第二百二十話 カナリアの苦悩
嫌な淀みだった。
ミストリア王宮の惨状は筆舌に尽くしがたい。
もちろん目に見えて荒れ果てている訳ではないが、内包している陰気がカナリアの心中を曇らせるのだ。
「すぐに手配を。既にオードリー大将軍には話を通してあります」
「で、ですが、勝手に……」
「今動かねば取り返しがつかなくなる可能性があるのです」
「……ひ、姫様がそう仰るのでしたら……」
渋々、といった様子で背を向けて歩き出す、ミストリア王国侯爵の後姿を眺めつつ、カナリアは心の中で溜息を吐いた。
(ふぅ……)
ユリシアとルノワールからの要請を元にロスト・タウンへの支援を決意し、実際にあの場に赴き、スレッガーという一角の人物と渡りを付ける事に成功し、子供達の搬送も少しずつではあるが開始した矢先。
そんな時だった。
ユリシア=ファウグストスが誘拐された、などという話が紅牙騎士団から齎されたのだ。
しかも攫われたのは一人だけではない。
(メフィル……)
あの聡明なる少女も同時に。
メフィス帝国の最高戦力を引き連れたレオナルドによる強襲の効果は大きかった。
まずもって紅牙騎士団の戦力をユリシア奪取に割かねばならない。
だがそんな事よりも深刻なのは、王国貴族の政治力・決断力・判断力の欠如だった。
長年に渡り、戦事を経験してきていない彼らの対応は遅い。
紅牙騎士団やオードリー大将軍からは既に何度もメフィス帝国がいつ戦争に踏み切って来てもおかしくはない。彼の国はそれだけの準備を進めている、と。
再三に渡り警告が齎されているにもかかわらず、具体的な対応は何も行っていなかった。
もちろん表向きに行動しないのは構わない。
平和な国民性を考慮すれば混乱を招く恐れもある。
ゴーシュによる内乱の影響も在り、帝国に対する不信感はあるだろうが、それでも国民は誰一人として戦争など望んでいないのだから。
しかし上に立つ者であるのならば、いざという時に行動する事が出来るだけの下地を日頃から備えていなければならない。
例えばユリシアの治めるコーミル地方では、かなりの食料の備蓄がされていた。
これはユリシア=ファウグストスが監査の折にも常に議題に掲げる項目であり、それは干ばつ等の天候不良だけではなく、戦争等の有事の際に役立つからだ。
彼女を慕っていた貴族達は、私兵としての騎士団だけではなく、荒事に対する情報収集も行っていた。
ユリシアが定期的に主催する情報交換会では、それらの情報を共有し、問題のある領地や貴族に対しては対応策を講じ、滞りなく治世が行えるようにしていたのだ。
それだけではなく、彼女は隣国の動向についての情報収集にも余念がなかった。
現在ミストリア王国が得ている帝国についての有益な情報のほとんどは去年帝国に入り込んでいた紅牙騎士団から提供されたものだ。
また、ユリシア以外では。
ゴーシュ=オーガスタスはユリシア程に周囲の貴族と協力的ではなかったが、それでもいざという時に動かせる手勢の用意、政治的な手腕、そして人心を掴み、人を動かす術に長けていた。
カリスマがある彼の言葉には常に誰かを動かす力があり、巧みに他者を誘導し己の盤面を作り上げようとしていた。
何よりもユリシアすら欺いた情報隠蔽能力と作戦立案能力は非常に高い。
到底許されざる大罪ではあるが、先日の革命の一件などは、そもそもゴーシュ程の器でなければ、成し遂げられるものではなかった。
「……」
今のミストリア王国には、この貴族勢力の両巨頭が存在していない。
もともと国王からして、公爵に頼り切って来ていたのだ。
現在のミストリア王国の対応能力の欠如は深刻な問題だった。
戦術レベルであれば。
