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偽りのルノワール  作者: 小美里 戒
第5章 メフィス帝国
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第百八十九話 キース=オルフェウス

 

 その日、屋敷の使用人達は平時よりもいくらか緊張した様子だった。

 豪奢な馬車が一台。

 オルフェウス家の屋敷の門をくぐり、邸内へと走り込んで来たのだ。


 微かに残る雪の跡を蹂躙した馬車が玄関口の手前で停止する。

 すぐさま幾人もの使用人達が駆け付け、彼の到来を歓迎した。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 口々に告げられる挨拶に軽くキースは頷きを返すに留めた。


「ああ」


 時期に30歳を迎える筈だが、随分と若々しい容姿をしていた。

 しかし彼の眉間に寄せられた皺の数が、疲労の度合いを彩っている。

 顔付きにも覇気が無く、兎にも角にも休息を求めているようだった。


「あの人が……」


 キース=オルフェウス。

 現オルフェウス家の当主にして、帝国軍部における重鎮。

 将軍位こそ持ち得ていないが、参謀部として帝国軍に尽力してきた男。

 近年に至るまでは、帝国軍の中にいながらも周辺国との和平論調の強かった彼だったが、その心意気は今でも健在なのだろうか。


「モネ」

「……アトラお嬢様」


 振り返れば廊下の窓から当主の帰還を見つめていた小さな主人の姿が在った。


「お父様が……お帰りになったのね?」

「はい、そのようです」


 不安そうな気配を滲ませた彼女の瞳が微かに揺れる。

 僕の隣に並び立ったアトラお嬢様は神妙な顔付きで眼下を見下ろした。


「……」

「お嬢様、迎えに参りましょう」

「ええ……そうね」


 ぎゅっと拳を一度握り締めるアトラお嬢様。

 僕は少しでも彼女を勇気づけてあげたくて、その手を取った。

 視線を上げるアトラお嬢様に微笑みかける。

 

「……うん、大丈夫」


 階下へと降りてゆくと、丁度屋敷の玄関を跨いだキース様が帽子を取る所だった。


「お、お帰りなさい、お父様」


 小走りで駆け寄り、アトラお嬢様は微笑んだ。


「ああ」


 アトラお嬢様を見つめるキース様。

 己を見上げる愛娘の姿は一体彼の瞳にはどのように映っているのだろうか。


「ただいま、アトラ」


 キース様は一言、そう言った。

 それは使用人に対する口調と何ら変わりが無い。


「あ、あのお父様……」

「すまんな、アトラ。少しばかり疲れているんだ……」


 確かにキース様の顔色は悪い。

 その言葉には嘘は無いのだろう。


 だが、では。


「ぁ……」


 悲しげに言葉を噤んでしまったアトラお嬢様。

 僕は居たたまれなくなり、彼女の隣に並び立つ。


「……君は?」


 一目僕に目を向けるキース様。

 突然現れた見知らぬ人間を見つけたことで、彼の眼窩に紛れも無い警戒の色が宿った。


「お初にお目に掛かります、現在アトラお嬢様付きの使用人を務めさせて頂いているモネ、と申します」

「アトラの……そうか」

「あの、キース様」


 僕がなるべく感じよく話しかけようとするも、キース様は素っ気なく首を振ってしまう。


「先程アトラにも言ったがな。疲れているんだ」


 彼はそれきり興味を失った様子で僕とアトラお嬢様から視線を外すと、侍従長の導きに従って自室の方へと歩き始めた。


(ま、待ってよ……)


 え……だって……。


(今日帰って来たの、って……アトラお嬢様の誕生日を祝う為じゃ……)


