第二百三十八話 超えよ、剣
だらしなく開いた口元、定まらぬ瞳孔。
あの勇壮だった……「いつか己もそうなるのだ」、と。
かつて誓った憧れの父親の姿はそこには無かった。
「くっ」
スレッガーは父ガルシア以上の剣士を知らない。
剣聖とまで呼ばれた男の実力は本物だ。
天賦の才を与えられし人間が弛まぬ努力によって磨き上げた力。
ダグラス=オットーの操り人形と成り果てた今でもそれは変わらない。
魔剣『フルンティング』。
それも大した技物であろうが、それでもスレッガーの手にする『アシュケロン』程では無い筈なのに。
それでも剣士としての並々ならぬ技量は健在だった。
攻防一体の剣の結界。
一歩でも間合いに入り込めば斬られる、という認識が頭の中に付き纏う。
一瞬の油断が命取りになる死闘。
集中力を切らせば死。
その筈だ、その筈……なのに。
(あぁくそ……懐かしいな……)
昔。
今の様に腐る前のスレッガーは。
ガルフォードとして生きていた時にも、こうして父親と剣を打ち合っていた。稽古であっても厳しいガルシアに小さい頃はよく文句を言っていたりもした。
成長するに連れ、厳しさも父親なりの愛情なのだと理解してからは文句を言う事こそ無くなったが、中々縮まらない父親との実力差にヤキモキしていた。
毎日毎日、馬鹿の一つ覚えのように剣を振り続ける。
メフィス帝国の第一線で働き続け、どんどんと高みに昇っていく父親が誇らしいと同時に、自分には才能が無いのではないかと悩んだりもした。
周囲の人間は身体が大きくなれば自ずとガルシアとの差が縮まる、等と言っていたが、そうは思えなかった。
父の剣はとても。
とても――重かったから。
それは何かを背負っているからか。
父の剣には自分には足りない何かが確かに在った。
ガルシア=ゾルダートの剣には、技量だけでは説明出来ない確かな意志が存在していたように思う。
それがガルシアを一段上の剣士にしているのだ、とガルフォードは感じていた。
時には血反吐を吐く思いをしてまで剣を振り続けた。
厳しく辛く、辞めたい、と思った事も何度か在った。
母や妹に相談しては、辞めても良い、と言われる。
しかし父の姿を見る度に、不思議と「もう一度剣を振ろう」と思えた。
初めて剣の型を覚えた時。
初めて打ち合い稽古で現役軍人に勝利した時。
初めて剣に魔力を乗せた時。
己の中に達成感は在ったが……それ以上に嬉しかったのは、我が事のように、いつも父が喜んでくれた事だった。
父親とはそういうものなのだろうか。
子供のいないスレッガーには分からない。
だが、それでも普段は寡黙な父の子供の様な笑顔を忘れた事は無い。
姿形が一緒であったとしても……今目の前にいる男の顔とは似ても似つかない。
(俺の弱さの代償……)
例え首謀者がダグラスであったとしても。
結果的に手を下したのは自分、自分なのだ。
家族の死。
己の意志ではなかったとはいえ、この手で父を殺したという事実はこの先も一生消える事は無いだろう。
永遠に許される事の無い己の罪。
ダグラスのような外道に操られ、未だに安らかに眠る事の出来ていない父の姿。
それがとても、辛くて。
気付けばスレッガーの瞳から……涙が零れ始めていた。
(何故泣く……?)
苛烈な攻撃に晒されながら、物思いに耽るなど愚の骨頂。
そんな事は百も承知である筈なのに。
死体と成り果てた父の姿を見て昔を思い出したのか。
自分自身でも、この胸の中の熱さの説明は中々付けられなかった。
それでも。
それでも一つだけ分かる事が在った。
スレッガーの頭頂部を狙い澄ました、神速の剣戟が振り下ろされる。
ダグラスの口角が持ち上がる。
その嫌らしい表情には勝利の笑みが浮かんでいた。
しかし。
「――遅い」
振り下ろされた『フルンティング』の一撃を。
振り上げる『アシュケロン』の勢いに任せて振り払った。
一瞬たたらを踏んだ隙を逃さずにスレッガーの剣閃が今度は先程までとは打って変わってガルシアを襲い始める。
怒涛の連撃にガルシアは追従出来ない。突如としてスレッガーの攻撃に対して防戦一方と成り果てたガルシア。
剣の振りはガルシアの方が僅かに上回っている。
その足運び、鋭い太刀筋、それらも全てガルシアの方がスレッガーを上回っている。
それなのに。
「な、なんだ……?」
目の前の光景が信じられずにダグラスが目を見開いた。
いつの間にか。
いつの間にか、つい先程まで圧倒的に優勢だったガルシアが押され始めたのだ。
スレッガーの眼光が光る。
その踏み込みは力強く、振り下ろされる剣閃の鋭さは常人の域を遥かに超えていた。
だがそれでもガルシアの方が上の筈だ。
だが。
だが……。
「……」
スレッガーの攻撃に対しての防御が間に合わず、徐々にガルシアの全身に傷跡が蓄積していく。
疲労など感じない筈の死体であるにも関わらず、どこか疲れているように見えるガルシア。
「貴様……な、何をしたっ?」
