第六十話 解き放たれた聖獣
洞窟の奥底。
水中深くの巨大な横穴に『ソレ』は居た。
水上へと躍り出た僕は、すぐさまお嬢様とサーシャさん達、そしてエステアさんが乗っていたボートを魔術で持ち上げると、自分の身に引き寄せ洞窟の外へと退避した。
現状で同級生全員を守りながら『ソレ』に対処するのはリスクが高すぎる。
僕達が洞窟の外に出るのと同時――『ソレ』はアラン湖に突如として姿を現した。
山のように巨大な体躯。
強靭な顎には無数の鋭い牙。
真紅に染まった紅い瞳は、対峙する者を圧倒するだけの迫力がある。
『ソレ』の雄叫びは大地を揺るがし、湖面に津波を発生させた。
何よりも惜しみなく放出させている魔力の圧力が並の魔獣とは比べ物にならない。
『ソレ』はエラをまるで翼のように、はためかせ、阿鼻叫喚の渦に叩き込まれている人間達を見下ろしていた。
聖獣――『リヴァイアサン』
海の王者。
魔獣の頂点に君臨する超長寿生物の姿がそこにはあった。
☆ ☆ ☆
「この場所から離れます!」
有無を言わせずに、僕は素早く離脱を図った。
(何故こんな場所にリヴァイアサンがいる!?)
姿を現すまで、全く気付かなかった。
しかし、今ならば、しっかりと感じられる。
僅かではあるが、洞窟の中に封印されていたような気配があった。
(一体いつから?)
アラン湖にリヴァイアサンが封印されている、なんて話は聞いたことがない。
(聖獣がいると知っていたら、ユリシア様も僕に伝えているはず)
聖獣。
それは魔獣達の中でも特別に強く、長生きで、そして賢い生き物だ。
圧倒的な魔力を持ち、生物の頂点に君臨する王者とも言われる。
地域によっては神と同一視されることも少なくない。
無闇矢鱈と人々を襲うことは極めて稀である上に、聖獣達の力が、まさに『神の如き』と呼ぶに相応しいものだからだ。
数千年の時を生きた聖獣は、やがて神格を得て『神獣』となる。
神獣となった聖獣は、一息で山を動かし、海を割り、天を引き裂くという。
(あれは神格を得た神獣では無い)
感じる魔力の程度を測れば、それぐらいのことは分かった。
僕とマリンダは以前にも一度聖獣『麒麟』と戦ったことがある。
その時の『麒麟』は神格を得ていた。
神獣『麒麟』は桁外れの魔力を宿しており、その力は当時の僕では足元にも及ばないほどであった。
紆余曲折あって、その時は引き分け、というか和解したのだけど。
あのリヴァイアサンは――、
(――普通じゃない)
あの気配。
どう考えても様子がおかしい。
聖獣というのは基本的に理知的で理性的な存在だ。
人間よりもずっと優れた心根を持っている。
それがあのように暴れまわるなど、通常では考えられない。
何か、よほど逆鱗に触れる事態が発生したと見るべきだろう。
(水中に魚達の姿が見えなかったのは……)
リヴァイアサンを恐れて別の場所へと逃げてしまったのかもしれない。
アラン湖は海へと通じている。
逃げようと思えばどこまでも――、
(――繋がっている……?)
そこで一つの考えが浮かび上がった。
(もしや誰かが強制的にこの場所まで連れてきたのか?)
荒唐無稽にも思えるが……少なくとも昔から封印されていた――なんてことは無いはずだ。
であれば。
(有り得ない話じゃない)
限りなく難事であろうが、アラン川は水深にしろ、川幅にしろ、十分にリヴァイアサンの体躯であっても通過出来るほど巨大である。
そう考えると。
(くそ……やっぱりこれは……)
メフィルお嬢様を狙った犯行、なのだろうか。
合宿先での異変。
しかも丁度お嬢様が洞窟へと向かったタイミングで発生した事態。
ここ最近襲撃が無かったのは、リヴァイアサンの準備をしていたから?