 そう信じていた。

 彼が忙しく毎日を走り回っているのは知っている。

 途方も無い重荷を背負っているのだろう。その苦労は表情にも出ている。


 でも、だけど。

 それでも娘の為を想って帰って来てくれたんじゃ……。


 何か一言。


 言うべき事があるのではないのか。


「……っ」


 そうして僕が一歩を踏み出そうとした。


 けど。


「……アトラお嬢様?」


 僕の服の袖を掴んでアトラお嬢様はそっと首を振った。


「行こう、モネ」

「で、ですが……」

「……ね?」

「……」


(また……)


 あの微笑みだ。


 アトラお嬢様の強がった必死の笑顔。


 悲しさを呼び起こす――歪な微笑み。


 僕の嫌いなアトラお嬢様の表情だ。


「ほら、今日は雪が降っているわね」


 窓の外へと視線を向けてアトラお嬢様は言った。


「積もったら……いいね」


 自室へと歩み始める彼女の背中に僕は無言で従う事しか出来なかった。




   ☆   ☆   ☆




「……ふぅ」


 頭痛が収まらない。

 痛む頭を撫でつつ、眉間に手を当てた。


「もはやこの流れは……止まらないのか」


 レオナルドの勢いは留まる事を知らない。

 彼の言葉は帝国上層部では、既に宰相すら凌駕するかもしれない。それほどの権威を誇っている。

 自分とて長年に渡り帝国軍に身を捧げて来たが、もはや己の地位など形骸化していると言わざるを得ないだろう。


 どれだけ自分が掛けあっても何の意味も為さなかった。


(誰もがあの男に心酔している訳ではない……)


 むしろ多くの人間はレオナルドを忌避していると言ってもいい。

 だが、彼の暴力の影に怯え、反感の念を口に出せない。

 奴に逆らったが最後、家族を巻き込み、一族郎党皆殺しにされてもおかしくはない。

 いや……あの男ならば確実にやるだろう。

 本能的に誰もがレオナルドを恐れている……それを如実にキースは感じ取っていた。


 そしてそれはきっと……自分も例外ではない。


 怖いのだ。

 あの男が、どうしようもなく。


「私、は……」

 

 これほど無力だっただろうか。

 もう少し……もう少しくらいは足掻けるのではないか、と。

 そう思っていたが……現実は無情だった。


 このままで良い訳が無い。

 レオナルドの覇道の先にあるのは、どう考えても破滅への道筋に他ならないのではないのか。

 そんな予感がしてならない。

 彼の目指す先に帝国臣民の幸せが待っているとは到底思えない。


(いっそのこと……エンジ様に全てを任せてしまうか……)


 そんな弱気が釜首をもたげる。


「……疲れている、な」


 方々を走り回った挙句、何の成果も出せなかったのだ。

 疲労を感じない方がおかしい。


 その時。


「……誰だ?」


 鋭い口調で来訪者に告げる。

 扉をノックする音が聞こえるのと同時にキースは懐に忍ばせている筒状の魔法具に手を当てた。


 現在の帝国内部において、一体どこまでレオナルドの手の者が忍び込んでいるのかは分からないのだ。

 警戒心を常に働かせねばならない……これも彼の疲労を助長させていた。


「モネ、と申します」


 控えめに告げられた声は美しい。

 しかしキースの警戒心はより刺激された。


「誰も寄越すな、と厳命した筈だが」


 挨拶が目的だろうか。

 自分が確かに告げた侍従長への言葉を思い出しながら彼は言った。


「挨拶は必要ない」

「……あ、あの」

「私は誰とも話したくない、と言っているのだ」


 語気を強めるキースだったが、まるでそれに呼応するかのように扉の先の声も強くなった。


「どうしても……! お話したい事がございます」

「……」


(なんだ?)


 その声色はどこか切羽詰まっている様に感じられる。

 だが、その理由には特に思い至らない。


 そもそも彼女は最近になって屋敷にやって来たのだろう。

 彼が敵の手の者では無い保証も無い。


 そう。

 誰が敵でもおかしくはない。


 誰が――敵でも。


(敵、敵、敵、か……)


 ここは自分の国では無かったのか。

 ここは自分の屋敷では無かったのか。


 気付けば己の周囲には敵ばかりが蔓延っている。


(いつまでこれが続くのか……)


 己の安息は一体どこにある?