驚愕の出来事にダグラスが戸惑いの声を上げる。
「別に何も」
優れた魔術師であっても、戦闘能力が高い訳ではないダグラスには理解出来ないだろう。
スレッガーが押している理由は単純明快。
ガルシアの『呼吸』を読んだのだ。
どんなに優れた戦闘魔術師であっても『呼吸』とでも呼ぶべき、戦いの中における一定のリズム、癖がある。
一流の戦闘魔術師であれば、その癖をなるべく隠し、逆に相手の『呼吸』を読もうとする。
それは力や速さや魔力と言った単純な身体能力の多寡だけでは測る事の出来ない戦闘魔術師の極意。
スレッガーは戦闘の最中、ガルシアの動きを観察し、その『呼吸』を読んだだけ。
特に死霊魔術によって操られているだけの人間の『呼吸』など単純至極。
スレッガー程の超越者に掛かれば、その動きを捕える事など造作も無いのだ。
しかしその様な事はダグラスには分からない。
己の最強の手札がどんどんと追い詰められていく姿を見つめるのみだった。
更に言えば――。
「な、何をしている! 曲がりなりにも最強の剣士だろう、貴様は!!」
またしてもガルシアによる渾身の一撃が放たれる。
だがその剣はいとも容易くスレッガーに弾かれた。
「……軽い」
軽いのだ。
振り下ろされた剣はただ速いだけで全くもって重さが無い。
「軽いだとっ? そんな訳があるか! な、ならば……っ!」
『死神の儀典』が光り輝く。
更なる魔力が補充されていき、ガルシアの全身に邪悪な力が満ちていく。
それは彼に限界以上の力と速さを齎した。
「ぐぉおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
まるで獣の様な遠吠えを上げるガルシア。
瞳孔が開き切り、口が裂けていく。
もはや人間と呼ぶ事も難しい程の変貌だった。
過度な力にもがき苦しむ様には恐怖すら感じられる。
「ふふはっ、ふははははっ! 見ろ、この力を!!」
勝ち誇る様に。
ダグラスは己の力に酔いしれる。
これでガルシアが負ける筈が無い、と。
彼は確信を持っていた。
「いけ! ガルシア! 貴様を殺した息子に復讐するといい!!」
「っ!!」
「ぐぉおおおおおおおおおおっっ!!」
叫び声と共にガルシアの目にも止まらぬ一閃が空間を走る。
しかし。
「っ!! 軽いと言っている!!」
スレッガーの剣閃はガルシアの攻撃を簡単に防いで見せた。
「ば、馬鹿な……先程までの倍以上の力を加えたのだぞ……」
「……」
今のガルシアの剣には何の思いも込められていない。
肉体と精神の伴わない剣がこれほど軽いとはスレッガーにも思わなかった。
「……」
「な、なぜ……」
うろたえるダグラスを見ていると苛立ちが沸々と沸き上がって来る。
「なぜ? 何故、だと?」
かつての父は。
誰もが憧れ、己の目標としていた男は――もっともっと強かった。
こんなに弱くなど無かった。
スレッガーの攻撃に耐え切れずに尻餅をついたガルシアを見下ろす。
無様な姿だった。
こんな姿を見たくなど無かった。
歯を食いしばりながら、スレッガーが怨嗟の声を紡ぐ。
「貴様がやったんだろうが……っ!!」
あまりにも大きな声にダグラスが竦み上がる。
だが彼はすぐに冷静さを取り戻すと、更なる力を『死神の儀典』に込める。
すると見る見るうちにガルシアの傷が回復していく。
否――ドロドロとした薄気味の悪い液体で無理矢理に塞がっていく。
「は、はははっ! ガルフォード、お前がどれだけ父親を痛めつけようが、わ、私の力があれば全ては無駄――」
「黙れっ!!」
「っ」
大喝されたダグラスの目が泳ぐ。
それでも魔力は通っているのだろう。
ゆらゆらとガルシアが再び立ち上がり、その手に持った剣を構えた。
「――父上」
その眼は淀み、かつての栄華の影は微塵も無い。
それでも、父親としてずっと慕って来た、尊敬して来た背中だ。
父の様に。
強くなりたかった。
優しくなりたかった。
皆を導いていけるような、そんな温かな。
ガルシアのような男に――なりたかった。
父の愛剣だった『アシュケロン』を手にし、ガルシアを睨みつける。
その時。
「が……がる……」
「……ぇ」
「がる……ふぉーど……」
潰れた様な声が微かに名を呼んだ。
「がるふぉーど……」
死んでいる筈のガルシアの口から紡がれた息子の名前。
このような姿になっても。
かつての魂が少しでも残っているのかもしれない。
さぞ無念だろう、さぞ苦しいだろう。
スレッガーの眦から一筋の光が零れ落ちる。
死体となっても尚、解放されていないのか。
この世に残る悲しき存在。
「今貴方の魂を……解放します」
それが。
この世で最も愚かで弱かった自分に出来る最後の親孝行。
「安らかにお眠りください」
神速の一撃。
スレッガーの身体が残した残像の軌跡が宙に描かれ、直後ガルシアは倒れ伏した。
最後の瞬間、確かに父が微笑んでくれたような――そんな気がした。