(いや、でも……)
解せない点も多い。
今まで敵は、比較的に表沙汰にならないように立ち振舞っていたはずだ。
なるべく影響が外に漏れないように。
自分達の痕跡を残さないように。
だが今回急にこれほど大掛かりな仕掛けを用意するだろうか。
このような大事件に発展すれば、様々な追求を避けることは不可能。
それにこの合宿にはメフィルお嬢様以外の貴族の生徒達も大勢いるのだ。
もしもこれが以前からお嬢様を狙っている敵の攻撃だとして。
ここまで形振り構わぬ真似をする理由は何だ?
(……駄目だ、情報が少なすぎる)
現状では結局のところ、何もわからない。
分かっている事は――ただ一つ。
聖獣リヴァイアサンが暴れまわる。
(何にしてもお嬢様の傍を離れるわけにはいかない)
そんな最悪の現実だけが目の前にあった。
☆ ☆ ☆
学院の生徒達はアラン湖入口近くの一画に集合していた。
だが教師陣の姿が見当たらない。
「先生方は現在リヴァイアサンの対処に乗り出しており、この場にはおりません」
冷静な声音で僕に告げたのはリィルだった。
視線を軽くリヴァイアサンの方角へと向ければ、聞こえてくる荒れた喚声がある。
この場所からでも聞こえる轟音と衝撃が何度かアラン湖周辺に木霊した。
どうやら防衛戦が展開されているようだ。
「流石にミストリア王立学院の先生方は優秀な魔術師です。地元の方々と協力して対処にあたっています」
「大丈夫なの?」
「ディ・プレミオール号を上手く使っているようです。あの船には多少の装備が施されていましたので」
なるほど、あの船か。
確かにディ・プレミオール号は巨大な最新鋭の船ではあるが……それでも。
リヴァイアサンを撃破出来るとは思えなかった。
精々盾代わりに使える程度だろう。
「現在は時間を稼ぎつつ、外軍の到着を待つ方針だそうです。既にオードリー大将軍には通達されています」
「……そう」
確かに将軍閣下が間に合えば事態は立ちどころに収束に向かうだろう。
だが、とてもではないが――。
(間に合うとは――思えない)
不安な顔色の僕を見上げつつ、リィルは励ますように僕の耳元で囁いた。
「それと……あらかじめ待機していた紅牙騎士団の団員達が地元の青年団に扮して戦闘に参加しております」
それは朗報だった。
頼りになる僕の同僚達。
彼らが奮闘してくれているというのは非常に心強い。
「彼らが上手く立ち回ってくれていますので、早々に瓦解することはないと思われます」
「分かった」
僕は小声で頼りになる同僚に尋ねた。
「リィル、今回の事態……どう思う?」
漠然とした僕の問いかけに対し、リィルは小さく頭を振った。
「……分かりません。今のところは情報が足りません。ただ、少なくとも昔からリヴァイアサンがこの地にいた、ということはまず有り得ないと思います」
「……同感だよ」
広場で身を寄せ合う生徒達。
クラスメイト達の所へやってくると、何やら現地の人間と思しき老人達が大声で喚いているのが聞こえてきた。
「誰かが湖のヌシを目覚めさせたのだ! 厳重に封印されておったのに!」
その声に同調するかのように群衆の中に居た誰かが声高に告げた。
「昔からこの地に居た悪しき邪神を何者かが蘇らせたのだ!」
僕は内心で、そんな馬鹿げた話があるか、と思った。
もしも老人の言っていることが本当であれば、何故あのように誰もが入れる洞窟に封印していたのか。
聖獣の封印ならば、もっと厳重に管理しているはずだ。
「誰かが洞窟の封印の石版を使用したに違いない!」
(……石版?)
意味が分からずに僕は首を傾げたが――何故かお嬢様が肩を震わせた。
「……」
唇を噛み締め、俯くメフィルお嬢様。
彼女の様子がおかしい。
「……お嬢様?」
「……」
「どうか、なさったのですか?」
僕が聞いても彼女は顔を青くするのみだった。
心配になり、更に彼女の傍に近づこうとした時。
「あの石版!」
エステアさんの取り巻きの貴族少女が大声で叫んだ。
「わたし見たわ! メフィルさんが、その石版に魔力を注ぐ瞬間を!」
――なに?
