第四十一話 確執
「どうかしたのかしら?」
お嬢様はなるべく優しい声音で争いに介入した。
物腰は柔らかく、笑顔で彩られた表情からは全く敵意を感じさせない。
こういった状況において、双方に対して不満を抱かせないような最適な態度であると僕は思った。
初めに彼女はハーミット伯爵令嬢(メフィルお嬢様は彼女のことを知っていた)、エステア=ハーミットに向かって言った。
「お久しぶりね」
まずは挨拶。
お嬢様が登場した時には身を強ばらせたエステア嬢であったが、お嬢様の朗らかな笑顔を見て、すぐさま元気を取り戻した。
自分の敵では無いと判断したのだろう。
「お、お久しぶりですね、メフィル様」
エステア嬢の言葉を聞いてお嬢様は小さく頭を振った。
「様なんていらないわ、今は同じ学院に通う同級生なのだから」
暗にメフィルお嬢様は、身分の違いによる特別意識を持つな、と諭しているのだが、エステア嬢には全く伝わらなかった。
「まぁ、嬉しいお言葉ですわ」
何故かメフィルお嬢様に認められたかのような表情で喜ぶエステア嬢。
彼女はお嬢様の言葉を、単純に親しみを込めた物だと受け取ったようだ。
(う、うーん……)
僕が内心で苦笑していると、お嬢様が尋ねた。
「それで何があったの?」
「聞いてくださいまし!」
まるで自分が被害者だとでも言わんばかりに、エステア嬢が語り始めた。
なんでも自分は平民の女にいちゃもんを付けられた、とかなんとか。
『たまたま』水魔術がほんの少し、かかってしまったというだけなのに、ひどく悪し様に罵られたのだとか。
僕としては噴飯ものの言い訳であったが、メフィルお嬢様は辛抱強く、時に相槌を打ちながら話を聞いていた。
一通りの話が終わり、メフィルお嬢様は、なるほど、と頷いた。
「エステアさんはもう課題の練習は終わったのかしら?」
お嬢様は突然別の話をした。
エステア嬢は急な話題転換に戸惑いつつも、正直に答える。
「え、あいや……れ、練習を始めようとしたら、彼女達に絡まれたので……」
しどろもどろに話すエステア嬢。
「そう」
そんな彼女に向かってお嬢様は静かに諭すように告げた。
「では早速練習を始めた方がいいでしょう」
「えっ?」
エステア嬢が、首を傾げている間に矢継ぎ早に言葉を放つ。
メフィルお嬢様は堂々と胸を張って言った。
「折角栄えある王立学院への入学を許されたのですから。小さな諍いは貴族としての大きな器で受け流し、自分の成長のために時間を有効に使った方がよろしいでしょう。そうは思いませんか?」
「そ、そうですわね」
貴族としての器。
それも公爵家令嬢から言われた言葉であっては、エステア嬢も頷くほかない。
「エステアさんは優秀だと伺っています。課題の実演楽しみにしているわ」
この言葉を聞いて、エステア嬢は途端に機嫌が良くなった。
「は、はいっ。貴女達、行きますわよ!」
メフィルお嬢様が優しく言うと、エステア嬢は取り巻きを連れて上機嫌に、その場から去っていった。
取り残されたのは二人の平民の少女。
「さて、と」
振り返り、お嬢様は今度は平民の少女達に向き直った。
お嬢様に視線を向けられた二人の少女は見るからに怯えた表情で身を竦ませる。
エステア嬢を批難しなかったメフィルお嬢様もどうやら、彼女達にとっては恐怖の対象であるようだ。
それも公爵家の令嬢。伯爵家よりも遥かに家格が上だ。
万が一にでも粗相を犯せば、家族を巻き込んで一族郎党、路頭に迷うことになる。
そんなことを考えているのかもしれない。
「ルノワール」
彼女は静かに僕の名を呼んだ。
「はっ」
お嬢様に視線を向けられ、すぐさま僕は彼女の意図を理解した。
ゆっくりと二人の平民少女に近づき、水に濡れて蹲っている少女に手のひらを向ける。
一瞬怯えるように目を伏せた少女であったが、彼女はすぐに目を開き、僕を見上げた。
