番外編 お昼寝するよっ!
ラトが僕の部屋で穏やかな寝息を立てている。
お風呂から上がると、どうやら眠くなってしまったらしい。
「……ふふ、気持ちよさそうに寝ていますね」
そう言いながらラトをベッドの脇から見下ろすイリーさんの表情は普段に比べてどこか大人びて見えた。
年下のラトと接することでお姉ちゃんらしさが芽生えたのだろうか。
「そうですね」
穏やかな気持ちで相槌を打ちながら僕はゆっくりとポットを傾けた。
流れ出す紅茶が窓際から溢れた陽を反射し、キラキラと輝いている。
琥珀色の液体をカップに注ぎ、その内の一つをイリーさんに手渡した。
「砂糖は二つでよろしいですか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
受け取り、イリーさんが口をつける。
「ふふ、美味しいです」
そう言って微笑む彼女に僕も笑みを返した。
「それはよかったです」
「……はい」
僕も自分のカップに紅茶を注ぎ、一口。
「はぁ」
落ち着くなぁ。
天気もよく、陽気な昼下がり。
椅子に腰掛け、穏やかな気持ちで紅茶を飲んでいる時間のなんと平和なことだろう。
僕がぼんやりと太陽を見上げていると、イリーさんが小声で呟いた。
「あの……」
「はい?」
「あ、その……いえ」
何やら言いづらそうに口ごもるイリーさん。
(さっきの話かな……)
お風呂場で話してくれたこと。
彼女の様子から察するに、もしかしたらイリーさんはその話を聞いて欲しいのかもしれない。
「そう言えば……先程大浴場で聞いたことですが……イリーさんとアリーさんは本当の姉妹ではないのですか?」
だから僕から、話題を振った。
もしも僕の勘違いで、この話題にイリーさんが乗り気でなければ、すぐに話を打ち切ればいい。
そう思い口を開いたのだけど……どうやら図星であったらしい。
「そ、その話のことで。さっきはその、急に変な話をしてしまってすいません……」
まずイリーさんは伏し目がちに頭を下げた。
しかし僕からすれば彼女から謝罪を受ける理由が無い。
「いいえ。それだけイリーさんも私に心を許して下さるようになった、と。そういう風に考えると嬉しくもあります」
これは本心だ。
イリーさんの様子、話の内容から察するに、この話はそれほど気楽なものではないと思う。
それでも僕に話してくれるのであれば、彼女が僕に僅かでも心を開いてくれている証ではないのか。
僕が微笑み返すとイリーさんがぼんやりと呟いた。
「……やっぱり」
「え?」
「ルノワールさんは……似ています」
(似ている?)
「え、っと……」
誰に、だろうか?
僕が首を傾げると、イリーさんはポツポツと語りだした。
「……私とお姉ちゃんは昔孤児院にいたんです」
これまた初めて聞く情報だった。
彼女は薄くはにかみながら、僕の目を見つめている。
「そこにいたマザーに、ルノワールさんは……よく似ているんです」
(昔孤児院に、か)
「……その方は今?」
「もういません」
「え?」
「昔孤児院で感染症が流行って……その時にマザーは亡くなりました」
悲しげな表情で彼女はそう言った。
「……ぁ」
なんと声をかければ良いのか、わからない。
僕は黙って話を聞くことしか出来なかった。
「あの時は周囲の人達も感染症の噂を聞いたからか、急に孤児院に対して冷たくなって。誰も助けてくれなくて。すごく怖かったのを覚えています」
まるで遠い過去を見つめているかのように細められた少女の瞳。
当時を思い出しているのかイリーさんの声は微かに震えていた。
「今考えれば、自分達も感染することが怖かったのは分かります。救う手立ても無しに無闇に孤児院に近づけば、犠牲者が増えるだけですし。だけどあの時は、必死に私達の看病をしながら、周囲に助けを求めるマザーを傍でずっと見ていて……なんで誰も助けてくれないのだろう、って思いました」
