第二百二十三話 虚無
視界が明滅する。
断続的に襲い来る激しい頭痛が少年に牙を剥いた。
「……ここ、は?」
上手く働かない頭を意志の力で抑えつけながら周囲を見渡す。
――これは夢だろうか。
不可思議な空間の中で少年は一人歩いていた。
靄が掛かったような景色の中で、一人彷徨う己の足取りはひどく頼りない。
周囲には何も存在せずに霧ばかりが世界を覆っていた。
何も見えない、何も聞こえない。
このどこまでも広がりゆく大地の中で感じる侘しさと空虚さはまるで己の心の鏡写しのようだった。
「はぁ……はぁ……」
飢えと渇きが少年を苦しめる。
重たい全身には絶え間なく痛みが走り、頭痛の激しさは増すばかりだ。
しかし助けなどは来ない。
この真白の世界の中で唯一人。
自分は一人ぼっちだった。
「……ぇ?」
そんな心の隙間を埋めるように。
「な、なんだ?」
背後から地鳴りが聞こえて来た。
何か良くない物が迫って来ている。
そんな予感が訪れるも、足は重く、己の肉体は言う事を聞いてはくれなかった。
少年は恐る恐る首を動かし、振り返る。
すると――。
「……!」
無数の亡霊が自分を見つめていた。
世界を埋め尽くすだけの死者達がまるで群れた蟻のように自分の周囲を囲んでいる。
誰の瞳の中にも憎悪が在った。
怨嗟と悲嘆の声が少年の耳を支配し、禍々しい邪気が少年の心を圧迫した。
だが。
だが――。
「……はっ」
思わず少年の口角が吊り上がる。
白磁の様な美しい肌は蒼褪めるどころか、興奮で朱に染まっていった。
「はははっ」
そう、彼らは皆――己が手に掛けた者共なのだろう。
彼らの無念、想念が死して尚、自分に対して襲い掛かって来ているのだろう。
だが、それが何だ?
「間違っているのは……お前達だろう?」
少年の瞳の中には、それこそ死者共にも劣らぬ程の怨嗟が渦巻いている。
端麗な容貌の中にも鋭さが満ちていく……彼は呟く様に言った。
「失せろ」
それは短いが故に誤解のしようもない言葉。
少年の声には、まさに皇帝に相応しいだけの威厳が備わっている。
彼は死者を恐れなかった。
むしろ、己の手で為した『偉業』に感動すら覚えていた。
「僕の……」
いや。
「余の覇道は始まったばかりだ」
そうして――ハインリヒは目を覚ました。
☆ ☆ ☆
相も変わらず痛む全身。
しかし瞳を開いたハインリヒは一人では無かった。
「目覚めたか」
己の眠るベッドのすぐ傍には、他国に留まらず自国内の人間からも恐れられる男が居た。
悪魔と揶揄される彼の形相は恐ろしく、なるほど、その呼び声に相応しい威容だろう。
だが、ハインリヒの心は驚く程に落ち着きを取り戻していった。
低い声に誘われる様に首を動かした先に、帝国特務官レオナルドは座っている。
「……レオナルド」
「気分はどうだ?」
平坦な声色で問いかけるレオナルド。
そんな彼の言葉を聞いて、思わずハインリヒは笑った。
「……ふふっ」
「あぁ? 何がおかしい?」
本当に意味が分からなかったレオナルドが眉根を寄せる。
「いや……レオナルドが誰かの無事を確かめる、というのが可笑しくて」
悪魔悪鬼と恐れられる男の言葉にしては、似つかわしくない気がしたのだ。
「失礼な小僧だな……ったく」
忌々しそうに呟き、レオナルドは立ち上がる。
ハインリヒの額に手を当てた彼は、すぐに頭を振った。
「ちっ。まだ少し熱があるか」
「……余は一体どの程度眠っていたのだ?」
「3日だ」
端的にレオナルドは言葉を返す。
それはハインリヒにとっては看過できない数字であった。
「3日!?」
「あぁ、そうさ。一気果敢に攻め込む予定だったが、お前が眠りこけていたせいで、出足が遅れている」
無様に寝ていた間に……戦況が動いている。
「……す、すまない。今すぐにっ」
「やめろ、馬鹿」
焦燥に駆られた表情でハインリヒは言った。
しかし無理矢理に上体を起こそうとするハインリヒを強引に寝かしたレオナルドが言葉を続ける。
「確かに『ネハシム-セラフィム』は強力だが、あれが無ければ進軍が出来ない訳でも無い」
「……」
「いざという時にお前が撃てない方が問題だ。戦端を開くと同時に課題を見つけられただけでも今回は僥倖と捉える」
いつもと変わらない冷静さは健在だった。
レオナルドは飄々とした様子で語る。
彼は意識していた訳では無かったが、平常心を崩さないレオナルドの態度が密かにハインリヒに勇気と安堵を与えていた。
「……デモニアス要塞は?」
「当然落とした。というか今お前が寝ているこの場所がデモニアス要塞だ」
そう聞いて、思わず周囲を見渡すハインリヒ。
なるほど、道理で見覚えの無い部屋の訳だ。
「で、では……作戦の一段階は成功したのだな?」
「ああ」
それを聞いて、ほっと胸を撫で下ろしたハインリヒ。
そして気付いた。
彼は先程見ていた夢を思い出す。
(あの亡者達は……やはり……)
己が『ネハシム-セラフィム』で殺した者達なのだろう。
「……」
「なんだ、どうした?」
「い、いや何でもない。少し気分が……優れないだけだ」
誤魔化すハインリヒを見下ろすレオナルド。
だが彼は帝国特務官は深く追求する事無く頷いただけだった。
