間話 運命の出会い
痛い。
痛い痛い痛い。
爛れた皮膚。
水膨れの痕。
赤く染まった肌が僕の視界に映っている。
涙を流す僕を尻目に、一人の男が鬼の様な形相で、口角を歪めながら腕を振りかぶった。
彼の拳が振るわれる度に、虚しい僕の悲鳴が木霊する。
何故彼は僕を叩くのだろうか。
何故彼は僕を蹴るのだろうか。
何故僕は空腹で倒れているのだろうか。
何故僕は泣いているのだろうか。
(……なんで?)
理不尽だと思った。
なんでこんな目に遭っているのだろうか。
僕は何かを間違えたのか。
何か彼に対して悪行を働いただろうか。
あの男はなんの権利があって僕を虐げているのだろうか。
薄暗い闇の中でただもがき苦しむ日々。
(あれ?)
でもある日――僕は気付いた。
「……」
そうだ。
こいつさえ居なくなれば。
もしかしたら。
「………………死ね」
こいつが消えれば僕の悩みは全て解決するんじゃないのか――?
☆ ☆ ☆
「……他には?」
目の前の男の首を絞めながら問う。
「……が、がふ」
ただ涙を流しながら必死に首を振る男には失望を感じざるを得ない。
「たったのボトル一本か」
呟きつつ、右手で掴んでいた男の首を握り潰す。
物言わなくなった残骸を一瞥し、そのまま左手で今しがた奪ったウィスキーのボトルを開けた。
たちまち鼻腔をくすぐる芳醇な香りが立ち込める。
一本しか持っていないのは期待外れだったが、この際どうでもいい。
久しぶりの酒に心は踊っていた。
「……美味い」
こんな街でもいくらか生きていると、それなりに知識がつく。
この場所はロスト・タウンと呼ばれている、ならず者たちの最後の楽園。
弱肉強食が常のクソッタレな世界だ。
外の世界にはこことは全く別の暮らしを営む人間がいるらしい。
しかしこの場所に一度落ちた人間はそうそう外の世界に出ようとは思わない。
何故ならこの場所ではどれだけの強者であっても、外の世界では逃げてきた敗北者なのだ。追いやられ、行き着いた先がこの街。
誰もが外の世界の人間達を馬鹿にしながらも、心のどこかで恐れている。
この世界では強者こそ全て。
幸いなことに自分は強者だった。
最初こそ戸惑うことも多かったが、なんてことはない。
あの男が俺にしていたことを他者にする。
ただそれだけだ。
あの時の俺は弱いから悪かった。
弱者であることこそ罪。
それがこの世界のルール。
「……」
根城にしている古びた家屋に足を踏み入れる。
この街にあって唯一の安息の場所。
ここは今や完全に俺の縄張りだ。
侵入者などまずいない。
いや……一人だけ例外がいるのだが。
足元に散らかった瓦礫の山を蹴り飛ばす。
なにはともかく腰を下ろし、薄汚れた壁に背を預けた。
ウィスキーを呷りながら、胸元に手を突っ込む。
外の世界から来たばかりの奴から奪い取った上着の内ポケットから小さな額縁を取り出した。
それは――薄汚れた一枚の絵。
「……」
ただ無言で汚らしい額縁に入った絵を見つめる。
手のひらサイズの小さな絵だった。
そこには家族と思わしき3人が談笑している姿がある。
どういうわけか周囲は明るく彩られ、見たこともないほど華美な装飾品で身を飾り、非常に美味そうな料理がテーブルの上に並んでいた。
それはとても幸せそうで。
信じられない程に豊かで。
余りにも眩しい光景だ。
「……」
まるで知らない世界。
想像もつかない別世界だ。
しかしこの世のどこかには、こんな風景があるのかもしれない。
この街を出たことがないから分からないだけで。
もしかしたらこんな風景が街の外ではありふれているのかもしれない。
この絵を見ていると無性に胸が苦しくなる。
しかし同時にどこか心落ち着く自分がいる。
相反する感情に苛まれながらも俺はただ絵を見ていた。
まるで魅せられるようにして視線を外せなくなってしまう。
酒を呷りながら、この絵を見て、虚しい幻想に酔う。
その時だけが俺にとって幸せと感じる瞬間だった。
だが。
静寂を破って足音が聞こえた。
「おはよう、ゾフィー」
「……」
「あら、無視かしら?」
「何がおはよう、だ。もう夜だろう」
目の前に現れたのは一人の女だ。
このロスト・タウンの基準で見ても、異常な女。
名をイゾルデ。
薄い黒色のガウンを身に纏い、こんな糞みたいな街であるにもかかわらず、どのような手段でか化粧品の類を入手し、自分を着飾っている。
長身でスタイルがよく、艶やかな黒髪が美しい。
大きな瞳だが瞼は常に細められており、妖艶な唇と相まって、相手を威嚇しているかのような印象を周囲に与えていた。
姿だけならば美しい女性だ。
にもかかわらず。
匂いだけがおかしい。
「ふふふ」
イゾルデは常に血の匂いがする。
常習的に人を殺す人間など珍しくもないロスト・タウンの中でも、とりわけイゾルデの匂いは強烈だった。
さらには感じる魔力も桁外れに強大だ。
その禍々しいまでの気配は悪魔さながら。
