第五十八話 実習課題
アラン湖。
それは王国どころか北大陸でも最大の大きさを誇る巨大な湖だ。
特徴的なのは湖の大きさだけではない。
誠に特筆すべきは、その美しさだろう。
圧巻たる優美な緑の風景。
雄大な自然が僕達を待っていた。
天空に向かって聳え立つアラゴア山をまるで鏡のように反射する美しい湖面。
透き通った水は風に吹かれ、ユラユラと湖面を躍らせる。
湖面の動きに合わせてキラキラと眩い輝きが煌めいていた。
周囲の山々からは小鳥達の囀りが聞こえ、サワサワとそよ風に揺られた木々が奏でる音色が心を落ち着かせてくれる。
景観を彩るための花々が植えられた花壇も、そこかしこに存在していた。
黄や朱、桃色、紫色の華やかな色合いが視界に入るだけではなく、華やかな香りが僕達を包みこんでいる。
美しい緑、蒼く透き通った湖、色取り取りの花々、心地よく吹き抜けて行く風、更には燦々と輝く太陽。
この場所そのものが、もはや一つの芸術作品だ。
観光名所であるのも、貴族達に人気の避暑地であることも十分に頷ける。
「わぁっ」
思わず声を上げてしまった。
初めて訪れたアラン湖の美しさに心奪われる。
僕は陶然とした表情で周囲に目を向けていた。溢れる笑みを抑えきれない。
それがついつい大きな声であったらしい。
クラスメイト達の視線が僕に突き刺さった。
「あ……す、すいません」
は、恥ずかしいことをした。
思わず赤面し、肩を落とすと、クスクスと笑い声が漏れ聞こえてくる。
それは何もお嬢様ばかりではない。
多くの1組生徒達の笑い声だ。
「う、うぅ……」
だけど不思議と嫌味な感じはしなかった。
みんなが浮かべている表情は、どこか微笑ましい者を見るような笑みだ。
それがまた僕に羞恥心を想起させるのだけど……居心地の悪さは感じない。
「あはは、顔真っ赤よ、ルノワール」
「お、お許し下さい、お嬢様」
楽しそうな笑みを皆が浮かべている。
「うふふ、いいじゃない。なんだか可愛かったわよ」
「うぅ……」
お嬢様。
僕は本当は男なので、その言葉は嬉しくないのです。
……などと言える訳もなく。
「せ、先生が呼んでいるので、は、早く行きましょう」
忙しなく、慌てつつ、僕が促すとクラスメイト達の笑い声が一層大きくなった。
☆ ☆ ☆
笑い声が木霊する中。
狼狽しつつも、一つだけ気になることがあった。
(なんだかこの場所……)
少し……変じゃないか?
美しい自然に囲まれていながら、僕は不思議な感覚を抱いていた。
原因は分からない。
だけど言葉には出来ない……言い知れない違和感がある。
特別な魔術が使われている訳でも、結界がある訳でもない。
しかしどこか胸をざわつかせるような、嫌な予感。
正体不明の違和感が僕に漠然とした不安を抱かせていた。
☆ ☆ ☆
学院で貸し切るペンションだが……当然のように1つの建物だけで、300人全員が収容出来るわけもなく、それぞれ2クラスずつに分かれて4つのペンションで一泊を共にすることになっている。
2組のカミーラさん達は僕達と同じペンションだったけれど、ヤライさん達は別の宿だった。
迎えられたペンションは掃除が行き届いているらしく、清潔感を感じさせた。
玄関口の整理整頓が徹底されている。調度品の類も決して派手すぎず、景観と調和するように自然を連想させるような作りになっていた。
僕達が訪れると、管理人の女性が元気よく言った。
「いらっしゃい。まぁ特に面白い物があるわけじゃないけど、ゆっくりしていってね」
随分と砕けた物言いだ。
少なくともお客さん相手の畏まった態度ではない。
それにかなり若い人だった。まだ20代なんじゃないだろうか。
元気ではあるが、どこか粗野な振る舞いなのが少しだけ気になった。
まぁでも礼儀やマナーを重んじるような高級ホテルというわけでもない。
むしろアラン湖の雰囲気には、彼女のような言い草の方が合っているような気もした。
「今から部屋の鍵を渡す。各自荷物を整理したらペンション前に一度集合するように」
担任教師の言葉に従い、僕達はいそいそと部屋まで歩を進める。
僕達の部屋は301号室だった。
「へぇ、良い景色」
部屋に入るなり、窓越しにベランダからの景色を眺め、メフィルお嬢様が微笑んだ。
お嬢様の仰る通り、部屋からの眺めは素晴らしかった。
木々に遮られるようなこともなく、アラン湖全体を見渡すことが出来るような位置だ。
「湖がしっかり見える部屋ですね」
僕も頷きながら彼女の隣りに並んだ。
このペンションは湖と比べてかなり高い位置に建てられており、どの部屋からであっても、ベランダからアラン湖を見ることが出来る。
それでも3階から見下ろす景色は特に良いものなのかもしれない、と僕は思った。
とはいえ、いつまでもここで景色を楽しんでいるわけにもいかない。
午前中は実習の時間だ。
僕達は荷物を片付け、一階のロビーへと降りた。
☆ ☆ ☆
合宿一日目の午前。
到着早々、早速ではあるが、魔術の演習課題が僕達を待っていた。
演習の内容は水魔術を応用した『造形』。
使用する魔術は自由。
何でも良いので、アラン湖の水を使って、何かしらの「水のオブジェ」を形成することが課題の目的となる。
(なるほど)
アラン湖という巨大な湖を上手に活用した課題内容だと思った。
造形する形にも依存するだろうが、高精度なオブジェを作成しようと思えば、かなりの綿密な魔術操作が要求され、同時に大きな魔力を消費することになる。
もしも目の前に巨大な湖が無ければ、水魔術で水を生み出す必要があるが、水の『生成』と『造形』の両方をこなすのは、多くの学院生にとっては魔力量的にかなり厳しい。
故に『造形』のみ。
誰か別の人間の魔力が混じっていると、自分の魔力と相手の魔力が干渉し合ってしまうため、上手くオブジェを作ることが出来ないだろうが、これだけの広さの湖であれば、問題は無いだろう。
学院内では、とてもではないが、これだけ大量の水を留めておくスペースを確保出来ない。
(さて、と)
うーん、何を作ろうかな?
