第六十一話 混乱
「彼女に触れるなっ!!」
青年の手を振りほどき、メフィルお嬢様を抱き寄せる。
震える彼女を目にしているだけで、心が激しくさざめいた。
「この御方をどなたと心得ている……っ!!」
かつてここまで大きな声を出したことがあっただろうか。
そんなことを考えてしまうくらいの大音声が僕の口から放たれた。
誰もがしばし動きを止め、僕に視線が集中する。
だけどそんなことは知るものか。
僕は周囲全てを無視してお嬢様に静かに語りかけた。
「大丈夫ですか、お嬢様?」
「……ルノワール」
縋るように僕を見上げるお嬢様を強く抱きしめる。
彼女が震える必要など、どこにもありはしない。
ほんの少しでも彼女の不安を消してあげたかった。
だから。
「御安心下さい」
穏やかな表情で彼女に微笑みかけた。
「……ぇ」
小さな身体だ。
華奢な肩をこの手に抱くと、それがよく分かる。
突発的な事態で戸惑い、自身の責任を感じ、更には若い男性に腕を握られた。
彼女は怯えている。
だからこそ優しく、彼女を安心させるように言った。
「私がついております」
地面に押さえつけられた時に擦りむいたのだろう。
彼女の珠のような肌に、小さく血の跡が付いていた。
どんよりとした暗い感情が湧きあがってくる。
(あの野郎……)
傷に気づいた僕は今すぐ、あの青年を半殺しにしたい衝動に駆られたが、なんとか自制した。
メフィルお嬢様が耐えているというのに、自分だけがみっともなく取り乱すような事があってはならない。
僕は誇り高きファウグストス公爵家の従者なのだ。
この場で僕まで冷静さを失ってどうする。
「……一つ、よろしいですか?」
著しく理性を失っていた人々が今だけは僕に注意を傾けている。
束の間の静寂。
言葉を交わすのならば今をおいて他にない。
「この地の封印はリヴァイアサンを封じ込めておくほどの強固な結界だったのですか?」
僕が聞くと、先程お嬢様を押さえつけようとした青年が吠えた。
「当たり前だろう! でなければどうやって封印する!?」
「……そうですか」
「それがなに――」
「――でしたらおかしいですよね?」
僕が尋ねるように問うと彼は目を丸くした。
「な、何が」
「リヴァイアサンは名高き海の聖獣。その力は推して知るべし、でしょう? 当然、結界だって凄まじい強度だったはずです。これは主人に対する不敬な発言に当たりますが……現在のお嬢様の実力では、聖獣を封じておけるほどの結界を破壊することなど不可能です」
ゆっくりと伝えると、しん、と周囲は静まり返った。
「更に。そのような誰でも簡単に触れることが出来るような場所に結界の重要な装置を置いておくものでしょうか? 少なくとも私ならば置きませんが」
本当に重要な物ならば、それに相応しい扱いがあるものだ。
今回の件は不自然な点が多すぎる。
僕の言葉に反論する声が方々から上がった。
「そんなことは知らん!」
「現にリヴァイアサンが出てきているじゃないか!」
「そうだそうだ!」
再び僕は腹の底から声を出した。
「事実はそうだとして! それがメフィルお嬢様の触れた石版のせいだとは限らないでしょう!? そもそもおかしいと思わないのですか!? アラン湖にリヴァイアサンが封印されていた、などと。そんな話を聞いたことがありますか!?」
なんとか理性を取り戻して欲しいと願いながら僕は声を張り上げる。
狂乱によるパニック障害、なのだろうか?
冷静な思考が為されていない人々に強く訴え掛けると、不意に僕とお嬢様を包むような形で結界が生み出された。
僕の魔術ではない。
「これは……」
お嬢様の呟きに答えるようにして、人垣から一人の女子生徒が歩み出た。
「……クレア=オードリー」
思わず僕が彼女の名前を口にすると、クレアは口の端を吊り上げて言った。
「無理もないとは思わない?」
「何がですか?」
「メフィル=ファウグストスのせいじゃない。貴女はそう言うけど、実際には他に容疑者らしい容疑者はいないのよ」
(容疑者、だと?)
