
『――私の言う通りにすれば、アラン湖一帯の人々から冷静さを削ぎ、混乱に拍車をかけることが出来るだろう』
初めに聞いた際にはベルモントも半信半疑ではあったが、最近のアラン湖周辺の人々の様子を見る限り、本当に効果が現れていた。
普段ならば理性的な判断を下すであろう場面であっても、どこか衝動的になり、本能に身を任せたように振舞う人々。
これを利用すれば、ベルモントにとって都合の良い状況を故意に作り出すことも出来るだろうと彼は考えた。
今回の一件は今後の仕事にも有益な実験でもある。
(それにしても……一体どこでこのような方法を『彼』は知ったのだろうか……)
依頼人から聞かされた方法であるが、彼はこのような事態が起きる原因を正しく理解してはいなかった。
植物の働きを抑制することと燃焼との間に存在する関連性もよく分からない。
ベルモントは知る由も無い。
この場には、『科学的』な作用が働いていた。
今回の一件。
特定空間の断続的な燃焼の発生、空気の意図的な誘導により、アラン湖周辺の酸素濃度がほんの数%低下する、という現象が引き起こされていた。
植物の光合成は秘薬の力によって奪われ、気圧と地理的な関係により、少しずつではあるが、確実に失われていく酸素。
つまりアラン湖周辺は慢性的な酸素不足状態にあった。
それによって引き起こされるのは酸素欠乏症だ。
人間は酸素濃度が低下すると、健康を害する諸症状が観測されるが、酸素の不足に対して最も敏感に反応を示すのは、脳の大脳皮質である。
酸素欠乏症に陥ると、前頭葉が機能低下し、理性の意識水準も同時に低下する。
これによって、理知的な思考が抑圧され、動物的な本能に頼りがちになってしまうのだ。
生徒や旅行者が目先の責任追及に躍起になったり、物事をしっかりと考えて行動することが出来なくなっていたのは、この酸素欠乏症による影響だった。
これによって。
ベルモントの手先の人間による、ほんの些細な糾弾が。
メフィルを責める声が。
燃え広がる山火事の如く、膨れ上がっていった。
酸素が欠乏しているかどうかは臭いや色などでは全く判別出来ず、初期症状も特徴的ではない上に、そもそも息苦しいと感じないため、酸素濃度が低いことは非常に気づきにくい。
唯一ルノワールが敏感に環境の変化を感じ取っていたが、あくまでも『科学的な作用』であり、流石のルノワールであっても、魔力無き環境変化は完全には把握出来ていなかった。
「まぁよい……」
ベルモントは薄く笑った。
今までの襲撃では、彼の作戦は全てにおいて、洗脳した人間もしくは魔獣を用いていた。
だが今回は違う。
主に使ったのは、金と脅迫。
彼は洗脳を生業とする魔術師であって、洗脳魔術しか使えない魔術師ではない。
魔術などなくとも人は洗脳することが出来るのだ。
青年には金を持たせ、ハーミット伯爵令嬢の取り巻き貴族は、洗脳魔術で散々に若き肢体を凌辱した後に、徹底的な恐怖を与えた。
それによりベルモントに逆らえぬように『調教』したのだ。
また、この不運はメフィルのせいだと煽ったこともあり、彼女達はメフィルをひどく恨んでいる。
直接的な手段はファウグストス家に近しい人間には警戒されてしまうが、外部の人間であれば不可能ではない。
ハーミット伯爵令嬢の取り巻きには洞窟までメフィルを誘うように促し、地元の青年達を使ってメフィルをその場に留まらせ、追い詰めるように、指示したのだ。
それ以外にも、数多くのメフィルを追求するための『サクラ』をベルモントは用意しており、彼らは我先にとメフィルを責め立てた。
例えほんの少しでも魔術の兆候があれば、ルノワールには見破られてしまうだろうが、今回に限っては、リヴァイアサンの封印(こちらは徹底的な隠蔽工作を施した)を除けば、直接的には魔術をルノワールの周囲には使用していない。
これが功を奏したと言える。
「くくく……」
概ね、ベルモントの意図した通りに状況は推移している。
メフィルの先程のショックを受けたような表情は実に痛快だった。
自分の手の平で踊る群衆、阿鼻叫喚の人々を見ているのは、ベルモントにとって快楽以外の何物でもない。
散々自分を苦しめたルノワールが不安げに顔を揺らし、苛立ちを顕にして声を上げたのを見た時には胸がスッとしたものだ。
防衛本能を働かせた地元自警団や王立学院の教師達がリヴァイアサンを相手に奮闘しているが、あれもいつまでも持つまい。
あのような雑魚に止められるほど『聖獣』とは甘い魔獣ではない。
あの巨大な船は邪魔だが、すぐに破壊されることだろう。
そう彼は考えていた。
果たしてベルモントの予想は当たった。
船は破壊され、防衛線は決壊した。
そしていよいよ、リヴァイアサンがメフィルに向かって突進を始めたのだ。
ベルモントの命令通りに、行動しているリヴァイアサンを見ながら彼は笑みを極めた。
「ひゃはははっ!」
周囲すべてが冷静ではない状況。
加えて魔獣の頂点たる聖獣の襲撃。
流石のあの護衛であってもどうしようもあるまい。
「ひゃははっ! はははっ!」
高笑いをあげるベルモント。
「殺せ、殺せっ!」
彼は気づいていなかった。
自分の目的が『メフィル=ファウグストスの誘拐』から、『ルノワールの殺害』へと変わってしまっていることを。
これほど大胆な方法を取ってしまっては、取り返しがつかなくなってしまうことを。
彼自身――酸素欠乏症の影響を色濃く受けている、ということを。