第二百五十話 泥沼の戦場
「……ぁ」
突然の光と共に弾けた球体の中から、戦女神が降り立った。
「……ルノワールっ!!」
その瞬間。
愛しき従者を見つけたメフィルは無我夢中で駆け出していた。
他には何も見えない。
目を丸くしているルノワールにメフィルは思い切り抱きついた。
「お、お嬢様……っ?」
「よかった……貴女が無事で」
その温かな温もりを全身で感じるように。
どこへも彼女が行ってしまわないように。
「……本当に……本当に良かった」
メフィルはルノワールを抱きしめる。
「……ぁ」
おずおず、と。
初めは戸惑っていたルノワールも華奢な肩に手を回し、最愛の主人を抱きしめ返した。
「……馬鹿、な」
一方、球体の中から出て来たのが一人だけだった事実に、ハインリヒは大きく動揺していた。
「レオナルドは……レオナルドはどうした……!?」
声は震えている。
これまで冷静な表情を崩す事の無かった皇帝は、初めて年齢相応の顔を見せた。
誰にも負けない強者だと。
信仰に近い信頼を置いていた、あのレオナルドがまさか。
「負けた、というのか?」
信じられない。
目の前の光景が。
自ら作り出した筈の魔術の球体の中から、どうしてあの厚顔不遜な覇王が出て来ないのか。
あの人を食ったような笑みをもう一度見せて欲しい。
あの全てを見透かしたような瞳はどこだ。
自分が気づいていないだけで本当はどこかで高笑いでもしているに違いない。
うろたえる皇帝は、闇雲に周囲を見渡した。
しかし、何も見えるものはない。
先程から急激に大きくなった戦場の怒号だけが皇帝の耳朶を打った。
茫然とした表情で膝を付くハインリヒ。
少年は何事かをぶつぶつと呟きながら大地を見つめている。
「こいつは一体、何事だ?」
ルノワールの元にやって来たドヴァンが戦場の様子を確かめながら言った。
その顔には何やら怪訝な表情が浮かんでいる。
戦鬼は少女にレオナルドとの勝負の趨勢については尋ねなかった。
この状況とルノワールの表情を見れば、結果がどうなったのかは明らかだ。
それよりも気になる事がある。
「妙な光が降り注いできたかと思えば……」
終焉に近づいていた筈の戦場が再び熱気に包まれた。
状況を簡単に説明したドヴァン。
彼の話を聞くなりルノワールは思い当たる節があったのか、目を見開いた。
「まさか……あの時の最後の……」
レオナルドの死の間際の言葉と、不可思議な力を思い出す。
(あの時の魔術の影響……?)
あの思わせぶりなレオナルドの台詞。
見た事も聞いた事も無い力ではあるが……可能性としてはそれしか考えられない。
「あの中で何があった?」
「恐らく……それはレオナルドの魔術です」
かいつまんで要点のみを説明するルノワール。
少女の話を聞いていたドヴァンは納得したように頷いた。
「なるほど、俺が先程見た光がまさにそのレオナルドの残滓というわけか」
「確証はありませんが……」
「状況から考えれば間違いあるまい」
最後までレオナルドという男は厄介の種を押し付けて来るようだ。
どうやらこの周辺に居た人間、そして主だった指揮官クラスには効いていないようだが、大部分の将兵達が我を失ったかのように戦いに明け暮れている。
(一定以上の魔力抵抗があれば、無効化出来る、ということ?)
いや、よくよく見れば――。
「帝国の人間は……逃げている?」
「……そのようね」
ふらり、と。
黒衣を身に纏ったイゾルデが、ゆるやかに大地に着地する。
彼女の頬には返り血がついていたが、イゾルデ本人は気にも留めていないようだ。
この場に彼女が居る、ということは――。
「イゾルデ……あの」
ルノワールの懸念を察したイゾルデが頷きを返す。
「ジョナサンは仕留めたわ。マリンダ=サザーランドも……まぁ無事よ。しばらくは動けないでしょうが」
「そ、そっか……」
その言葉を聞いて思わずルノワールは安堵の吐息を吐いた。
母の安否が気掛かりだった少女にとって一つ、胸のつかえが取れた心地だ。
それにしても、あのジョナサンを難なく仕留めた、とは……やはりイゾルデという魔女の力は規格外の様だ。
今のルノワールでは、そう簡単にはいかないだろう。
いやそれどころか……客観的に見て、まだまだジョナサンの方が実力が上であることは間違いない。
「ありがとう、イゾルデ」
笑顔で感謝を述べるルノワール。
その天使のように愛らしい笑みを見て、イゾルデも柔らかく微笑んだ。
「貴女の頼みだもの。気にしなくていいわ」
では、残す問題は。
「この状況……どう動くのかしら?」
最優先目標としていたレオナルド一行は既に討ち果たした。
最大の障害が消えたのだ。
今日の戦場は兎も角として、やがて戦争は終結へと動き出すだろう。