「うーむむむ」
僕が眉を顰めつつ湖とにらめっこをしていると、お嬢様が苦笑しつつ言った。
「何を唸っているの?」
「いえ……何を作ろうかな、と考えていました」
まるで冗談を口にする様に、楽しげに彼女は続ける。
「貴女なら、ディ・プレミオール号ぐらい作れるんじゃない?」
なるほど。うーん、あの船、か。
「流石にそれは……皆さんの迷惑になりますので」
頑張れば出来なくはないけれど、湖に、あのような巨大なオブジェを作ってしまったら景観が台無しだ。
他の学生達の迷惑にもなってしまうし。
「……作れることは作れるのね」
何故か呆れ口調でぼやくお嬢様。
「は、はぁ、少し時間がかかりますが……お嬢様はどうなさるのですか?」
「そうねぇ……私は」
言いつつ、メフィルお嬢様は右手を軽く揺すった。
静かに瞳を閉じ、魔術を構築していく。
当然のように無詠唱。
そして術式発動までが素早い。
目を開いたお嬢様の手の平から、魔力が湖面に向かって放たれる。
みるみる内に湖の一画の水がせり上がり、ぐねぐねと蠢きながら形を変えていった。
しばらくすると、アラン湖の水が僕と同じくらいの身長の人型を形作っていく。
その水人形は髪も僕と同じくらい長く、着ている服はミストリア王立学院の制服のようで、目元のあたりなんかは、まるで毎日鏡で見ている姿で……ってこれ僕じゃない?
「うーん、なんか……」
チラリとお嬢様がこちらに視線を向けた。
「胸はもう少し大きいかしら?」
頷き水人形に手を加え始める。
周囲のクラスメイト達も早速課題の練習をし始めたお嬢様の様子を興味深そうに眺めており……次第に水人形を見つめていた視線が僕の方へと集まっていく。
「おお、お嬢様っ!?」
いやこれ恥ずかしい!
「ん?」
「いやあのその……っ」
やはり年齢を考えればお嬢様の魔術の技量は群を抜いている。
何故ならクラスの皆が、お嬢様の形作った水人形のモデルが僕である、とはっきり分かるほどに完成度が高いのだ。
お嬢様の作った水人形と僕とを見比べるように、交互に視線を左右させるクラスメイト達。
と、そこで周囲に人だかりが出来ていることに、ようやく気づいたお嬢様が、慌てて言った。
「あ、あはは。冗談よ、冗談。流石にあれを課題として提出するのは、ね」
早口で言うお嬢様に胸を撫で下ろす。
「で、ですよね!」
なんというかその、評価もし辛いでしょうし。
と、僕がワタワタと手を振っていると、メフィルお嬢様は言った。
「こほん。実は私はもう課題で何を作るかは決めているの」
「へ……そ、そうなのですか?」
よ、よかった。
先程の水人形は、お嬢様の御茶目だったようだ。
「で、では何を作るのですか?」
「んーっと」
一度顎先に手を宛がった彼女は再び湖面に魔力を放った。
湖面の水が形を変えていく。
今度は何やら動物のようだった。
しばらくすると僕は彼女が作っているのが、何かが分かった。
「ダイア、ですか?」
「ええ、そう」
それは我が屋敷で飼っている山狗、ダイアだった。
飛沫を上げつつ現れた大きな体躯の水山狗は、迫力満点だ。
毛並みまで再現しているかのように、水表面部分が綺麗に波打っている。なんというか、水であるにも拘らず躍動感がある。
まるで本当に生きているかのような出来栄えだ。
「素晴らしいですね」
僕が思わず呟くと、メフィルお嬢様は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。貴女はどうする?」
「そうですね……」
う、うーん。
どうしよう。
僕が唸りながら思考に耽っていると、隣に居たカミーラさんが造形を始めた。
彼女は何を作るのだろう、とぼんやりと眺めていると、生み出されたのは、何やら見覚えのある丸い形をしたケーキのようなタルトのような……いや、あの形状はパイかな。
作りながら横眼で僕を見つめたカミーラさんが僕に言った。
「ルノワールならパイでいいんじゃない?」
パ、パイですか?
そんな物でいいんでしょうか?
結構な真顔で言うカミーラさんに僕は戸惑い気味の愛想笑いを返した。
「まぁ先生も何でも良い、って言ってたし。最近はルノワールと言えばパイ、みたいなところあるし、良いかもね」
ところがお嬢様の所感は悪くないらしい。
あ、あれ……本当に課題内容は食べ物でもいいのかな。
「う、うーん。他に何も思いつかなければそうします」
「そうしなさい、そうしなさい」
上機嫌に頷くカミーラさんに会釈をし、僕は悶々と考え始めた。
☆ ☆ ☆
結局。
僕が課題として提出したのは、パイのたくさん入ったバスケットだった。
何も思いつかなかった自分を僕は恥じたが、クラスメイト達は得心顔で頷いており、担任教諭の評価も結構高かった。