「……」
「しばらくしてようやく救いの手が差し伸べられました。私とお姉ちゃんだけは運良く、大事に至る前に奥様に助けて頂いたんです。片田舎の感染症の話を聞きつけて対処に乗り出して下さって。行く宛の無くなった私たちを御屋敷にも住まわせてくださって……本当に感謝しています」
なるほど……ユリシア様が助けたのか。
(だけど生き残りは二人だけ……か)
「そう、なんですか……」
「マザーはとても優しくて。いつも笑顔で私達みたいな孤児に手を差し伸べてくれました。すごく温かい心を持った人で……」
そこで少し言いづらそうに口ごもるイリーさん。
「その、ルノワールさんの方が綺麗なんですけど……なんというか、雰囲気が。マザーにとてもよく似ています」
照れくさそうに、はにかみながら彼女は言った。
(そうか……)
なるほど、これで合点がいった。
元々イリーさんは極度の人見知りであるという話だった。
しかしどういうわけか、僕に対しては初めから友好的な態度で接してくれていた。僕と話している時のイリーさんに人見知りの気配は微塵も無い。
孤児院で昔イリーさんの世話をしていたマザーと僕が似ていたからだったのだ。
「今日久しぶりに……自分よりも小さなラトちゃんと遊んでいて……孤児院にいた時のことを思い出しました。孤児院には私みたいな子供達がたくさんいましたから」
声が更に震え、彼女の瞳に涙が滲んだ。
「……イリーさん」
「あの時は私もラトちゃんみたいにはしゃぎまわっていて……それでお姉ちゃんに注意されていて」
必死に嗚咽を堪えながら呟いた。
「……マザーが、見守っていてくれました」
イリーさんの目が僕に向けられる。
彼女は今きっとマザーの姿を僕に重ねて見ている。
マザーはきっと……今日の僕のように子供達を見守っていたのだろう。
「ご、ごめんなさい。きゅ、急に思い出してしまって……」
気付けば、僕は自然と一歩を踏み出し、イリーさんをそっと抱きしめていた。
「……る、ルノワールさん?」
「よしよし」
そのままゆっくりと優しく髪を撫でる。
「あ、あの」
彼女はまだ幼い。
時には今のように昔を思い出し、悲しみにくれることだってあるだろう。
そんな時、孤児院のマザーなら。
泣いている子がいたら。
こうやって抱きしめてあげたのではないだろうか。
僕はマザーという人に会ったことはないけれど、なんとなくそう思った。
「マザーはもういません」
「え……」
「辛いことかもしれませんが……死んでしまった人は帰ってはきません」
出来るだけ優しく。
諭すように言葉を紡ぐ。
「だけど、もしも辛いことがあったら、悲しいことがあったら。こんな私でよろしければいつでも甘えてくださって構いません」
「……」
「私はマザーほどの人格者ではありませんが」
「そんなこと……」
それに。
「孤児院にいた時の家族はもういないかもしれませんが……今は新しい家族がイリーさんの周りにはたくさんいます。皆さんのことはお好きですか?」
彼女が日頃屋敷で見せてくれる笑顔。
あれが強がりだとは思えない。
過去の美しい思い出に浸ることもあるだろう。だけど普段のイリーさんも心から笑ってくれている筈だから。
「はい……大好きです」
その言葉を聞いて僕の心も仄かに温かくなった。
「なら、大好きな今の家族と一緒に幸せに生きる努力をしましょう。人生を楽しみましょう」
人生を謳歌することが出来なかった他の子供達の分まで。
「それこそがマザーの望みだったのではないでしょうか」
彼女は幸せに生きる権利がある、いや、権利だけじゃない。
きっとたくさんの人達に幸せに生きて欲しいと望まれているはずだから。
「はい……はい……」
僕の言葉に泣きながら頷くイリーさん。
誰だって時には弱音を吐きたくなるだろう。
感情が高ぶり、どうすればよいのか分からなくなる時もあるだろう。
未だ大人に成りきれていない自分如きが諭すなど笑い話かもしれない。