そんな女が服装だけはまるで外界の人間のようなのだから、これを異常と言わずなんと言おう。
「何しに来た?」
イゾルデはロスト・タウンのいわば王だった。
この街でイゾルデに逆らう奴は死ぬ。
以前一度だけ、イゾルデに挑んでみたが手もなく捻られた。
しかしどういうわけかイゾルデは俺を気に入っているらしく、こうして時折会いに来る。
(こちらとしては会いたくもないが)
イゾルデの匂いは酒を不味くする。
「つれないわね、ゾフィー」
そしてこいつは俺のことをゾフィーと呼ぶ。
詳しくは知らないが、大昔に実在したとされる少年の姿をした悪魔が『ゾフィー』と呼ばれていたらしい。
2回目に出会った時に、あなたはまるでゾフィーみたいね、と言いだしてからずっとこいつは俺のことをゾフィーと呼ぶ。
「……俺はルークだ」
「名前なんてどうでもいいわ」
「いいから用件を言え」
胸ポケットに絵を仕舞いながら苛立ち混じりに睨みつけるも、イゾルデはただ肩をすくめただけだった。
「なぁに? ただ貴方に会いたかっただけじゃいけない?」
「いけないな」
「どうして?」
「酒が不味くなる」
「この街で手に入る酒なんてどのみちたかが知れてるわ」
「生憎俺はそれしか知らないんだよ」
本当に用件はないのか?
訝しげに思っているとイゾルデは俺の隣に腰を下ろそうとする。
「一体なんなんだ」
うんざりしながら言った。
「だから。ゾフィーに会いに来ただけよ」
「……」
「ふふふ」
「……気味が悪い」
「あははっよく言われるわ」
笑っている。
楽しそうに。
しかし目だけは笑っていなかった。
イゾルデはいつもそうだ。
まるで自分だけは常人とは違う世界を見ているのだと言わんばかりに、目を細め尊大な態度を崩さない。
「……貴方は私のもの」
ぞくり、ときた。
この街で長いこと生きているが、ここまでの恐怖を感じるのは目の前の女だけだ。
ただ強いというだけではない。
気味が悪い。
まるで心の奥底まで見透かされているようで、瞳を直視出来ない。
得体が知れない。
普通の物差しでは測れない。
異常者の中の異常者。
それが俺にとってのイゾルデという女だった。
「どこへいくの?」
「お前に教える義理はない」
「つれないわ」
俺は無視してその場から遠ざかろうとした。
まるでイゾルデから逃げるように。
☆ ☆ ☆
ロスト・タウン。
俺はその街の入口にやって来ていた。
見上げるとそこには『ドナン』と書かれた看板が目に入る。
その看板は既に老朽化し、朽ち果てる寸前となった柱の先にぶら下がっていた。
以前聞いた話によれば、それがこの街の本当の名前らしい。
廃棄される前には『ドナン』という街であったそうだ。
しかしその街の入口には高さ10メートルを有に超えるような塀がそびえ立っている。
この場所だけではない。
この街全てを囲むようにしてその塀は存在していた。
まるで世間から隠すように。
異物を外に出さないようにするために。
「くだらない」
そう吐き捨てた。
抜け道は存在する。
そもそもこの街で暮らす人間にとってみれば、この程度の強度の壁など造作もなく破壊出来るはずだ。
『では何故外に出ようとしない?』
そう己に問いかけるも答えが出なかった。
外に出ても逃げ帰ってきた男の絶望の表情を知っているからか。
皺だらけの顔に涙を浮かべ、この街にやってきた老人の恐怖の顔を思い出すからか。
この街では強者として君臨している自分に一定の満足を得ているからか。
外に出たとして。
自分が明るい世界に否定されることを恐れているからか――。
「……ちっ」
頭を振って踵を返す。
「……なんでこんな場所に来たんだか」
言いつつ、引き返そうとした時。
封鎖された門ではなく。
少し離れた場所の塀の上に人が立っているのが見えた。
「……」
反射的に息を潜め、その人物を確認する。
(……外の人間だな)
間違いない。
あれだけ上等な服装はそうそうこの街ではお目にかかれない。
それだけではなく、その挙動や振る舞いからも、この街の人間達とは比べ物にならない気品を感じる。
鋭い気配を身に纏った長身の女だったが、イゾルデのような歪さは微塵も感じられなかった。
燃えるような紅い髪が特徴的な美しい女。
やがてその紅髪女は塀からするりと飛び降りた。
どうやら新たなロスト・タウンの住人らしい。
あれほど綺麗な女でも、こんな街にやって来るのかと思った。
その思いは失望だったのか、あるいはこんな汚い世界に生きる自分への慰めだったのか。
答えは出なかったが、下らない思考はすぐさま埋没していった。
紅髪女が身につけているものは見るからに上等だ。
もしかしたら俺が食べたことのない食料なども持参しているかもしれない。
俺は即座に紅髪女を標的にして、尾行を始めた。
幾分か歩き、紅髪女が立ち止まった。
俺は息を潜め様子を伺う。
何を思ったのか知らないが再び女が歩き始めた瞬間。
俺は奴の背後に接近した。
(完璧なタイミング!)
