第二百三十七話 ダグラス=オットー
愛剣を鞘に納める音が、静寂の室内に静かに木霊する。
「……」
確かにダグラスは切り裂いた。
その手応えも確かに在った。
しかし――。
「なるほど、これが」
切り裂いた死体に目を向ける。
そこには確かに死体が在った。
だがそれはダグラスとは似ても似つかぬ、誰とも知れぬ屍。切り口から腐敗臭が漏れ出で、瞬く間に死体が脆く崩れ去ってしまう。まるで死後何年と経過しているかのようだった。
(いや、本当に――)
「っ」
腰を落とし、背後を振り返ったスレッガーは再度剣を構えた。
「ふむ、意外と驚かないな」
「貴様の手品を見るのはこれで『3度目』だからな……」
「なるほど、確かにそうだ」
切り裂いた筈のダグラスが先程までと何ら変わらぬ様子で平然と立っている。
その表情には一切の焦りがなく、状況を楽しむ余裕さえ残っているようだった。
「躊躇いなく剣を振り下ろした技量は見事だが……」
「貴様の作り出したゾンビ共をいくら葬った所で無駄という訳だろう? 姿も変幻自在とは、な」
先程切り裂いたのはダグラスの死霊魔術によって死体から作られたダミー、ということだろう。
今現在目の前にいるダグラスも下手すれば偽物かもしれない。
そう……『かもしれない』。
「……」
恐るべき点はそこに尽きる。
スレッガー程の超越者であっても、目の前で不敵に笑うダグラスが本物なのか、偽物なのか。
その区別が付けられない。
「いいのか? このように手の内を晒してしまっても」
挑発するようにスレッガーが尋ねる。
もしもスレッガーにダグラスと同じ能力があったのならば、先程のダミーを切り裂いた直後の隙をついて攻撃しただろう。だがダグラスは面白そうに見物していただけだ。
「……私はガルフォード様ほど強くはないので」
その言葉に偽りは無い。
ダグラスは無闇にスレッガーの懐に飛び込む事を恐れていた。
嘯くダグラスはしかし嫌らしい笑みだけは消さなかった。
「ですので」
そして。
「『彼』に戦ってもらう事にします」
ダグラスが指を鳴らした直後。
「っ!」
天井が破壊され何者かが降りて来た。
スレッガーの元居た位置に剣が突き刺さり、勢いそのままに衝撃が走り床に穴が開いた。
間一髪で回避したスレッガー。
彼はすぐさま態勢を立て直し、やってきた侵入者に視線を向けた。
そして――彼の時が止まった。
「…………」
らしくもなく、声は掠れ、その顔は驚愕に染まっていた。
「……父、上?」
瞳孔の定まらぬ表情をしたガルシア=ゾルダートがそこに居た。
☆ ☆ ☆
ダグラス=オットーは『死神の儀典』を手にしてから死霊魔術に目覚めた訳ではない。
彼は元々死霊魔術を昔から熱心に学んでいたのだ。
幼少期より、生死の在り方に興味があったダグラスは死体というものに対して異常な好奇心を抱いていた。
小さな生物だけでは飽きたらず、次第に興味は人へと移っていく。
ただ、彼自身にとっても周囲にとっても幸運であったことは、死体には興味があっても、殺人には大して興味が無かったことだろう。
もしもダグラスの好奇心が少しでも下手な方向へと進んでいた場合、メフィス帝国に並々ならぬ災厄が降り注いだ事は間違いが無い。
元より非才な身であった彼が死霊魔術を知り、それらを極めていったのは自然な流れだと言えるだろう。
また、ダグラスは己の心を隠し通す術に非常に長けており、愛国心も有った。
仮面を被ったままメフィス帝国の宰相にまで瞬く間に登り詰めた彼は、その地位にあればこそ、いつでも人の死体を使って死霊魔術の実験が出来る事に気が付いていた。
日夜人々は何かしらの要因で死ぬ。
そんな死人達を時折拝借しては己の探究心の生贄にした。
メフィス帝国宰相として表の顔で帝国を切り盛りをしつつ、己の知的好奇心を満たす為に裏側では非道の死霊魔術の研究に明け暮れる毎日。
野心が強い訳ではないが、彼にとって好きなだけ研究材料の入る日々は満ち足りた日々だった。
とある男がメフィス帝国軍でその才を開花させるまでは。
ガルシア=ゾルダート。
誰もが認める名家の嫡子にして、歴史に名を残すだろう偉大なる軍人。
まさしく英雄と呼ぶに相応しい男。
その突出した能力は武力だけには留まらず、頭も切れる文武両道の体現者。
別にダグラスはガルシアを毛嫌いしていた訳ではない。
むしろメフィス帝国を運用していく上では心強い仲間であり、その実力を認めてもいた。
全てが狂ったのは――彼が勘付いてしまったからだ。
ガルシアは聡明な男だった、優秀すぎるが故にダグラスの所業に気付き始めてしまった。
そしてガルシア同様に聡明なダグラスも即座に気付いてしまっていた。
ガルシアが己の人生にとって……邪魔になりそうな事に。
(消さねばならない……)
もう一度言おう。
彼はガルシアの事が嫌いでは無い。
嫌いでは――無かった。
しかしこの瞬間――ダグラスは己の平穏な日常を破壊されそうな恐れから、ガルシアに対して激しい憎悪を抱いた。
ダグラスにとって己の死霊魔術の邪魔をされるのだけは我慢がならない。
その為だけに生きているのだ。
己の欲求が満たされない人生など何の意味もない。
そして丁度その頃だった。
彼が『死神の儀典』というメフィス帝国屈指の死霊魔術の魔法具を発見し、更に力を強めたのは。
ダグラスが新しい死霊魔術を研究していた最中の幸運。
それは死人だけではなく、意識の無い生きている人間の身体を操る、というものだ。
ダグラス個人の力だけでは成し遂げられそうも無い魔術だったが……『死神の儀典』が彼に力を与えた。
(一刻も早く――消さねばならない)
決断すると彼の行動は素早い。
即座に計画を練り始めた。
ガルシア自身を操る事が出来るのならば、それに越した事は無いが……。
(無理だ)
ダグラスは己の力量を過信していない。
自分の力では、あの英雄を害する事などできない。
例え『死神の儀典』の力を使ったとしても、力量差が大き過ぎる。
操るなど以ての外だ。
だが――その息子ならば?