だけど少なくともイリーさんよりは、ほんのちょっぴり僕は人生の先輩だ。
だから。
「それでも時に我慢出来なくなった時は……私がお話を伺いましょう」
僕は笑顔で言った。
急な話故に僕の言葉もどこか薄っぺらいものになってしまったと思う。
少しでも彼女の気休めになっただろうか。
果たして僕の言葉は彼女に何かを伝えることが出来ただろうか。
彼女は大きな瞳いっぱいに大粒の涙を溜めている。
瞳を伝う涙を気にせず、イリーさんは精一杯の笑顔で元気に言った。
「はいっ」
それは僕が屋敷に来てから目にしたイリーさんの笑顔の中でもとびきり素敵なものだった。
☆ ☆ ☆
「まぁ……」
屋敷へとラトの父親が迎えに来た時刻。
ラトを見送るためだろう、メフィルお嬢様もアトリエから出ていらっしゃり、私と共に未だに部屋から出てこないルノワールさん達を迎えに来たのだが……。
「気持ちよさそうに寝てるわね」
隣りでお嬢様が呆れ混じり、しかし声音は優しく呟いた。
「そうですね」
ルノワールさんの部屋のベッドの上では2人の少女が気持ちよさそうに寝息を立てていた。
ラトさんを抱きかかえるようにしてイリーさんが眠っている。
「まるで本当の姉妹みたいね」
楽しそうにお嬢様が笑い、思わず私も笑いそうになった。
しかし従者たる者、約束の時間を忘れるとは何事か。
顔を引き締め、私はメイド長としてルノワールさんに声をかけた。
「ルノワールさん」
私が声をかけると彼女はびくりと身を強ばらせた。
「も、申し訳ありませんっ。その、起こしてしまうのが忍びなくて……」
まぁ……気持ちは分かりますけれども。
「ラトさんのお父様がお見えです」
視線をラトさんへと向けて私は言った。
「ラトさんを起こさぬようにそっとおぶってあげなさい」
誰もが小声で話している。無論、私も。
なんだか妙におかしな気分だ。
「す、すぐに行きますっ! ラト、ごめんね……」
謝りながら優しい手つきで少女の身体を持ち上げる。
「うにゅ」
「で、では門へ向かいます」
「そうしてください」
隣りで騒がしくしていたからだろう。
イリーさんも目を覚ました。
「あれ、ルノワールさん?」
「あ、起こしてしまいましたか。ラトさんのお父様がお見えになったそうですので、今から門へ向かうところです。イリーさんもいらっしゃいますか?」
ルノワールさんの言葉に彼女はすぐさま頷いた。
「はい、行きます」
☆ ☆ ☆
「ほ、本日は本当にお世話になりました!」
相変わらず顔を強ばらせたラトの父親が豪快に頭を下げた。
現在ラトは僕ではなく父親に背負われている。
「そんな。お気になさらないで下さい」
僕が笑顔で告げるとお嬢様も頷いた。
「ルノワールの言う通りですよ。機会があればまたどうぞ」
「いやしかし、なんというか……」
未だに恐縮仕切りの彼にお嬢様は言った。
「立場を気にするな、とまでは言いませんが……同じ人間でしょう? 悪事を働いた訳でもありませんし……礼儀を超えて、そこまでへりくだってはいけません」
「メフィル様……」
お嬢様が僕とイリーさんに振り返って言った。
「ほら、イリー」
促され一歩前に出たイリーさん。
彼女は背負われたラトに向かって囁いた。
「……またね、ラトちゃん」
起こさないようにそっと告げた言葉。
ラトは未だに目を閉じたままだったけれど、イリーさんの声がきっと届いたのだろう。
彼女は寝息混じりで小さく呟いた。
「ぅうん……また、ね」
目を瞑ったまま、ボソボソと。
寝言のような彼女の呟きを聞き、その場にいた全員が微笑んだ。
「……ぁ」
自分の娘の安らかな寝顔を見て、ラトの父親は一度頭を振った。
再び僕達に顔を向けた彼はどこか吹っ切れたような、晴れやかな顔をしていた。
「……きっと、また来ます」
その言葉を最後に去っていく親子。
こうして僕達の小さな客人は帰途についた。