第五十二話 そっと、支えること
スレイプニルとの戦いの日から、ルノワールの様子が少し変わった。
彼女は以前からも日課として朝方は実験場で修練を積んでいたのだけれど、その修練の頻度が増えたのだ。
夕食後にも実験場に足を運び、何やら魔術の修行をしているらしい。
詳細は教えてもらえなかったが、なんでも敵の大将との一騎打ちをした結果、引き分けで終わったとか。
私の前ではルノワールは決して弱い部分を見せない。
しかし、どうしても気になった私がリィルに問い詰めた所、かなりの大怪我も負ったらしい。
初め、私はその話を信じることが出来なかった。
ルノワールの尋常ならざる強さを私も知っているからだ。
彼女の圧倒的と称するのも馬鹿馬鹿しいほどの戦闘能力。
お母様とて彼女の実力には太鼓判を押していた。
傭兵団スレイプニル団長ドヴァン。
戦鬼、と呼ばれることもあるほど獰猛な男だそうだ。
私は聞いたこともなかったが、どうやら中央大陸では有名な傭兵らしい。
ルノワールと引き分けたとなれば、その実力は折り紙つき、といったところなのだろう。
あのグエン様ですら驚いていた。
「う……ん」
腕を伸ばし、背を逸らす。
身体をほぐしながら、描きかけのキャンパスに目を向けた。
躍動感溢れる魔獣の姿。
現在私がモデルにしているのはダイアだった。
初めに襲われた時には確かに怖かったのだけれど……よくよく観察してみると、あの魔獣はとても美しい。
弱々しく怯えて暮らしている姿には心を痛めるが、ルノワールといる時だけは不思議とダイアに輝きが戻る。
(輝き……か)
上手く言葉には出来ないが、そうとしか思えないような変化があるのだ。
まるで親に巡り合えた幼子のように、ルノワールには甘えてみせる。
その姿が、愛らしく、綺麗で、胸を打たれ、そして……美しい。
「……うん」
いい出来栄え、だと思う。
この絵を見せたらダイアはどんな反応をするのかな。
そんなことを考える。
最近になって、不調だった調子も戻ってきた。
楽しい気分のまま、心穏やかに絵に集中することが出来ている。
だけど。
「……」
私の絵を見て喜びを表現する従者の姿が傍になかった。
「ルノワールは……まだ実験場かしらね」
なんでも新しい魔術を試しているらしい。
研究中だった魔術を完成させる、のだとか。
概要は教えてくれないけれど、間違いなく高度な魔術なのだろう。
なにせあのルノワールですら完成させるのに四苦八苦しているのだから。
「……大丈夫かしら?」
私如きがルノワールの心配をするなんてお門違いかもしれない。
しかし最近の彼女は修練に根を詰めすぎている。
学院の勉強もあり、食事の準備もあり、残りの時間は可能な限り鍛錬、だ。
かといってそれを止めることは出来ない。
あの子の修練は王国にとって必要なこと。
私の護衛をこなす上でも役に立つこと。
なのに主人である私が鍛錬を控えるように告げることなど、あってはならない。
それは彼女の気持ちを蔑ろにした自己満足であり、とても無神経だ。
「……よし」
だから。
今私がやるべきなのは――。
☆ ☆ ☆
「くぅ……はぁ、はぁ」
額から流れる汗を拭う暇もなく、ひたすらに魔力を練り上げる。
マリンダと訓練しながら新たに作っていた魔術。
ユリシア様から護衛依頼を任されたことにより、中途半端になってしまっていた。
だが今の僕にはそれを完成させる必要がある。
「……うん」
大分、形にはなってきた。
実践で使うには、まだまだ課題が多いけれど、この技が完成すれば――、
(……今度こそ)
――ドヴァンを倒せる。
作戦前夜にはあれだけ、お嬢様に対して自身満々に振舞っておいて、実際は引き分け。
結局はドヴァンを逃がすような結果で終わった。
(不甲斐ない)
そう思う自分がいると同時。
(次こそは)
そう思う自分もいる。
どこか身体の内に沸き立つものも感じている。
戦闘を欲する熱い何か。
あれほどの強敵は早々居るものではない。
瞳を閉じると、戦鬼の言葉が自然と思い起こされた。
『お前みたいな奴に会いたかったんだよ』
その気持ちは悔しいが、共感出来るものだった。
僕の中にも確かに存在している。
本気で戦えるだけの強敵を欲する心が。
「……」
(いいさ)
次に会う時は、あの獰猛な顔を地に這わせてやる。
そんな物騒な考え事をしていると。
余計な思考を挟んでいたからだろう。
「あ……」
手元の術式が狂い、魔術が解除されてしまった。