次いで今しがたまで濡れていた制服を見下ろす。
「……乾いてる」
「はい。そのままでは風邪をひいてしまいますので」
僕が安心させるように微笑みながら言うと、彼女は目をパチクリとさせていた。
彼女を庇っていた少女も戸惑った様子で僕とメフィルお嬢様に視線を向けている。
周囲にはまだ幾人かの人だかり。
皆に聞こえるようにお嬢様は言った。
「どちらの言い分も聞かなければ不公平でしょう?」
彼女は平民少女二人からも、エステア嬢の時と同じように状況の経緯を聞いた。
なんでも二人で練習していたら、いきなりやってきた3人の貴族生徒たちに水をかけられた、と。
話の途中でメフィルお嬢様は数度に渡り、眉をひそめたが、真摯な態度は崩さなかった。
「そう」
「は、はい。えっと、だからその……なんでしょう?」
お嬢様が味方なのか敵なのか。
そして直接の加害者でない彼女に対してどのような態度を取ればよいのか。
少女二人は混乱しているようだった。
だからこそ。
メフィルお嬢様はしっかりとした口調で、二人に言い聞かせるように小さな声で言った。
「今後もこのようなことはあるでしょう」
真摯な眼差しを少女達に向けつつ、彼女は静かに告げる。
「えっ?」
戸惑う二人の平民少女。
しかしお嬢様は構わず言葉を続けた。
「この学院は半数以上が爵位を持った貴族の家柄の人間。そして平民と貴族の間に溝が存在しているのは事実です」
真面目な口調だった。
そして事実だった。
平民としては贅沢な暮らしをしており、傲慢な態度をとる貴族が鼻持ちならないだろうし、逆に貴族からしてみれば、平民の癖に王国最高の名門校で自分達と同じ境遇にいるのが生意気に感じられる。
これは長年の間に蓄積してきた問題であり、この場でメフィルお嬢様が、人間は皆平等なのだ、と声高に言ったとしても無意味なこと。
例え強引に貴族達を黙らせ、平民達を見下すな、と諭したとしても、積み重なる不満が、より陰険な平民虐めを導くことは目に見えている。
また、無理矢理に貴族達を黙らせるという行為そのものが他家を従わせる、穿った見方をすれば見下していると思われるかもしれない。
平民を見下すなと言っておきながら公爵家が他家を見下しては格好がつかない。それは大きな矛盾である。
こういった問題は少しずつしか解決しない。
小さな歩み寄りの積み重ねが、よりよい『雰囲気』を作る。
その雰囲気作りこそが肝要なのだ。
少しばかり声を大きくし、周囲にも聞こえるようにメフィルお嬢様は言葉を紡ぐ。
「ですが、誰もが才能を認められ、努力の末に、いずれ王国を導く人間達に成長することを期待されてこの学院にやってきたのです。中には夢を抱いて学院に入った者もいるでしょう。たくさんの人が生活していれば、もちろん様々な不満はあるでしょう。理不尽な怒りに身を焦がすこともあるかもしれません」
しかし。
「それすらも成長の糧とし、乗り越えた先に必ずや、何かが見えるはずです」
周囲の人間は誰も彼もが黙ってメフィルお嬢様の言葉に耳を傾けていた。
ありきたりな言葉かもしれない。
綺麗事かもしれない。
だけど。
少なくともこの場でメフィルお嬢様の言葉に感じ入らない人間はいなかった。
彼女には惹き込まれる『何か』がある。
お嬢様はそれほどまでに輝いていた。
正統なるファウグストス公爵家としての貴人の血の成せる業か。
貴族としての才覚、カリスマ。
そういった類の人々を魅了する王者の資質を確かに感じる。
まさにこの場には『雰囲気』が形成されていた。
今この瞬間、ここにはメフィルお嬢様こそが絶対だと言わしめる、『雰囲気』がある。
彼女は力を振り乱した訳でも、力強い演説を行った訳でもない。
しかしそれでも。
無視できない、言葉にはし難い『何か』が確かに在った。
不可思議な感覚が四肢に伝わるのだろう。