「わたしも見ました!」
もう一人の取り巻きの少女も言う。
それらの大声のせいで、皆の視線がお嬢様に集まった。
「まさか……あの石版が?」
お嬢様がポツリと呟くと、一人の若者がこちらに歩み寄ってきた。
「何か知っとるんか?」
冷たい表情でお嬢様を見下ろす男。
僕は彼女を守るために一歩を踏み出そうとしたが――、
「いい、ルノワール。ちょっと待ってなさい」
――片手を上げて僕を制止するお嬢様。
「しかし……っ!」
目の前に居るのはどうみても、20代の男性だ。
この男は……メフィルお嬢様にとっては恐怖の対象ではないのか。
「いいから……っ!!」
叱咤するように叫ぶお嬢様。
その声は震えている。
「いいから少しだけ……話をさせて」
縋るような瞳を向けられ、僕は口を閉じた。
青年に向き直り、お嬢様がゆっくりと尋ねる。
「洞窟、というのはアラン湖北東の洞窟のことですか?」
「そうだ」
「あの場所にリヴァイアサンが封印されていた、と?」
「そう、石版の力によって、な。あんたが壊したのか?」
「……触れはしました。しかし、力を込めもしていなければ、魔力も注いではおりません」
お嬢様は真っ直ぐに青年を見つめて話していた。
後ろから彼女を見守っていると、彼女の手のひらがひどく汗ばんでいることに気づいた。
あの青年と、ただこうして対峙しているだけでもお嬢様にとっては、辛いことなのだ。
しかも彼は明確な敵意を彼女に向けている。
「この地にリヴァイアサンがいる、などという話を聞いたことは……」
お嬢様があくまでも理性的に声を掛けようとするも――、
「捉えろ!」
――言葉は途中で悲鳴のような叫び声でかき消された。
そして彼女に向かって、青年の一人が叫んだ。
「やっぱりこいつが犯人だ!」
「湖のヌシを呼び出した元凶!」
反論を許さぬ断定口調。
波紋のように怒号が伝わり、一瞬の内にして、さざめきが広がっていく。
(不味い……っ!)
この場にいる人達は一種のパニック状態に陥っているのかもしれない。
非常に僕達にとって好ましくない状況へと推移していくのを感じた。
「お待ちください!」
僕が声を張り上げても、彼らの耳には届かなかった。
青年達は怒り狂ったような形相でお嬢様を睨んでいる。
その変容、そして彼らの様子に僕は唖然となった。
何かが――おかしい。
(なんだ、これは……?)
冷静に思考を働かせれば。
お嬢様の言葉に耳を傾けようとする者も多い筈だ。
何故ここまで理性的な行動が出来ていない?
リヴァイアサンが突然現れたとはいえ、もう少しぐらいは理性が残っていてもいいだろう。
そもそもが、こんな場所で犯人探しに明け暮れている場合なのか?
逃げなければいけない状況ではないのか。
悪い方へ悪い方へと傾いていく周囲の状況に、心が段々とざわめいていく。
訳の分からないままお嬢様を糾弾する彼らに、僕が苛立ちを募らせていくと、一人の青年がメフィルお嬢様に手を伸ばした。
彼はすぐさまお嬢様の手を引くと、そのまま地面に押さえつけようとする。
「うっ……!」
云われなき罵倒。
無抵抗な少女に対する力づくの制圧。
「この馬鹿女が!」
その時――僕の頭の中で、何かが切れる音が聞こえた気がした。
敬愛すべき我が主の頭が押さえつけられている。
お嬢様の制止があったが故に傍観していたが、これ以上は看過出来る筈もない。
分からず屋な群衆に怒りも感じていた僕の堪忍袋の尾は、瞬く間に切れた。
(……ふざけるなよ)
――我慢の限界だ。
「彼女に触れるなっ!!」