第三十二話 フォルマントの絵画
花ノ宮の面々の集う部屋から廊下へと出る。
お嬢様はしばしの間、ぷんすかとお怒りでいらっしゃった。
「私の目の前で、あんな風にルノワールに言い寄るなんて!」
肩を怒らせながら、ブツブツと彼女は言う。
「全く……なんて男かしら!」
僕としてもクーガーの暴挙には不快感と恐怖しか感じなかったため、全面的にお嬢様に同意だった。
そもそも他家の使用人を主の前で口説こうなどと、無礼にも程がある。
「……ん?」
と、その時お嬢様がふと何かに思い至ったかのように足を止めた。
「……」
ゆっくりと振り返るお嬢様。
はて、どうしたのだろうか?
「……いかがなさいましたか、お嬢様?」
「いえ、その」
一度言いにくそうに口をつぐんだが、頭を振って、彼女は僕を見上げた。
「……もしかして余計なお世話だったかしら?」
なんともはや申し訳なさそうな口調だ。
「はっ?」
ど、どういう意味だろうか?
「いやだってその……メッシュ侯爵も見た目は美形だし、もしかしたら貴女もその……あ、ごめんね? もし貴女にも気があるならその、邪魔をするつもりはなくて。いやそりゃもちろん私の従者は務めてもらわなくちゃいけないけど」
チラチラと上目遣いでこちらを見ながらお嬢様は早口で告げる。
(うわわっ、なんという誤解だ!)
「ま、まさか! そのようなことは決してございませんよ!?」
こ、これはもしかしなくても、僕にもクーガーに気があるのかと勘ぐっていらっしゃるよね?
(そんなことは決してない!)
断じてない!
お嬢様は知らないかもしれないけど、僕は本当は男なのだ!
そんな変な趣味嗜好はしていない!
いやこんな格好で言っても説得力ない気がしたけど知るものか!
「そ、そう? 別に私に気を遣わなくてもいいのよ? 折角の学生生活なのだし、私は現状恋愛なんて出来そうにないけど、貴女は別に」
「い、いえ。遠慮をしているなどということはございません。クーガー様には失礼かもしれませんが、全くもってあのような方には興味ありません」
僕が断言すると彼女は興味深そうな顔になった。
「ふ、ふぅん」
「嘘じゃないですよ?」
「本当に?」
「ええ、もちろんです」
僕が真っ直ぐにお嬢様の瞳を見つめ返すと、やがて彼女は納得した様子で頷いた。
「そっか。ならよかったわ」
(ほ、本当に納得してくれた……よね?)
内心の戸惑いを隠しつつ、しばし無言で再び廊下を歩き始める僕とお嬢様。
窓から見える校庭の木々を見下ろしながら、静かに歩いていると、やがて彼女は話を変える様に「そういえば」と、楽しそうに笑った。
「それにしても……ふふっ。まさか貴女があそこまで博識なんて」
おそらく『太陽王の晩餐』を贋作だと僕が鑑定した件についてだろう。
「い、いえ。それほどでは」
「王国の歴史や地理はからっきしなのにねぇ」
「うっ……」
……返す言葉もございません。
「……芸術はその、趣味ですから」
「ふふ、そうね」
頷きつつ彼女は人の悪い笑みを作った。
「あぁ~、それにしてもシルヴィアのあの顔は面白かったなぁ。顔を真っ赤にさせて。公爵家の人間をあそこまでやり込めるなんて、流石は私のメイドよね」
「そ、そのようなつもりはなかったのですが……」
それにしても、メフィルお嬢様は随分とシルヴィア様を嫌っておいでだ。基本的に寛容な物の見方をするお嬢様にしては珍しい。
まぁ元々ファウグストス家は他の公爵家と仲があまり良くない。知らない仲ではない様子であったし、それほど驚くことではないのだろうか。
どちらにせよ、こういったお嬢様の内面にまで踏み込むものではない。
従者たる者、その辺の分別は身につけなくては。
僕は会話の流れを絵画の話に戻した。
「それに私は本物の『太陽王の晩餐』を拝見したことがありましたので。どうしても違和感を感じてしまいました。でなければあそこまで素早く贋作と見抜くことは出来なかったと思いますし」
「えっ!? 本物をっ!?」
僕の言葉にお嬢様が目を見開いた。
「はい。大陸を回っている時期に南方まで足を運んだことがあります。もちろんフォルマント王国にもです」
僕がそう言うと、お嬢様は目を輝かせて尋ねた。
「へぇ! どんな場所なの?」
「そうですね……」
当時を思い出しつつ僕は語った。
