第二百四十七話 決戦の刻Ⅸ ~王の意志、人の意志~
ゆっくりと空が割れていき、そこから――。
「……気味の悪い」
巨大なメフィストフェレスの顔が覗いた。
下々を睥睨する神の如き威容で悪魔は戦女神を見下ろしている。
その表情は常と変わらず。ニヤニヤと悪魔に相応しい笑みに彩られていた。
しかし今更あの程度の『幻術』に惑わされる程、ルノワールは可愛げのある戦士ではなかった。
「……この世は弱肉強食だ」
唐突に。
大地の隙間から縫って出て来たレオナルドが呟く。
天空に居座る巨大な悪魔の瞳。
その爬虫類を思わせる邪悪な瞳は、レオナルドの眼差しに酷似していた。
「太古からの掟。古の時代からずっとずっと。命はそうやって巡って来た。今でこそ大地の支配者面をしている人類だが、かつては必死に生存競争を繰り広げていた筈だ」
一体何の話だ、とルノワールは思った。
(……全身の動きが鈍い)
この世界に長居している故の影響が心身に出始めているのだろう。
声を出す事が辛い、喉の異常がそろそろ洒落にならない段階になって来ている。
全身を苛む倦怠感と痺れは確実にルノワールの体力を奪っていた。
今すぐにでも目の前の男を倒さなくてはいけない。
そんな事は分かり切っている。
「戦いは生物を次の次元へと繰り上げる」
なのに。
どうしてか。
目の前の憎き魔王の言葉を無視出来ない自分が居た。
まるでレオナルドの声そのものに魔力が篭っているかのようだ。
「この戦いもそう。外の戦いもそう。人間は戦を望む生き物だ」
暴君の戯言などに興味は無かった。
訳が分からない上に、あまりにも利己的な言い分にルノワールの中に苛立ちが募る。
「……そんな言い訳で……大勢の人々を犠牲にしていい筈が無いでしょう……っ!!」
気付けば少女は絶叫していた。
ルノワールは知っている。
この戦争で一体どれだけの悲しみが生まれたのか。
いや、彼女が知っているのはほんの一部に過ぎない筈だ。
実際はもっと。
数えきれない程の不幸が大陸を包んでいた。
誰かが命を落とし、誰かが涙を流していた筈なのだ。
「お前がその領域まで己を高める事が出来たのも……心のどこかで戦を望んでいるからだ」
「だから……!」
「無いとは言い切れまい? 戦いを欲する心はお前の中に間違いなく存在する」
「話を逸らすな……! 人を傷付けるな、と言っている!!」
喉の痛みを忘れルノワールは叫んだ。
レオナルドの言葉は一部だけ正しい。
確かにルノワールの中には高めた技量を発揮できる相手と戦う事を楽しむ気持ちはある。
だけど。
「戦いを望む心が在る事を否定はしない!! でも、それでも……!! 人はその戦いの心を抑制出来る自制心も持っている! 平和を望み争いを厭い……誰かを傷付けることなく生きていける心を持っている……!!」
今更レオナルドに、このような綺麗事が通じるとは思えない。
しかし黙っている訳にはいかなかった。
戦場で倒れゆく人々。
戦争の影響で犠牲になった無数の人々。
彼らの命は……そんなに簡単に忘れていいものじゃない。
こんな男の勝手な『言葉』なんかで。
切り捨てていい物なんかじゃない。
決してない。
「……」
「貴方は……! 貴方は我儘で幼稚だ。覇道を目指す? 天下統一? 理想を掲げるのは勝手だが……貴方の欲望に無関係な他者を巻き込んで犠牲にする行為が、間違っている、と言っているんだ!!」
「……」
焦点の定まらぬ邪悪な瞳が、ルノワールを凝視している。
「……神は」
「?」
「神は己の勝手な理屈で人を殺す。人は人の勝手な理屈で家畜を殺す」
呟く様に彼は言う。
「俺は俺の理屈で人を殺す」