 まるで自棄になった様に彼は言った。

 

「……入れ」


 自分の言葉が僅かに信じられなかったが、それでも口から出た言葉は戻らない。

 キースの精神の摩耗は、ひどかった。


「あ、ありがとうございます! 失礼いたします!」


 そう言って入って来た使用人は背筋を伸ばし、真っ直ぐにキースの執務机の前まで歩き、静かに低頭した。


 初対面時には大した感慨も無かったが、こうして改めてその痩身を見つめると……。


(随分と綺麗な娘だ)


 素直にそう思った。

 だからどう、という訳では決して無かったが。


「何用だ?」


 ぶっきら棒な口調でぞんざいに告げる。


「……」


 すると彼女は寂しそうな表情でキースをじっと見つめた。

 同時に微かな憤怒の激情も見える。


(な、なんだ?)


 レオナルドの手先として襲いかかって来るような雰囲気では無かった。

 では何故、目の前の少女はこのような態度を取っているのだろうか。


「……これほど長い間、お屋敷を留守にして……何を為さっていたのでしょうか?」


 それは使用人が口を出すべき話題では無い。

 はっきりと言ってしまえば無礼な発言だった。

 同時にキースの中で更なる警戒心が沸き上がる。


「侍従長の教育が行き届いていないようだな」

「……」

「私が何をしていようと君には関係が無いだろう」


 もしかしたら本当にレオナルドの手先かもしれない。

 そう危惧したキースだったが続くモネの言葉は予想していたものとは随分と異なっていた。


「では……昨日が何の日か……お分かりですか?」

「……なに?」


 昨日?


(昨日が……何だと言う?)


 昨日も昨日とて走り回っていたキースだ。

 そろそろレオナルドは本格的にミストリア王国に攻め入る準備をしていると見え、もはや猶予の許されない状況だ。

 そんな中……昨日は何か特別な事があったか?


「さて、な……特に心当たりはないが……」


 彼がこう言った直後。

 モネは今にも泣きそうな表情になった。


(な、なんだ、一体?)


「本当に……本当に何も……心当たりは無いのでしょうか?」


 切実は声色で彼女は言う。

 必死な問いかけに対しても、キースは正直に言った。


「ない。話はそれだけか?」


 素っ気なく突き放すようにキースが答えると、次の瞬間――モネの瞳が見開かれ、激昂した。



「昨日は……アトラお嬢様の、誕生日です……っ!!」



 大声で目の前の使用人は告げた。


「な、なに?」

「どうして大事な一人娘の誕生日を……覚えていらっしゃらないのですか!?」


 そこに来て、初めてキースのポーカーフェイスにも動揺の色が走った。


「アトラお嬢様が昨夜……一体どのようなお気持ちでいらっしゃったか……御想像が出来ますか?」


 その言葉を聞きながら茫然とした表情でキースは佇む。


「……」


 誕生日。

 誕生日、か。


(そうか、アトラの……)


 それどころではなかった、と言い訳をしたい所ではある。

 キースはそれこそ帝国の将来を憂い、行動をしているのだ。


 だがそれでも。


「昨日の貴方には……娘よりも大切な用事があったのですか?」


 慇懃ではあっても責めるような口調。

 まるで自分が罪人となった気分だ。

 いや、確かに浅慮だったのは自分だろう。


 しかし、では、どうしろと?


 ささくれ立ったキースの胸の内に怒鳴り出したい衝動が沸き上がった。

 たかだか使用人ごときに何が分かる?