一瞬で接近。
そして攻撃までの無駄の無い動作は今までにも何度も敵を屠ってきたが故に身に付いた技だ。
そうして女の首筋に指先が触れようとする――しかし。
「……ぁ?」
逆に俺の首筋に鋭い痛みが走った。
視界が反転する。
(ぁ……あ? 一体何が起きた!?)
訳が分からず呆然とする間もあればこそ。
地面にいつの間にか組み伏せられていた。
「この街のガキか」
風貌通りに冷たい声音が背後から聞こえてくる。
「貴様は」
何かを言いかけた女だったが、油断がすぎる!
「お、らぁっ!」
即座に俺は地面を魔力で無理矢理ぶち壊し、そのまま奴の拘束から逃れた。
瞬時に距離をとり、再び女に向き直る。
と同時に俺は周囲に魔力光線を放っていた。
直撃すればロスト・タウンの猛者であっても吹き飛ぶような威力を込めた乱撃が周囲に吹き荒れる。
(今度こそ……っ!)
そう意気込んだが。
「ふむ、結構強いな。お前」
俺の放った全ての攻撃が雲散霧消した。
「なっ……」
絶句する他ない。
俺の攻撃は女にとってはまるで脅威になっていなかった。
そして視界から消える。
次の瞬間、平然とした様子で再び俺の背後に立っている女。
振り向き反撃を繰り出そうとするも、素早く腹を殴られ、掌底打ちが額を撃ち貫いた。
俺は無様に地面に転がることしか出来ない。
「ぐぅっ!?」
右足で俺の腹を踏みながら紅髪は俺を見下ろした。
その時俺の懐から何かが転がり出る。
考えるまでもない。
俺が懐の内ポケットに忍ばせているものなど一つしかないのだから。
薄汚れた一枚の絵。
女は興味深そうに絵を掴み上げるとしげしげと、その絵を眺めた。
やがてその絵をこちらに向ける。
「……お前のか?」
問いを無視して俺は手を伸ばす。
「かえ……せ……っ」
絞り出すように掠れた声が漏れた。
視界の先。
絵の中には光り輝く世界が広がっている。
何度も見た。
ただただ平和そうで。
幸せそうで。
俺の手が決して届かない世界。
「……お前」
女が驚いたように目を見開いた。
何故だろうか。
「……どうして泣いている?」
(は?)
言われ、ハッとした。
「……あれ」
気づけば止めどなく涙が溢れていた。
(なん、で……?)
死ぬのが怖いから?
負けて悔しいから?
体が痛むから?
(……違う)
瞳に写っているのは、美しい平和な絵画だけではない。
それを持っている人物。
紅髪女が大きな瞳を真っ直ぐに俺に向けている。
「……」
綺麗だと思った。
美しい髪。
端正な顔立ち。
凛とした佇まい。
身につけた物も派手すぎず、見事に自身の美しさを引き立たせていた。
何もかもが自分とは違う。
きっと。
きっとあの絵の中の世界は。
目の前の女のような人間に相応しいのだろう。
俺のような薄汚れた人間はどう考えても不釣り合いで。
憧れることすらおこがましい。
愚かな自分に笑みさえ溢れる。
(なんかもう……どうでもいいや)
やがて俺は力なく腕を下ろした。
「お前……」
「……殺してくれ」
思考は遅れてやってきた。
今のは俺が言ったのか?