「……ここからの予定は?」
ハインリヒはあくまでもレオナルドの扱う手駒の一つに過ぎない。
計画の全貌や詳細まで教えられていないのだ。
いや、そもそもレオナルドは自分の計画の全てを誰かに話したりはしない。
(レオナルドは本質的に……)
誰も信じてはいないのだろう。
全ての計画とシナリオは彼の脳内にのみ存在する。
「既に動いている。予めミストリア王国に潜伏させておいた子供達が王国内で撹乱行為を開始。帝国の戦力を動員して一刻後、ミストリア王国への本格的な追撃を仕掛ける」
それは遂にミストリア王国との決戦が始まる、ということだ。
しかし何も気負うことなくレオナルドは言葉を続けている。
彼にとっては全ての出来事が想定していた通りに進んでいるだけだった。
「だが、3日も時間を取られているのでは……」
不安そうに洩らしたハインリヒの言葉をレオナルドは否定しなかった。
「まぁミストリア側も陣形を立て直しただろう。残念ながらオードリーには逃げられたしな」
ミストリア王国外軍、大将軍ダンテ=オードリー。
水面下での攻防において最も厄介な敵はマリンダ=サザーランドであろうが、軍隊同士での戦争において最も厄介な敵はあの大将軍だろう。
防ぎ切った訳ではないとはいえ、ネハシム-セラフィムの被害を減退させ、その上で混乱するデモニアス要塞で殿を務め、メフィス帝国の進軍の出鼻を挫いた張本人だ。
「だが別に俺も遊んでいた訳じゃない」
3日。
その間にもやるべき事は無数にある。
本国からの物資・人員の移送に敵国内部の情報収集、そして最も重要な事が――周辺国との同調だ。
「『ゾロアーク』から連絡が来た。あの国は暫く静観だ」
北大陸における東の『デロニア』、西の『ゾロアーク』。
これら周辺国からの影響を受けないようにミストリア王国との戦争を継続する。
それがメフィス帝国に求められる最も重要な点だ。
先だっての戦争において『デロニア』は帝国に散々な目に合わされている上に、此度の戦争への介入をしなければ、領土を一部返上するという密約を交わしている。
デロニアとて、何れ帝国の牙が自国に剥くとも限らない状況ではあるが、あの国は現在メフィス帝国に逆らう事が出来ない、それが現実だった。
そしてもう一つの『ゾロアーク』。
彼の国の人間共も十分にメフィス帝国の脅威は感じているだろう。
「あの国も打算的でな。現状は静観の構えを見せる」
確かにメフィス帝国は圧倒的な強さでデロニアを食い破った。
しかし大陸の中央以北においては、やはり間違いなくミストリア王国が最大国家だ。
そんなミストリア相手にメフィス帝国がどこまで戦えるのか。
それを見極めようとしているのだろう。要するにあの国は勝ち馬に乗りたいのだ。
「よしんばミストリアとメフィスの共倒れを狙っているのだろうよ」
現在デロニアの国力は大幅に低下している。
ならば、ミストリア王国、メフィス帝国の両国が潰し合ってくれれば、ゾロアークが漁夫の利を得る可能性まであるのだ。
「地理的にミストリア王国に援助されると厄介であったが、とりあえずは動かない、という意志だけは確認出来た」
それだけでも収穫だ。
また、万が一に裏切られた場合、あの国に差し向けているレオナルド・チルドレンが暴れる手筈になっている。
散々に脅しつけてもおいたので、しばらく静観、という言葉には信が置けるだろう。
これで真っ向からミストリアを叩き潰すだけで事が済む。
「くくくっ」
「ミストリアの……出方は?」
「守りを固めている。と見せかけて……恐らくすぐに攻めて来るだろうな。デモニアス要塞は今回の戦争における重要な拠点だ。あちらもすぐに取り戻したい筈。3日の間に再度『ネハシム-セラフィム』が撃てるのか、帝国側がどう動くのか、それを見定めていたのだろう」
「で、ではっ」
「心配するな。先程も言っただろう? そうだからこそ、こちらも既に準備は万端。いつでも動ける」
相変わらずの自信に満ちた表情で悪魔は嗤う。
「ハインリヒ。お前はさっさと体調を回復させろ」
「……」
「お前は今回の切り札たるカードだ。いつでも切れるようにしておくんだな」
それだけを言い残し、レオナルドは部屋を後にした。
「……」
ハインリヒは再度深く、ベッドに沈み込むと窓の外の空を見上げた。
雲は無く、晴れ渡っている筈の大空。
昼間の太陽の輝きは心までも晴れやかにする。少なくともかつてはそうだった。
(いよいよ……か)
北大陸全土を巻き込む戦乱が幕を開ける。
(ふふっ……歴史家達は余の事をどう語るのだろうな)
無数の本に目を通して来たからこそ、そんな事を考える。
史上最強の暴君か。利己的な支配者か。愚かな侵略者か。それとも操り人形か。
「ふっ」
益体の無い考えだ。
自分は『今』を生きているのだから。
歴史など……後の人間が考えれば良い。
迷わず進むレオナルドを見習おう。
どこまで行ってもハインリヒの想いは変わらない。
(僕は……レオナルド、貴方にどこまでも付いていくよ……)
主人の命に従い、体調を回復させる。
それこそが自分の『今』為すべき事。
少年は瞳を閉じ、再度眠りについた。