クレアの物言いに額に青筋が浮かび上がりそうになったが、なんとかこらえる。
「少しでも疑わしい人間がいるのならば、拘束しておくことに意味があると思わない?」
「このような状況では疑わしい人間が見つからなくても自然なことだと思いますが? そもそも犯人がアラン湖にはいない可能性だってあるでしょう?」
しかし僕の問いには頭を振って、クレアは淡々と言った。
「現時点での可能性を話しているのよ」
「そのような言い分は認められません」
「まぁ……いいわ。どのみちその結界を解除するつもりは無いから」
結局は力づく、か。
クレアは昔から変わっていなかった。
「横暴ではありませんか?」
「私は風紀委員なのよ」
「ならばこの場から皆を避難させることが仕事なのでは?」
「とりあえず風紀を正すのが私の仕事」
「これがその仕事の一環であると?」
こちらの心情を無視し、無理矢理暴力で押さえつけることが仕事だと?
「そうだけど?」
何食わぬ顔で答えるクレア。
苛立ち混じりに思わず口から言葉が突いて出た。
「成り上がり貴族如きが権力を得て調子に乗りましたか?」
まずい、僕も冷静じゃない。
度重なるトラブルに加え、先程からのメフィルお嬢様に対する暴言、応対に、僕の我慢がそろそろ限界を迎えようとしている。
口調が段々と荒くなっていくのが自分でも分かった。
「……なんですって?」
「他者を力で無理矢理に従わせ、都合が悪くなれば『花ノ宮』の一員として揉み消すのでしょう?」
クレアの顔色が明らかに鋭く変化した。
「……痛い目に合わせてあげようかしら?」
「貴女如きに倒されるような人間が公爵家の貴人をお守りする護衛に選ばれるとお思いですか? 片腹痛いですね」
「こいつ……っ」
僕が闘志を滾らせ、次々と言葉を吐いていくと、お嬢様が心配そうな表情で僕を見上げた。
僕の身を案じているわけではない。
彼女が心配しているのはクレアに対してだ。
「どれだけ喚こうが、その結界は並の魔術師では絶対に破れないわ。それだけの強度を込めたからね。精々そこで負け犬の遠吠えを――」
彼女の言葉の途中。
僕は思わず笑ってしまった。
「強固な結界?」
これが?
この程度が?
「笑わせないで欲しいですね」
僕は指先で軽く結界の端に触れた。
そして魔力を込めると、いとも容易く結界は脆くも崩れ去る。
この程度の結界解除など何の予備動作も必要無かった。
☆ ☆ ☆
「な……っ!?」
驚愕の表情でルノワールを見つめるクレアさん。
「メフィルお嬢様に対する数々の無礼に対する謝罪を求めます」
ルノワールがクレアさんの瞳を見つめ返すと、彼女は激昂した。
「っ! ふざっけないで!!」
言いつつ、クレアさんが魔力を身に纏い、ルノワールに向かって躍りかかる。
だがその動作は余りにも――緩慢に過ぎた。
風魔術で自身の身体を中空に滑らせ、同時にルノワールの背後に土壁を出現させて逃げ道を塞ごうとするクレアさん。
勢いがあり、威力があり、魔力も乗っている。
しかしそれはあくまでも、学生のレベルとしては、だ。
ルノワールは余裕をもってクレアさんの攻撃を回避してみせた。
「くっ」
ルノワールが背後に回る。
慌てながらも、振り返りざまに回し蹴りを放ちつつ、周囲一面に火球を作り出したクレアさんは、その全てをルノワールに向けて放った。
それら全てがルノワールに着弾する。
爆炎が広がり、轟音が周囲に響き渡った。
周りにいた生徒達も突然始まった戦闘に動揺し、悲鳴を上げながら、この場から離れていく。
「これで……」
「――話になりませんよ」
爆炎が晴れ、煙の中から姿を現したルノワールには傷一つなかった。
全てを結界で防ぎきっている。
私とリィル以外の全員が驚愕に目を見開いていた。
それも当然だろう。
相手はあのオードリー大将軍の娘。
学院で最も強いと噂されている少女なのだ。
「そんな……っ」
「オードリー大将軍の娘だから才能がある? ずっと戦闘の訓練をしてきた?」
馬鹿馬鹿しい、と嘲笑せんばかりの声音だった。
「所詮は実戦経験も無い学生でしょう?」