紅牙騎士団を筆頭にオードリー大将軍の率いる外軍、そして天馬騎士団にスレッガー達ロスト・タウンの猛者達。
帝国とも十分に渡り合えるだけの戦力を用意出来るかもしれない。
だが、王国はその更に上層部に問題が在った。
「これがレオナルドの策略なのでしょうね……」
表立って動き始めた帝国に対して迅速かつ最適な対応が出来る貴族がいるとすれば、それはユリシアかゴーシュぐらいのものだろう。
この出遅れは後々の戦況にすら影響を与えるかもしれない。
もちろんカナリアは懸命に己の考えられる範囲で必死に行動している。
現在ではユリシア=ファウグストスを育て上げたグエン=ホーマー子爵からのアドバイスを受けながらも日々走り回っている。
だが。
だが。
「……」
一抹の不安がどうしても消せない。
結局の所、自分はまだ経験の浅い若造なのだと思い知らされる。
頼るべき寄る辺の無い中で己の手の平には、無辜の民の命運が在るのかと思うと胃が押し潰されそうだった。
今にして思えば、ユリシアが居る時には。
彼女の傍に居る時には、盲目的な安心感が在った様に思える。
「ユリシア様……」
幼いながらに彼女の武勇伝を耳にしては心を躍らせ、憧れていた。
昨今ではカナリアの名声も上がって来たが、ユリシアと比較すればユリシアに軍配が上がるだろう。
ゴーシュ=オーガスタスを最終的に追い詰めたのも、やはりユリシアだった。
そもそもあの内乱ではユリシアの協力なくしてはカナリアも何も出来なかった筈だ。
(このように……弱気な事ばかり言っていてはいけないのでしょうね)
「姫様」
頼れる側近たるテオ=セントールが心配そうな顔で主人を覗いた。
「顔色が悪いですが……少しはお休みにならないと……」
テオの隣ではコノハも頷いている。
ここ数日カナリアは碌に睡眠をとっていない。
根を詰め過ぎているせいか、その疲労の色は隠そうにも到底隠しきれるレベルではなかった。
「でも」
カナリアの悩みは王宮内の淀みだけでは無い。
今日。
メフィス帝国では、大きな作戦行動が開始されている筈だ。
紅牙騎士団と連携しているカナリアは、ユリシア救出の支援を買って出た。
彼女の最大戦力である天馬騎士団とスレッガーに依頼し、マリンダの補佐に充てたのだ。
「私ばかり休んでは……」
異国で友軍が必死に戦っている最中なのだ。
ルノワール達の、ファウグストス親子の安否が気掛かりだった。
「何を仰いますか……いざという時に姫様が倒れられでもすれば、それこそ王国が傾きます」
「……テオ」
「何かあればただちにお声を掛けますので。どうか私のお願いを聞いて頂けないでしょうか?」
テオのカナリアを案じる真心を感じ取ったカナリアは、ゆっくりと息を吐き出す。
確かに睡眠不足のせいか、最近は考えも纏まりにくくなっている気がする。
「可能な雑務は全て私とコノハが片付けておきます」
「……ごめんね。少しだけその言葉に甘えようかしら」
そうしてカナリアは二人の側近に見守られながら、執務室のソファで横になった。
限界が近かったのか、彼女の眠りはすぐに訪れた。
すやすやと眠るカナリアを優しい眼差しで見つめたテオとコノハは早速書類の整理を始める。
少しでもカナリアの負担を減らしてあげたかった。
そんな彼女の苦悩を促進させる報告が訪れたのは――それから3時間後の夕刻だった。
☆ ☆ ☆
メフィス帝国から齎された宣言。
それは紅牙騎士団からの作戦推移の結果報告よりも素早くやって来た。
「『宣戦布告』……!」
二人の従者に起こされたカナリアは即座に玉座の間に座る父親の元を訪れていた。
「これはメフィス帝国から正式な宣言らしい」
力無く茫然と言葉を紡ぐラージ国王。
彼の周囲では当惑した様子の貴族と王族の面々が居た。