(やれる……やるしかない)
現状の満ち足りた生活を続ける為に。
己の死霊魔術の研究の為に。
(未だ発展途上の青年を操る事など……今の私ならば……)
造作も無い。
10年前の冬の日。
雪の降り積もる北大陸の寒さ厳しい夜半。
メフィス帝国最大の凶事が発生した。
一夜にしてゾルダート家は崩壊し、ダグラスの目論見通りガルシアは落命。
邪魔者は消え去った。
証拠はもちろん残さない。
訃報の報告を最小限の範囲に留めつつ、彼は関係各所とこれからのメフィス帝国の在り方についての調整を始めた。
その間ずっと……表の顔では悲しみに暮れた振りをしつつ、ダグラスは心の中で笑みを浮かべていた。
(……)
ただ、一つだけ心残りが在った。
あまりにも凄惨なショックのせいか、ダグラスの魔術の支配下から脱したガルフォード=ゾルダートが消え去ってしまったのだ。
とはいえ、ガルフォードがダグラスまで辿り着く可能性は、ほぼ無いだろう。
状況証拠だけでもガルフォードが惨殺した首謀者であることは一目瞭然。
そもそもメフィス帝国内にダグラスが死霊魔術を扱う事を知っている人間は存在しない筈だ。
そしてあれから10年が経過した。
ダグラス=オットーのただ一つの心残り。
ガルフォード=ゾルダートの血走った眼が今――ダグラスを睨みつけていた。
☆ ☆ ☆
それが決して姿だけを模した幻術ではない、と。
見た瞬間にスレッガーは確信していた。
分かってしまった。
目の前に突如現れたのは、忘れもしない、父の姿。
その眼差しには生気がなく、半開きの口元からは無様にも唾液が垂れていた。
精悍で誰もが憧れた、かつての姿とは打って変わってしまっていたが――それでも間違える筈がない。
大切な肉親。
家族なのだから。
「ダグラスっ、貴様ぁ――っ!!」
さしものスレッガーも喉が張り裂けんばかりの大音声で叫び声を上げた。
眼光だけで人を殺せそうな程の鋭い眼差し、迸る殺気は先程までの比では無い。
「余所見をしていて良い相手か?」
しかし対峙するダグラスは涼しい眼差しのままだった。
何故ならば。
「っ!」
死霊魔術の生贄と化したガルシアがその手に持った剣を振るう。
その剣閃、太刀筋は……まさしく。
「なん……っ!?」
咄嗟に『アシュケロン』で弾き返すも、目にも止まらぬ神速の斬撃が次々とスレッガー目掛けて繰り出される。
あまりにも早く苛烈な攻撃にスレッガーは防戦一方となっていた。
「驚いたか?」
目の前のガルシアは死体、死体の筈だ。
だが。
「ガルシアだけは特別だよ。彼には特殊な死霊魔術を施してある。剣はどうだ? 彼の為に用意した彼に相応しい魔剣『フルンティング』の切れ味は……」
邪悪な輝きを見せる『死神の儀典』。
その歪な魔力光はまるでダグラスの心の生き写しのようだった。
「どうだ? かつてメフィス帝国最強と謳われし剣士の実力は」
速く鋭く、そして力強い太刀筋。
足捌きは見事であり、無様な死体と成り果てていても、その肉体に宿りし剣士としての能力は本物か。
「おおっ!!」
ガルシアの剣撃の狭間、スレッガーが身を沈め、喧嘩殺法のように足払いを仕掛けようとした。
「……」
だが。
その蹴り足はすぐさまスレッガーの狙いを見抜いたガルシアに回避される。それどころか、逆にスレッガーの足元目掛けて手にしていた剣を振りかぶった。
態勢不十分な筈のガルシアであったが、その剣閃は僅かにもぶれる事は無い。
「ちっ」
一瞬で対処されたスレッガー。
一歩距離を取ろうと僅かに下がる。
しかし直後には、一足飛びに眼前に迫るガルシア。
彼が再度魔剣『フルンティング』を振るう。
剣閃の音は遅れてやってくる。
交わした矢先、スレッガーの背後に在った壁が綺麗に寸断された。
その切り口は芸術品の如く美しい。
無駄な力の加わり方などが一切無い達人の剣筋だった。
「……っ」
「さぁ……折角の再会なんだ。楽しんでくれたまえよ、ガルフォード様」