その言葉は迷いなく、そして己の信念を疑わぬ確固たる意志に支えられていた。
初めから大して期待していた訳でもないが……もはや説得など不可能だ、と。
ルノワールが諦め、拳を握り締める。
「俺は……この大陸を手に入れる」
笑みと共にレオナルドの全身が形を失い、天空の悪魔と交じり合った。
☆ ☆ ☆
「陛下はこの戦争を……どのようにお考えなのでしょうか?」
メフィルの問いに対して、しばらくの間ハインリヒは黙したままだった。
戦場では未だに戦士達の咆哮が鳴り響いている。
遠く空に目を向ければ、聖獣がブレスを吐き出し、それに対抗するようにミストリア王国の戦士達が結界を構築していた。
魔術による光がそこかしこで瞬き、振りかぶった剣が血飛沫を撒き散らす。
「……英雄が天下を統一し、覇王となる為の過程」
「……そんな……っ」
一人、また一人と。
今この瞬間にも、命が失われてゆく。
「……」
ハインリヒはレオナルドが生み出した球体を見上げたまま、やがて静かに呟いた。
「レオナルドは……英雄だ」
確信を伴った響き。
これだけの犠牲、人死にを出しておきながら。
あれだけの悲劇を作りだしておきながら。
メフィス帝国皇帝はレオナルドを英雄と呼んだ。
メフィルはその言葉を認める訳にはいかなかった。
「……暴君の間違いでは無いのでしょうか?」
「歴史を紐解けば分かる。当時は暴君であった者も勝利し、繁栄を築けば、それは英雄だろう」
「それはあくまでも『歴史』に過ぎません。今この時を生きる私達は陛下やレオナルドを英雄だと認めるでしょうか?」
「……」
「この時代においては、誰も英雄だ、と。持て囃す事は無いでしょう。例えこの先、もしも天下統一を成し遂げたとして、それを英雄だと称えるのは、未来を生きる人々です。現代では決してそのような事にはならない。それは……」
「……それは?」
最後の言葉は言おうが言うまいか、悩んだ様子だった少女の言葉。
だが、メフィルは告げた。
どうか、皇帝陛下に何か少しでも己の気持ちが伝えられる事を信じて。
「それは……孤独では……無いのでしょうか?」
メフィルの言葉がすっと。
胸の内に浸透していった。
ハインリヒは黙したまま静かに瞳を閉じる。
「……」
それは何度も何度もハインリヒが胸の内で繰り返した言葉と同じだった。
何度も何度も。
皇帝に担ぎあげられた時から、ずっと。
少年が考え考え、思考を重ねた想いだった。
しかし今更後悔は無く、未練も無く。
考えは変わらない。
「余は……この国が嫌いだ」
いつの間にかハインリヒの瞼は開かれている。
「……ぇ?」
皇族として生まれながら、捨てられ、どこの馬の骨とも分からない変態達の慰み者として、辱めを受け続けて来た。
「余は……この世界が嫌いだ」
あれは紛う事無き、この世の地獄だった。
何の希望も無い、辛いだけの毎日だ。
「君には恐らく……分からない」
泥水を啜り、全身に痣を作りながら、寒さに震える日々。
あの頃培った、この世界への憎悪は決して消えない。
皇帝として権力を得た今でも、昔の苦しみは残り続けている。
あの絶望だけの日々から救い上げてくれたのは――唯一人。
「余はレオナルドを崇拝している。あのように強くなりたい。彼に恩返しがしたい。彼は命の恩人だ。この世界で生きる希望をくれた」
希望と同時。
「この世界に復讐する為の……力もくれた」
言葉に触発されるように。
「……っ」
先程まで静謐なまでに透き通っていたハインリヒの瞳の奥が歪んでいた。
数えきれない程の苦しみと果てない憎悪が、柔らかな面立ちの中に潜んでいる。
底知れぬ鬼気を感じ取ったメフィルは思わず目を逸らしたくなった。