再び無表情に戻った女は俺を見下ろしている。
「……死にたいのか?」
「……わっかんねーよ」
多分。
こんな惨めな世界で生き、朽ち果てていくくらいならば。
目の前の美しい女に手を下して欲しい。
そう願ったんだ。
こんなクソッタレな街で生きる者にとっては、それはひどく幸せな最後だと思えた。
だが。
「お前、家族はいるか?」
全く意味の分からないことを奴は尋ねた。
「……?」
なんだ?
急に何の話を……。
「答えろ。家族はいるか?」
「……いない」
「そうか。では友人は?」
「この街では自分以外誰も信用出来ない」
「そう……そうか。では街の外に出たことは?」
「……ない」
「ふむ」
なにやら思案顔で考え込むこと数秒。
紅髪女が言った。
「外の世界を見てみたくはないか?」
えっ?
「なにを……」
「お前はなかなかどうして強かったしな。まぁ私の旅にもついてこられるだろう」
「待て……待てよ、どういう」
「私は今大陸中を旅していてな。この街にもその旅の一環で立ち寄った。ロスト・タウンというものを一度見てみたくてな。ここは特にひどい場所だと聞いていたし」
「……」
そう。
そうか。
この女はロスト・タウンに逃げてきたわけではないのか。
「大陸中を旅する……」
「そうだ。まだ私の知らない食べ物、知らない芸術、知らない魔術、知らない歴史、知らない土地。未知の文化と人間に出会うために私は世界を旅している」
僅かに目を輝かせながら語る女の言葉を聞いて。
俺の胸が確かに高鳴った。
「なに、一人だと少しばかり道中退屈でな。ここらで連れ合いが欲しかったところだ」
「……なんで俺なんだ?」
今しがた自分に刃を向けてきたガキを連れて行こうとするなんてイカれてる。
しかし奴は俺の言葉を無視して言葉を続けた。
「ほら、大事なものなんだろう? 取り上げてすまなかったな」
そう言って俺に手渡したのは汚らしい一枚の絵。
素早くそれを手に取り、俺は懐にしまった。
「その絵だけが外の世界の全てじゃないぞ」
まるで俺の心を見透かしているかのような言葉だった。
そしてどうしようもないほどに。
俺の心は惹かれてしまう。
奴は俺に手を差し伸べながら言った。
堂々と。
覇気に満ちた瞳で俺を見つめながら。
「どうだ? 一緒に世界を見に行かないか?」
「っ!!」
それは今日初めて。
いや。
生まれて初めて見た女性の優しい微笑みだった。
何故だろうか。
視界が。
視界がどんどん歪んでいく。
「……」
「なんだ、泣き虫な奴だな」
「ルーク」
「なに?」
「名前」
照れ隠しで、ぶっきらぼうにそう言うと。
女は笑いながら名乗った。
「そうか。私の名は――」
☆ ☆ ☆
目が覚めた。
「う~ん、良い天気。入学式日和かな」
外は快晴。
そして僕の気分も晴れやかだった。
「久しぶりにあの頃の夢を見たな……」
昨日お嬢様に昔の話をしたからだろうか。
ぼんやりとそんなことを思いながら着替え始める。
「あ、いけない。メイド服じゃないや」
ついいつもの癖でメイド服を手にとっていた僕は、真新しい学院の制服に目を向けた。
それは白を基調としたシンプルなデザインのセーラー服だ。胸元の赤いリボンが若々しい可愛らしさを演出しており、白地の上着と紺色のプリスカートが絶妙なコントラストを奏でている。細部の作りも丁寧で上品な雰囲気を醸し出していた。
「うーん、昨日も着たけど……」
男としてこんなの着るのどうなの? って感じだ。
「いやいや。今の僕は女の子、今の僕は女の子」
そう念じながら着替えを済ませる。
鏡で身だしなみをチェックし、僕は部屋の扉に手をかけた。
まだ登校するには随分と早い時間だったが、これから屋敷の皆の朝食の準備をしなければならない。
一度だけ振り返る。
ベッドの脇の小さなテーブルに一枚の絵があった。
美しい家具達に囲まれたその絵の額縁はひどく汚らしい。
額縁の中身の絵にしたってそうだ。
今ならばあの絵が、素人が描いた作品だとわかる。
技術が稚拙だし、構図も下手くそだ。
だけどそれでも。
僕にとっては大事な宝物だった。
「いってきます」
果たして誰に向けてのものだったのか。
自分でもわからなかったが、僕はその挨拶を最後に部屋を出た。
第1章 公爵家の事情 ―完―
※第2章開始まで少しだけ時間を頂きたいと思います。第2章以降の詳しい投稿日程は活動報告に載せておきますので、よろしければ御一読下さい。