番外編 お風呂に入るよっ!
「ねぇねぇ、この子のお名前はなんていうの?」
「ルビー、っていうのよ」
屋敷の庭で少女二人が猫を囲んではしゃいでいた。
「るびい?」
「うん、そう、ルビー」
「ふぅん、るびい」
食事の後。
比較的に歳が近いこともあってか、食堂へとやって来たイリーさんを見て、ラトが凄い興味を示した。
近いといってもイリーさんの方が歳は上だけれど。
イリーさんは人見知りであるということもあり、最初こそ自分に詰め寄って来るラトに戸惑っていたが、押しの強いラトを相手に流されているうちに、すぐに仲良くなった。
そんな二人の様子を見届けたメフィルお嬢様はアトリエに籠ってしまわれ、現在ここには僕とイリーさん、そしてラトのみが居た。
アリーさんはイリーさんの分まで午後の仕事を引き受けている。
なんでも彼女は妹に同年代の友人を作って欲しいそうだ。
まぁラトの幼さを考えると同年代、とは言えないかもしれないけれど。
確かに屋敷では最年少であるし、歳の近い人間と接する機会の少ないイリーさんにとってラトと遊ぶことは良い経験になるだろう。
「ねぇねぇ、あれはっ!?」
「あ、ま、待って……っ」
やはりイリーさんは少しばかりぎこちない。
屋敷の人間に対してはどこまでも快活であるが故に、なんだか不思議な感じだ。
「おお……おっきい木」
「この木は……って危ないよっ」
「木登り得意なのっ!」
「え、えぇ~っ」
その樹は奇しくも僕とイリーさんが初めて出会った日にルビーが登って降りられなくなった木だった。
今はルビーではなく、ラトが登っている。
「よいしょ」
おぉ、自分で得意というだけある。
彼女は小さな手と足を器用に木の節々に引っ掛けながら、するすると頂点まで上り詰めた。
「うわぁ~っ、高い!」
「あぶ、危ないよっ」
「大丈夫大丈夫っ! イリーちゃんもおいでよ!」
笑顔で手を振るラト。
彼女の嬉々とした表情を見ている限り、イリーさんの言う事を聞く気はないようである。
ラトを注意しても仕方が無いと悟ったのか、イリーさんが困ったような視線を僕に向けた。
「ルノワールさぁ~ん……っ」
「万が一のことがあれば私がお助けいたしますから、御安心下さい」
と、僕が言った時。
「あ」
「あ」
「あ」
立ち上がったラトが盛大に足を滑らせた!
綺麗に空中で後転しながら落下していく少女。
「ら、ラトちゃんっ!?」
手を口に当て叫ぶイリーさん。
すかさず僕は一瞬でトップスピードに乗り、大地を蹴り上げ跳躍、落下していくラトを両手で受け止めた。
以前の猫の時と同じく風魔術を使いながらゆっくりと降下していく。
「び、びっくりしたぁ」
目を丸くしたラトが呟く。
僕はラトを抱いており、驚き顔のイリーさんが近くまでやって来る。
まるでイリーさんと出会ったときの再現だ。
「……子猫よりは重いですね」
僕が言うと、イリーさんも思わず微笑んだ。
しかし彼女はすぐに腰に手を当て、強い口調でラトを叱った。
「だから危ないって言ったのに!」
イリーさんが怒っていた。
普段は怒った顔など見た事が無いだけに、彼女のこの反応には僕も驚いた。
「う……ごめんなさい」
今しがた危険な目に遭ったばかりだ。
ラトも反省しているのだろう。
彼女はしょんぼりと俯いた。
怒っているとは言っても、イリーさんも根は優し過ぎる少女だ。
ラトにこのような神妙な反応をされてしまっては、強い態度を維持することなど出来はしない。
「もう」
お姉さんのような口調でイリーさんが言う。
「怪我したら家族が心配するんだからね?」
優しい眼差しで見下ろすイリーさん。
慈愛に満ちたその声に、ラトも素直に頷いた。
「うん」
微笑み合う二人の少女。
「じゃあ今度は危なくない遊びをしましょう」
「うんっ!」
☆ ☆ ☆
しばらくの間、元気に二人ははしゃぎまわっていた。
ここには物騒な気配も襲撃の恐れも何もない。平和な時間だ。
僕も無邪気な二人と傍で一緒に時間を過ごしていて、とても穏やかな気分だった。
とはいえ流石に少し疲れたのだろう。
やがて二人は静かになった。随分と汗もかいている。
ラトに至っては頬が土色になっていた。先ほど走り回って転んだ時に土が跳ねたのだ。
突然イリーさんが思いついたように言った。
「あっ! じゃあお風呂に入りましょうか」
さも良い提案だ、という様子で彼女は手を叩いた。
(……ん?)