レオナルドさえ居なくなれば、無理にでも戦争を継続させようとする程メフィス帝国に余裕があるとは思えない。
自分達は今回、どちらの陣営にも明確に味方をしている訳ではない、異端の存在だ。
無論、レオナルドと敵対している以上はメフィス帝国の敵と言えるが、それにしたってミストリア王国軍と連携している訳ではない。
遊撃部隊として介入し目的を果たした以上は……撤退するのが道理だろう。
だが。
「この、状況……」
戦場の様子は凄惨を極めていた。
もはや戦争などではない。
ミストリア王国は勝利した。
既に聖獣の脅威も去り、レオナルドもいない。
にも拘らず、我を失ったミストリア軍は、完全にメフィス軍を虐殺する徒と化していた。
(このまま放っておけば……)
更なる被害が広がるだろう。
何もメフィス帝国軍が悪人という訳ではない。
諸悪の根源が滅んだ以上、もはや戦争に駆り出された彼ら自身も被害者であると言ってもいい。
「……」
ぎゅっと拳を握り締めるルノワール。
彼女はメフィルの傍で眠るアトラの顔を見つめていた。
先程の衝撃の影響か、アトラはゆっくりとその瞳を開く。
いまだに寝ぼけ眼のままだったが、その瞳はじっとルノワールを見つめ返していた。
(アトラの故郷……そして……)
今は亡き、勇敢なるキース=オルフェウスの故郷。
あの帝国軍兵士達の中にはきっと、かつてキースと肩を並べた僚友達も居るのだろう。
(このまま逃げ出して良いのか?)
レオナルドの毒牙に掛かり、繰り広げられている悲劇を座して見守るだけで良いのか。
それでキースの魂は……報われるのか。
(だけど……)
ではどうする?
ミストリア王国軍を相手取って自分達が戦うのか?
(それは……)
ミストリア王国への叛乱に他ならない行為だろう。
例えどのような理由があろうとも。
ここでもしも自分達がミストリア王国軍へ害を為せば……。
「……」
葛藤する従者を見つめていたメフィルはゆっくりと深呼吸をした。
彼女には、自分の愛する人が何に悩んでいるのかが手に取るように分かった。
「ルノワール」
メフィル=ファウグストスは告げる。
ミストリア王国貴族としてではなく。
この大陸に生きる一人の人間として。
「ミストリア王国軍を止めましょう」
彼女の眼差しに迷いは無い。
主人の言葉を聞いて、従者はすぐさま頷いた。
「っ……分かりました。では、お嬢様とアトラは安全な場所までお逃げ下さい」
叛乱と見做される事になろうとも。
せめてメフィルとアトラの両名だけは汚名を着ることなく逃がさなければならない。
しかしルノワールの想いとは裏腹に、メフィルは頭を振った。
「いいえ、違う。そうじゃない」
「……ぇ?」
「私も一緒に行くわ」
流石にルノワールは言葉を失った。
「お、お待ちください、お嬢様。事は混乱を止める、という意味だけではありません、ここでミストリアに手を出すという事は……」
自分だけならば一向に構わない。
だけどメフィルまで巻き込む訳にはいかない。
「……王国への反逆者になってしまう?」
「っ! そ、そうです……メフィルお嬢様はミストリア王国の公爵家です。それも次期当主なのです。そんな貴女がミストリアに対して……」
「じゃあ貴女は自分だけ反逆者になるつもりだったの? それでこれからどうやって私を守るつもりだったの?」
「……っ、そ、それは……」
だからルノワールは悩んだのだ。
この混乱を収めたい想いはあるものの、それをしてしまえば、これから先ミストリア王国で生きていく事が難しくなってしまうかもしれない。
「この戦場は間違っている。これ以上無意味に死んでいく人を増やしたくない。もう戦争は終わった筈なのだから」
そう言いきる彼女の瞳は力強い光を放っている。
時折見せる公爵家に相応しい威厳を伴っていた。
「お嬢様……」
「別にいいじゃない、反逆者になったって。それで自分が正しいと思う事が出来るのならば。ここで逃げれば必ず後悔するわ」
軽く言う彼女ではあるが、決してそんなに生易しい事では無い。
無論、ユリシアが人事を尽くしてくれるだろうが、それとてどうなるか。
特に今は戦争で王国そのものが混乱の最中に在るのだ。
最悪の場合――国を追われる可能性は十分に在る。
「もう帰って来られないかもしれませんよ。本当に……その御覚悟はお有りですか?」
脅す様にルノワールは言う。
しかし対峙する主人は些かも動じなかった。
朗らかに、そして胸を張ってファウグストスの淑女は告げる。
「構わない。貴女さえ傍に居てくれるならば」
そう言ってメフィル=ファウグストスは微笑んだ。
(あぁ、ひどい主人だ……)
なんという殺し文句だろうか。
これでは逆らえる訳も無い。