これほど挑発的な言葉遣いをするルノワールを私は見たことがない。
彼女は本気で腹を立てている様子だった。
「う……」
クレアさんがよろめき、足元がぐらつき、尻餅をつく。
「……」
ルノワールが見下ろすと、クレアさんは怯えた表情で肩を震わせた。
ルノワールは、戦意を失ったクレアさんから、周囲へと視線を向けた。
そこで先程私を押さえつけようとした青年を睨みつける。
「メフィルお嬢様に対する不敬な発言についての謝罪を要求します」
クレアさんに言った事と同様の言葉を繰り返す。
しかしルノワールに睨まれてなお、その青年は声を張り上げた。
「け、結局はお前も力づくじゃねぇか!」
「……今のは誰が見ても正当防衛だと思いますが」
「リヴァイアサンが出たのは事実なんだぞ! 犯人を捕まえて何がいけない!?」
「その犯人だとする根拠がどこにも無いから……」
「石版を触ったことを認めたじゃないか!」
「だからそれは――」
互いに熱くなり、言い争いをしている内に、アラン湖の方から風が吹いてきた。
強い風だ。
同時にアラン湖の水面が激しく波打ち、小さな津波のように押し寄せてきている。
嫌な気配が身を圧迫し、次第に動悸が激しくなっていった。
肌がチリチリとざわめく。
そして。
群衆の中の誰かが恐怖の叫び声を上げた。
「こ、こっちに来たぞっ!!」
湖に目を向け、見上げると、猛烈な勢いでこちらに向かってくるリヴァイアサンが見える。
沈みゆくディ・プレミオール号の姿も在った。
防衛線が破られたのだ。
このままあの巨体による突進が、この周囲に直撃すれば、何十人という人が大怪我を負うだろう。
いや死人も出るかもしれない。
「……ルノワール!」
私が叫ぶと、彼女は瞬時に私の傍までやって来た。
ルノワールのゲートスキルを以てすれば、私達は簡単にこの場から逃げることが出来る。
しかしそれはこの場に居る人々を見捨てる、ということだ。
私はグッと強い視線を彼女にぶつけた。
ルノワールの美しい瞳が、今、私の瞳を覗いている。
「…………」
この場で言うべきこと、だろうか。
「お嬢様?」
いや、迷っている場合では無い。
「貴女は……」
意を決して言葉にした。
「リヴァイアサンを止めることが出来る?」
「……」
「貴女には……それだけの力がある? この場にいる皆を救うことが出来る?」
私は何を言っているのだろうか。
相手は聖獣だ。
あの恐ろしい姿を見ろ。
ルノワールであっても勝てるかどうか分からない。
彼女に戦わねばならぬ責任などは無い。
ルノワールが再び怪我を負うかもしれない。
下手をすれば――。
万が一のことがあった時、私は後悔しないのか。
(分からない)
分からないけれど。
「……」
じっと彼女の瞳を覗き込む。
すると彼女は優しい声で頷いた。
「……承知いたしました」
私の思いが通じたのか。
ルノワールはいつもと変わらぬ柔らかな笑顔を浮かべていた。
「リィル!」
ルノワールが呼ぶと、リィルは付き従う従者のように、恭しく頭を垂れた。
「はっ!」
「万が一のことが無いように。お嬢様を頼みます」
どこか威厳に満ちた声音だった。
普段から常人とは異なる雰囲気を携えたルノワールであったが、今はそこに底知れない力強さも加わっている。
彼女は私とリィルに背を向けた。
横合いから、例の青年の声が聞こえる。
「そ、そんなっ! リヴァイアサンがこっちに来るなんて! 聞いてねぇぞ、ちくしょう! ふざけやがって!! これも全部お前のせいだ!」
私を指差し、吠える青年。
ルノワールは彼の元へと素早く移動すると、その頬を張った。
鈍い音が周囲に響き渡る。
「な、なにしやがる!」
「いい加減にしなさい!」
年下の少女の剣幕に、青年は明らかに、たじろいだ。
「うっ……」
そのまま青年を無視し、踵を返したルノワールは、軽く地を蹴った。
「要するに――」
彼女の身体がゆっくりと空中へと浮かびあがっていく。
「――あの魚を倒してしまえばいいのでしょう?」
次の瞬間――ルノワールは目にも止まらぬ速度でリヴァイアサンに向かって飛び立った。