そして僕は少しばかり嫌な予感がした。
「今日は午前中に私が大浴場の掃除をしたんですよ」
楽しそうに彼女は僕とラトに話しかける。
(…………んん?)
なんだろう、この感覚。
「そ、そうなんですか」
イリーさんの言葉を聞いてラトが再び目を輝かせた。
「お風呂入りたいっ!」
「あ、本当?」
「うん、おっきい?」
「おっきいよ~っ。泳げるぐらい!」
「そんなにっ!」
二人の中では既に決定事項らしい。
「あ、あの、じゃあルノワールさんも一緒にその……どうですか?」
(………………んんん??)
「へ?」
☆ ☆ ☆
これは許されることなのか?
いやでもまだ二人は子供。
邪な感情など沸き起ころう筈もない。
いやしかし本当は僕男な訳で……や、やっぱり許されるわけないよ~っ。
ファウグストス家には各自の部屋にシャワールームが備え付けてあるが、それとは別に大浴場も存在する。
一度に10人以上がお湯につかっても余裕があるほどに大きい浴槽があるのだ。
普段の僕はこの場所を使うことは無い。というか使ったことはない。他の誰かがやって来るかもしれないのに使える訳がない。
しかし僕は現在この場所にいた。
「ルノワールさんと一緒にお風呂入るの初めてですね!」
二人の少女と一緒に。
「あ、あの。やはりお二人で入られるのがよろしいでしょう。私はその、汚れてもいないですし」
冷や汗をかきながら僕がそう言うと。
「えぇ~~っ! 一緒がいい!」
ラトが駄々をこねる。
彼女はどうしても僕と一緒がいいらしい。
この押しに流され脱衣所までやって来てしまった。監視の役目もある以上、同行するのは僕の義務だ。
いやしかしこれはどう考えても許されない。
倫理的に最低すぎる行為だ。
何を今更、と思ったりもしたけれど、少なくともこれは絶対に駄目だ!
「一緒に入るの嫌なの?」
「うっ……」
やめてラトそんな目で僕を見ないで!
そしてイリーさんも「御迷惑だったみたい……」といった感じの悲しい顔をしないで!
なにこれ、お風呂に入っても入らなくても罪悪感で押しつぶされそうだよっ!
「ウルウル」
「ら、ラトちゃん……ルノワールさんに迷惑だから……」
こ、こうなったら!
「わ、わかりました……」
意を決して僕は言った。
「一緒に入る?」
「ええ、すぐに行きますのでお先にどうぞ」
そう、一緒には入る。
だけど僕は一つの誓いを立てた。
☆ ☆ ☆
「あの、ルノワールさん?」
「なんですか、イリーさん」
「いえその……」
「なんでも仰ってくださってかまいませんよ」
「で、では……何故目を瞑っているのでしょうか?」
僕は二人が浴場へと入った後に、衣服を脱ぎ払い、共に浴場へと足を踏み入れた訳だが、一度も目を開いていなかった。
「修行です」
きっぱりと言い切った。
「しゅ、修行……ですか?」
「はい、修行なんです」
イリーさんは困惑していた。
それはそうだろう。
どうしてお風呂に目を瞑って入る事が修業なのか。
僕だって意味が分からない。
「は、はぁ」
でも、それでも。
僕は二人の裸を見ない。絶対に見ない。
女体化して屋敷で暮らす以上、これだけは絶対に守らねばならない境界線だ。
ここを曲げる訳にはいかない。多少不自然であっても構わない。
なに、大丈夫だよ。
数多の戦場で培ってきた僕の気配察知能力と空間把握能力を駆使すれば、目を閉じた状態で入浴することなど造作もない。僕を甘く見るなよっ!(?)