魔力の残滓が光の粒子と化して空中で四散していく姿をぼんやりと眺める。
どうやら集中力が切れてきてしまったようだ。
「……今日はここまでにしようかな」
メフィルお嬢様の護衛を務める以上、常に僕は余力を残しておかねばならない。
いざという時に魔力切れ、なんてことになってしまったら、お嬢様を危険に晒すことになる。それでは本末転倒だ。
故にギリギリまで自分を追い込んだ修練は控えるようにしていた。
スレイプニルとの戦闘の後、彼らはデルニックから姿を消した。
紅牙騎士団は、また彼らの情報を集めつつ、不安定な国勢に目を光らせるようだ。
グエン様は僕には再びメフィルお嬢様の護衛をしながらの学院生活に戻るように告げた。
今はそれが最善なのだと彼は言っていた。
汗を拭いながら、僕が実験場の外に出ると。
「あれ? お嬢様?」
実験場の出口に僕の主人の姿があった。
(しまった……ちょっと長く実験場に居すぎちゃったかな?)
彼女が実験場まで足を運ぶことは、あんまり無い。
「も、申し訳ありません。何か御用でしたでしょうか?」
僕が駆け寄り慌てて低頭すると、お嬢様は頭を振った。
「えっ? あ、違う違うっ。そ、そういうんじゃなくて……」
何やら動揺するお嬢様。
彼女は肩口の髪を左手でクルクルと巻くように弄りながら、僕を見上げた。
いつも凛々しい態度を心がけているメフィルお嬢様にしては珍しい仕草だ。
「……えぇと?」
僕が首をかしげると、お嬢様が小さく呟いた。
「……えっと…………これ……」
彼女がおずおず、といった様子で、右手で掴んでいたバスケットを僕に差し出す。
「ほら、もうこんな時間じゃない?」
「は、はぁ……」
「貴女ずっと頑張ってるし、その、お腹空いたかな、って思って」
「え……?」
中を見ると、そこには若干歪な形をした、おにぎりが入っていた。
お世辞にも見目麗しいとは評せない出来栄えだ。
現在屋敷の料理担当は僕だけれど、僕がやって来る以前は皆が交代制で料理をしていたという。
つまり屋敷の使用人達は全員がそれなりに料理の腕前があるわけで。
おにぎり程度ならば綺麗に作ることが出来る筈。
要するに。
「もしかして……お嬢様の手作りですか?」
僕が少々の驚きを滲ませて問うと、お嬢様は俯くようにして頷いた。
「う、ま、まぁ。おにぎりぐらいなら。その、そりゃ貴女みたいに綺麗には出来ないし、味も大したことないかもしれないけど」
「……」
僕が黙したまま、手元のおにぎりを見つめていると、メフィルお嬢様はポツポツと語った。
「……ルノワール、最近すごい忙しそうだから。勉強も頑張ってるし、料理もその、任せちゃってるし。私の護衛もしなくちゃいけないのに、変な傭兵団もやってきちゃって、だからその、なんていうか」
まるで言い訳をするように早口でまくし立てるお嬢様の言葉の途中で僕は思わず呟いた。
「……嬉しいです」
「え?」
僕を見上げるお嬢様の瞳をしっかりと見据えて、言った。
自然と笑顔が溢れる。
「とてもとても……嬉しいです」
お嬢様は普段は決して料理をすることなど無い。
少なくとも僕は今まで彼女が料理をする姿など見たことが無かった。
それなのに、僕を気遣って作ってくれたのだろう。
このおにぎりには、彼女の誠意が込められている。
胸が詰まりそうだった。
「そ、そう?」
「はい、早速頂いてもよろしいですか?」
「い、いいけど」
僕は包みを丁寧にとると、ゆっくりとおにぎりを口に入れた。
「あ、その、一応あれよ? ちゃんと味見もしたから、そんな滅茶苦茶な味はしない筈よ?」
不安そうな様子で僕を見上げるお嬢様。
「……大変美味しいです」
僕の言葉を聞いてお嬢様は、胸を撫で下ろし、頷いた。
「そ、それは良かったわ」
「お嬢様は私よりも料理の才能があるかもしれませんね」
朗らかに言うと、お嬢様は呆れ混じりに呟く。
「馬鹿ね、そんなわけないでしょ。おにぎりぐらいで大げさよ」
「でも美味しいのは本当です」
うん、本当に。
塩加減も絶妙だ。
「貴女が買ってきてくれたお米が良かったのよ」
それだけだろうか。
咄嗟に思いつくままに。
僕の口から言葉がついて出た。
「お嬢様の愛情が詰まっているからかもしれませんね」
「ちょっ!?」
僕が一つ目のおにぎりを食べ終わり、笑顔をお嬢様に向けると、彼女は顔を真っ赤にした。
「え?」
「あ、貴女ね……よくそういう恥ずかしいことを臆面も無く言えるわね」
愛情の話だろうか?