「フォルマントはなんというか……牧歌的な国でしたね。国民の多くはのんびりとした生活を送っていました。ここ数十年の間は、大きな戦も無いそうです。南方の国ですからカレーが伝統料理として根付いていて、家庭毎にスパイスが異なっているので様々な味が楽しめます。実際にフォルマントの市場では百種類を超える香辛料が手に入るんですよ。ミストリアよりも緑が豊かで、水が綺麗な国でした」
「カレーって……この前ルノワールが作ってくれた料理ね?」
「はい。ユリシア様がどうしても食べたいと仰いましたので」
思い起こすように呟くお嬢様に僕は笑みを返した。
「ふふ、お嬢様は見た目を少し嫌がっていらっしゃいましたね」
「う……だ、だってそのっ。で、でも、美味しかったわ。お母様がリクエストするのもよく分かるぐらい」
「ありがとうございます」
「……フォルマント、か」
「……」
思えばあの国ほど平和な国もなかったかも。
僕が話し終えると、お嬢様は軽く頷いた。
「そう、一度行ってみたいわね……」
「……ぁ」
しみじみと呟くお嬢様。
その姿を見て思わず僕は口を噤んでしまった。
お嬢様の立場を考えれば、そうそう簡単にフォルマントへなど行けるはずもない。
フォルマントは遠い。
旅行するとなれば、半年ぐらいは帰って来られないかもしれない国だ。
お嬢様は以前にも世界を見てみたいと仰っていたが、公爵家長女にとっては、難しい話だった。
そんな彼女を見ていて。
「お嬢様……」
いつか連れて行ってあげたいと思った。
彼女にもっと広い世界を見て欲しい。
お嬢様と共に大陸中を旅するのだ。
危険が無いように、僕が彼女の御身をお守りする。
行く先々で心に残った風景や出来事を絵に描いて残す、そんな旅だ。
それはなんと心惹かれることだろうか。
なんて素敵なことだろうか。
叶わぬとは分かっていても夢想せずにはいられなかった。
お嬢様は頭を振って、僕に話の続きを促した。
「それで……『太陽王の晩餐』は、フォルマントのどこで見たの?」
「あ、えっとフォルマント王国の有名な絵画蒐集家の方の家にお邪魔させて頂いて……その時目にしました」
「どうだった?」
「え?」
「本物の『太陽王の晩餐』は」
「それはもう、なんというか……大変素晴らしい絵でした」
流石は宮廷画家、といったものだった。チューズデイ画伯が描いた作品はどれも素晴らしいが、とりわけ『太陽王の晩餐』は格別だ。
見る者に何かを語りかけてくるような迫力があった。
見る者の心を奪うような魅力があった。
繊細な技巧が駆使されていながらも、描き手の意志が前面に押し出されているかのような勢いがあった。
僕がうっとりとした表情で思い馳せていると、メフィルお嬢様はくすくすと笑った。
「ふふっ、そう」
「あ……す、すいません。ボーッとしてしまって……」
「いえ、いいわ。貴女の顔を見ていたら、どれだけ素晴らしいものなのかは十分に分かったから」
「は、はぁ……」
い、一体僕はどんな顔をしていたのだろうか。
ちょっと恥ずかしい。
「あの贋作からはこうなんというか……オーラが感じられなかったものね」
抽象的な表現ではあったが、僕は彼女の言葉にいたく同意した。
「はい。とはいえ感覚的にあの絵を贋作だと見破ったお嬢様の感性こそが真に素晴らしいものだと思います」
「ありがと。ルノワールのお世辞は嫌いじゃないわ」
そんな話をしていたら。
向かいから歩いてくる一人の少女の姿が目に入った。
制服を見る限り、僕達と同じ一年生の女子生徒らしい。
彼女は周囲を威嚇するかのような鋭い雰囲気を身にまとっており、勝気そうなツリ目が印象的だった。
髪は真っ直ぐに伸ばせば腰まで届きそうなほどに長かったが、首の後ろ辺りで、大きめの緑色のリボンで黒髪を結っている。
軽く視線を合わせたのみで、彼女とすれ違う。
歩を一切緩めることなく、リボンの少女は僕たちが今歩いてきた方向へと消えていった。この先には部屋は一つしかない。
花ノ宮に用があるのだろうか?
(今の子は……)
「……どうしたの、ルノワール?」
「あ、いえ。なんでもありません」
「そう?」
先程の少女が纏う雰囲気。目元。それからリボン。
(どこかで見たことあるような……?)
記憶が微かに刺激される。
疑問が脳裏を掠めたのだけど。
しかしこの時の僕は、はっきりと思い出すことは出来なかった。