だが、メフィルはその眼をじっと見返した。
決して目の前の皇帝から逃げなかった。
「……余は駒でも構わない。レオナルドの覇道の手伝いが出来るのならば、それで良い。その為の最大の脅威がミストリア王国であるならば、王国は余の敵だ。敵を屠る為に余は禁忌の魔術を行使する」
「……」
「この場にいるだけで、そなたの勇気は称賛に値するだろう。だが、レオナルドが出て来る前に逃げるといい。このままここに居ては――」
「ルノワールは……負けません」
ハインリヒの言葉を遮り。
メフィルは力強い言葉を吐いた。
「ルノワール?」
「……無礼を承知で申し上げさせて頂きます。彼女は決して……貴方達には負けない」
目の前の皇帝がレオナルドを心酔し信頼しているように。
メフィルもまた――。
「私の誇るべき従者です」
言葉の通り。
彼女は胸を張って堂々と告げた。
「……従者?」
「えぇ、そうです」
「従者がこの中で戦っている、と?」
「はい」
訝しげな表情を作るハインリヒ皇帝を真っ直ぐに見据え。
メフィルは告げる。
「ルノワールは――」
その名を呼ぶだけで。
不思議と胸の内が温かくなる。
不思議と心が落ち着いていく自分がいる。
彼女の笑顔を思い起こせば。
いつだって自分は満ち足りている。
いつだって自分は一歩を踏み出せる。
いつだって勇気が湧いてくる。
「ルノワールは、とても優しく、そして強い人です」
「……」
「彼女も昔……とても辛い日々を送っていたそうです。逃げ出したくなるような日々の中、それでも彼女は逃げなかった」
「……」
「力を得ても。彼女はそれを悪用しない。ただ自分を高め、誰かを守る為にその力を使っている。それは当然――今、この時も」
球体を見つめ、メフィルは、そっと手を伸ばす。
「あの子はとっても。とっても強いから」
「レオナルドも強い」
「あの子の強さは力の強さじゃない。あの子はとても心が強い」
伸ばした手の平はルノワールに届きはしない。
「いつだって真っ直ぐで。例え挫ける事があったとしても。最後には必ず立ち上がって自分の守るべき物を守る為に困難に立ち向かう、強い心がある」
しかし、それでも確実にこの手の先には彼女がいる。
そしてまた――必ずこの手を握り返してくれる。
「相手はレオナルド。我が国の王だ」
負ける筈が無いという自信に充ち溢れた声色。
ハインリヒ自身が、かの男を『王』と認めた。
「王とは、それほどまでに優れた人間でしょうか?」
「……」
ハインリヒは答えない。
否。
少年はその答えを知らなかった。
メフィルは『友人』の姿を思い浮かべ、思ったままを言葉にする。
「私の知っている王は……決して特別なんかじゃありませんでした。人並みに頑張って、人並みに過ごして、人並みに笑って……だけど、そんな人だから。きっと誰もが『王』と認める。彼女に全てを託してもいいと思える」
「なるほど。しかし誰もがそのような王では無い」
「ええ。人それぞれの形があるのでしょう。でも私は――」
そう、私は――。
「私の国の王の方が好きです。今この中で戦っている従者の方が好きです」
その言葉を聞いて。
ハインリヒは微かに苦笑した。
「……結局は感情論か」
意見がどうにも食い違って協調出来ない以上は、最終的に行きつくのは感情だ。
「人とはどこまでもいっても……そんなものなのかもしれないな」
か細い声で呟くハインリヒ。
「ならば余は……余の英雄の勝利を信じよう」
二人揃って、球体をじっと見つめた。
ハインリヒに対抗するように。
メフィルもまた呟いた。
「私は……私の愛する英雄の勝利を信じます」