「いえですが……愛情というのは本当に料理では重要で。私もいつも……」
「わ、分かったっ。分かったから、この話はおしまい!」
「は、はぁ」
もぐもぐもぐ。
本当に美味しい。
少なくとも自分で作ったおにぎりがここまで美味しく感じられたことはない。
「ふぅ」
「は、早いわね、食べるの」
「お嬢様のご慧眼の通り、実はお腹が空いていたんです」
「そ、そう」
「ご馳走様でした」
「お、お粗末さまでした」
お嬢様手製のおにぎりを平らげた僕は、穏やかな気持ちで夜空を見上げた。
「……元気が出ました」
「そう?」
「はい」
もうそろそろ夜になっても、吹いてくる風も暖かく、肌寒さを感じることもない。
「……こんなことを言うのは、その、心無いことかもしれないけど」
ポツリとお嬢様が呟いた。
「なんでしょうか?」
「平時の貴女は……ミストリア王立学院の生徒で、学生で、私の従者で……」
僕はお嬢様の顔を見つめた。
「……」
「……貴女がヤライさん達に言ったことを覚えている?」
「はい」
「貴女は学院生で、楽しむことが仕事で……いやそりゃもちろん、騎士団としての任務が重要なのも分かってる。ルノワールにしか出来ないことがあるのも分かってる」
「……はい」
「でもっ。ただ、つまりその……気負い過ぎないで、って……違うわね」
彼女は必死に言葉を考えているようだが、上手い言葉が思いつかなかったらしい。
美しい眉根を悔しげに顰めつつ呻いた。
「その……あぁ、ダメね。上手く言えないわ」
だけど。
想いを伝えようとしてくれているのは痛いほどに分かった。
それだけ僕のことを本気で考えてくれている。
「いえ」
メフィルお嬢様の心遣いは確かに伝わった。
僕を思う、優しい思いやりも。
もしかしたら。
(最近の僕は少し……余裕を失っていたのだろうか?)
自分では自覚していなかったが、ドヴァンの存在が、僕が思っていた以上に、僕に影響を与えているのかもしれない。
ドヴァンの出現は様々な意味で僕を揺さぶった。
「お嬢様の、お心遣いに感謝致します」
「え?」
彼女を安心させるように、微笑む。
「ただ、もう少し。もう少しだけお待ちください」
「……」
「あと少しなんです。そうすれば、今まで通りの生活に戻ります」
「無理はしていない?」
「はい。体力には自信があるんですよ?」
僕が言うと、彼女は優しく頷いた。
「……それは知ってるわ」
そう言って微笑むお嬢様。
「……」
彼女の笑顔が――なんだかとても眩しかった。
心が熱い。
(あれ?)
ドヴァンとの戦闘時にも心が熱くなった僕だけれど。
あの時とは違う。
明らかに違う。
(この気持ちはなんだろう)
答えは出ないが、心地良い気分。
戦場とはまるで異なる熱さが僕の胸を満たしていた。