未だ社会経験に乏しい学生達はその雰囲気にどこか呑まれてしまっていた。
「『何か』……とは?」
蹲っていた少女が立ち上がり、ポツリと尋ねた。
縋るような表情。
もしかしたら彼女が貴族に意地悪をされたのは今日が初めてでは無いのかもしれない。
夢を抱き、栄光に包まれると信じて疑わずに学院の門を潜り、待っていたのは貴族達による不当な扱い。
少女の瞳の中には救いを求める感情があるように見えた。
そして。
「……」
その言葉を受け、メフィルお嬢様は悪戯っ子のような表情で笑った。
「ふふっ、それは人によって違うものよ」
穏やかな表情で静かに言う。
「もしかしたらそれは部活動で頑張った末に手に入る栄光かもしれない。毎日を過ごす上で生まれる友達との友情かもしれない。悲しく辛い環境でも頑張り抜く事で身につく忍耐力かもしれない……素敵な恋人を見つけることによる恋愛感情かもしれない」
人それぞれ。
それは当たり前の事。
この学院で何を学び、何を得るのか。
それは十人十色であり、たった一つの答えなど在りはしないのだ。
「私も自分だけの『それ』を探しているの」
彼女は薄く微笑み、はにかんだ。
その言葉、あどけない仕草。
急速に場の雰囲気が弛緩したのを感じる。
メフィルお嬢様に釣られるようにして、平民少女二人の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
すかさず、お嬢様は目の前の二人にだけ聞こえるような小声で囁いた。
「さっきは綺麗事を言ったけれど、あんまりにも辛くなるようなら誰かに相談なさい。もちろん私でもいいわよ」
「あ、ありがとう……ございます」
見上げる少女に微笑みかけるお嬢様。
おそらくメフィル=ファウグストスこそが、紛うことなき貴人である、と誰もが思ったことだろう。
この場には貴族も平民もいた。
お嬢様の姿を見て、言葉を聞いて。
自身の在り方を見つめ直すだろうか。
(いや……)
そこまで人の心は単純ではないか。
だけどそれでも。
ほんの少しでも何かを感じたのは間違いが無いと信じたい。
当然固い頭の持ち主もいるだろうけれど……善性を完全に失っている様な人間など早々居るとは思えない。
皆まだ若いのだ。
僕の主人の言葉を完全に無視出来るような人間がこの場に居るとは思えなかった。
「じゃあ貴女達も練習なさい」
お嬢様の言葉は平民少女二人に対してだけではない。
周囲の人々みんなに対してのものだった。
「練習不足が原因で追試を受けることになって馬鹿にされても助けてあげないからね?」
おどけたように言うメフィルお嬢様に誰もが笑みを返しながら散っていった。
やがて僕達二人だけがその場に残される。
「お見事でした」
心からの尊敬を込めて僕は言った。
「そう?」
「はい」
だが彼女は悲しげに一度目を伏せる。
「やっぱりこういう争いというのはあるのね」
淋しげな口調だ。
僕の心も自然と痛む。
(だけど)
不謹慎かもしれないが。
僕は胸の苦しさとは別に、嬉しさも感じていた。
メフィルお嬢様の従者であることが誇り高かった。
綺麗事だと笑われようと。
安っぽい言葉だと思われようと。
この正義を愛する心と優しさ。
流石にユリシア様の娘である。
僕達サザーランド親子が尊敬を向けるに足る誇り高き主人だった。
しばし黙考した後、顔を上げたお嬢様がポツリと呟く。
「……練習しましょうか」
「そうですね」
遠目からこちらの様子を伺っていたリィルを交えて僕達も練習を始めた。
ミスト程度であればいくらでも行使することは出来るが、こういった場でクラスの仲間たちと交友を深めながら研鑽をすることは大事だし、素直に楽しいものだ。
(あ、そういえば)
そこで一つ僕は思い出した。
お嬢様の様子を伺っていた3人組。
彼女達は結局なんだったのだろうか。