そんな中でカナリアだけが、真っ直ぐに言葉を返した。
「あちらは何と?」
「ありきたりな宣言だ。デロニアが攻め込まれた時と同じだな。天下に覇を唱えるべく宣戦を布告する、と」
その言葉を聞いて、カナリアは既に眠気など吹き飛び、完全に覚醒していた。
「こちらからの使者は?」
ミストリア王国側から既に何度かメフィス帝国との友好を確認するべく使者を使わしている。
「いつも通りだ。駄目だよ。全く何にも相手からの情報は引き出せない。なしのつぶてだったらしい」
「……どう対応なさるおつもりですか? オードリー大将軍はこの宣言を御存知で?」
「無論だ。むしろ最初に報告を持って来たのが外軍だからな」
そのような情けない事でどうする、とカナリアは内心で思ったが、自分も同類だ、父親を責める訳にもいかない。
「はは、流石は我が国の将軍だな。既に防衛網は構築済みだと先程情報が上がって来た」
そんな事はカナリアはとうに知っている。
むしろオードリー大将軍はユリシアと連携して、メフィス帝国がデロニアに宣戦布告を開始してからずっと気を張って、準備を整えて来ている筈だ。
彼らの手腕を疑ってはいない。
(落ち着きましょう。いずれこうなる事は分かっていた事。そして準備がまるで出来ていない訳ではない)
「では王宮側、内軍からも援軍を出しましょう」
「なに? そんな事をすれば国内の警備はどうする?」
「全てではありません。余剰戦力を充てるのです」
だがカナリアの提案には誰もが苦い顔をしていた。
内軍は貴族と密接に繋がっている組織だ。
貴族達に対して王族が命令を下すのは気が引けるのだろう。
「貴族達の神経を逆撫でしない為に機を逃すのは愚かな事です」
「だ、だが外軍と内軍は……」
仲が悪い上に練度が違い過ぎる。
かえって悪影響が出るのではないかとラージは懸念していた。
しかしそのような事はカナリアは考慮済みだ。
「もちろんお父様の仰る事も理解出来ます。ですので、物資の搬送だけを担当してもらいます」
「は、搬送?」
「その通りです。何も戦場に立つだけが戦ではありません。主戦場になると思われるのは王国と帝国との国境線沿いですが、全ての補給路を国境線付近だけで賄う事は難しいでしょう。また、外軍のような精鋭達に余計な負担を掛けたくは無い。故に内軍には外軍を補佐する補給面で人員の捻出をお願いするのです」
臆病者揃いの内軍であっても、物資の運搬ぐらいは任せられるだろう。
それも動くのは主に国内の話だ。
「これは非常に重要な仕事です。補給は戦争の要ですから。それに戦争の際に自分達が一役買った、という事実を内軍にも与える事が出来ます。実際に戦場に赴かなくても良いのであれば、彼らにとっても悪くない話の筈です」
「お、おぉ……なるほど」
感心するようにラージは頷いている。
カナリアは澄ました顔で父を仰いでいた。
とはいえ今言った内容は。
(グエン様の入れ知恵だけれど……)
だが有識者から学んだ事を活かすのは何も恥ずかしい事では無い。
「そ、そうか。では物資の用意をさせなくてはな」
「御安心ください、お父様。既に大方の準備は整っています。後は内軍の出動を要請するのみです」
これで少なくとも外軍の負担を減らすことが出来る。
そして、今日帝国で行われている作戦の推移次第ではユリシアも戻って来る上に紅牙騎士団も戦線に参加出来るだろう。
そうなれば、また戦術の幅も広がるに違いない。
(大丈夫……戦える)
そう信じ、カナリアは拝礼すると同時に玉座の間から立ち去った。
☆ ☆ ☆
その日の夜、更なる悲報がカナリアの元へと届けられた。
その報告書の文面にはこう記してあった。
『デモニアス要塞――陥落』、と。