「すご~い! おっきいお風呂~っ」
ラトは屋敷の大浴場に大興奮の様子だった。
「バシャバシャ」
「こ、こら泳いじゃ駄目ですよ、ラトちゃんっ」
「あははっ。泳げるって言ったのに~」
「いやあれは比喩でっ」
「ひゆ? なにそれ~っ」
楽しそうな少女達の声が聞こえてくる。
姿こそ見えないが、無邪気な子供は声だけでも僕の心を明るくしてくれる。
(はぁ……でも確かにこの大浴場はすっごく気持ちいいかも)
初めて入った訳だけど、やっぱりシャワーで済ませるのとは全然違うなぁ。
僕って結構な風呂好きだし。
今後は機会を見て、誰も居ない時――例えば全員が風呂に入った後に、風呂掃除も兼ねて最後にお風呂に入るというのはどうだろうか。
誰の裸も見る恐れが無いのであれば、憚る事もない……のかな。
(ユリシア様とちょっと相談しよう)
なんてことを思いながら僕が湯船を堪能していると。
二人の少女が急に静かになった。
(ん、あれ?)
僕が疑問符を頭の中で浮かべていると、陶然とした溜息が聞こえてきた。
すぐ傍から。
しかも二人分。
「「はぁ~~っ」」
「ん?」
何やら二人共僕の方を見ている?
なんだろうか?
まさかこのタイミングで女体化が解けているわけでもない……よね?
「すっごく綺麗ですね……」
思わず、といった様子でイリーさんが呟いた。
(? 何がでしょう?)
ゆっくりと彼女の指先が僕に向かって来て。
「ひゃっ」
僕の肩を撫でた。
というか変な声出ちゃった。
「あ、ごめんなさい、つい……」
「い、いえ、構いませんが」
流石に僕は慌て気味に返事をした。
「私もいつかルノワールさんみたいになれるでしょうか?」
「え、わ、私のようにですか?」
「は、はい……」
え、えーっと、それはプロポーションの話だろうか。
正直な話、この姿は仮初のものなので、褒められてもそれほど嬉しく無い。むしろどんな反応をすればよいのか分からず戸惑ってしまう。僕の体型はユリシア様の魔法薬によるものだし……なんて答えればいいのだろう。
「おこがましいでしょうか……」
「そ、そんなことはありませんよっ! アリーさんだって綺麗じゃないですか! きっとイリーさんもすぐに素敵な女性に成長しますよ」
アリーさんもプロポーションは抜群だ。身長だって僕と同じぐらいある。
姉妹なのだから、という気持ちを込めて、僕が微笑みながら言うと、イリーさんは静かに俯き、消え入りそうな声で呟いた。
「……お姉ちゃんとは血が繋がってなくても……ですか?」
「えっ?」
血が繋がっていない?
イリーさんとアリーさんが?
「……」
(本当に?)
そんな話は一度も聞いていない。
でも確かに二人は非常に仲が良いが、似ているか、と問われれば返事は否、だ。
二人はお世辞にも似たもの姉妹とは言えない。
僕が返事を出来ずに言い淀んでいると、ラトが退屈になったのか、イリーさんの手を掴んだ。
「ねぇねぇ、何の話してるの?」
「あ、ごめんね、ラトちゃん。髪を洗いましょうか」
「イリーが洗ってくれるの?」
「うん、やだ?」
「ううんっ、いい!」
「ふふっ。よし、いこう」
僕が黙っている間に二人は湯船から出て行ってしまう。
湯船に残された僕は目を瞑りながら一人静かに呟いた。
「血の繋がり……か」