 何もかも。

 何もかもが上手く行かない。


「あの御方は泣いておられましたよ……それでも必死に作り笑いを浮かべて……」


 己の無力を噛み締めるばかりで。

 レオナルドの高笑いが浅い眠りを繰り返す度に彼を襲っている。

 そんな中、必死に、もがき、苦しみ、それでも帝国の為に、と。

 身を粉にして働いているのだ。


 祖国を思って行動しているというのに……苦しみは増すばかりの毎日。


 昨日今日やって来たばかりの使用人に一体キースの心の何を理解出来ると言う?

 彼女が何を知っていると言う?

 身の程を知らずに喚くばかり……そんなことは誰にだって出来るのだ。


「アトラお嬢様は……っ」

「っ!! しょうがないだろう!?」

「ぇ……っ」


 気付けばキースの口からは怒鳴り声が響いていた。

 アトラに対する配慮が足りなかった、それは分かったがそれでも……これ以上黙ってはいられなかったのだ。

 普段ならばこんな風にみっともなく感情を爆発させたりなんてしない。


 しかし、この時のキースはそれほどまでに追いつめられていたのだ。

 彼には余裕など……どこにも無かった。


「戦争が起きる! またしても! それもあの男の力で!!」


 どれだけ止めたくとも、止められない。

 己の手の平では何一つ成し遂げられない。


「……」

「デロニアと帝国の戦場はさながら地獄だった! まるで快勝のように謳われてはいるが、不幸になった人間が無数にいるのだ! 奴の……奴のせいで奪われたのは何も敵の命ばかりではないのだぞ!」


 キースは知っている。

 自国の兵士達の無残な死を。

 そして、レオナルドに対する反感を抱いたが故に、戦場とはまるで関係の無い場所で命を失った者達を。


 あの悪魔の……恐ろしい微笑みを。


「ミストリアは大国だ! デロニアのようにはいかない! それでも奴は戦え、と言う。殺し合えと言う! 己の欲望の為だけに!」


 犠牲は計り知れないのだ。

 そもそも勝利した所で一体誰が幸せになると言う?

 なりはしない。

 戦争など……不幸を生むばかりじゃないか。


「このままでは……っ」


 このままでは。

 このままでは。


「滅びの道が待っているのだ! だから私はそれを……っ!!」


 使用人相手に口走る内容では無い。


 しかしもう……疲れ果てた男の慟哭は止まらなかった。


「キース様は……戦争を止めたいのですか?」

「誰が戦争を望むという。そんなのは……レオナルドだけで十分だ……」


 それはキースの立場を踏まえれば、あってはならない失言であったことだろう。


 だが。


「……!」


 その言葉。

 レオナルドに対する反感。

 その言葉を聞いた瞬間。


 モネの瞳に輝きが宿った。


 しかし俯いたキースはその事に気付きはしなかった。

 話してしまった後悔、そして己のみっともなさを噛み締め、彼は無言で佇んでいる。


「アトラお嬢様……」

「……」

「最近……鳥籠が少しだけ壊れてしまった、と嘆いておられました」

「なに?」


 突然何の話だろうか。

 そう訝しんだキースが顔を上げると、先程よりは幾分か表情の和らいだモネがいた。


「いいですか? 明日まで、いえ今日中に、アトラお嬢様の為に……鳥籠をプレゼントして差しあげると……彼女はとても喜ぶと思います」

「何を言っている?」

「まだ……間に合うと思います。一日遅れでも……どうかあの御方の誕生日を祝って頂けないでしょうか?」

「そ、それは構わんが……」


 無論、気付いた以上は愛娘の誕生日を祝う事に何の不満も無い。


「私には親の気持ちは分かりませんが……私の知り合いの母親はよく言っておりました」


 そこでモネは一度目を伏せ、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「娘の顔を見ていると……娘の笑顔を見ていると……不思議と元気が沸いてくる、と。どれだけでも頑張れるんだ、と」


 とても優しい表情で。

 嘆き苦しむ父親に言い聞かせるように。

 モネは言った。


「アトラお嬢様の笑顔は……旦那様の力には……ならないのでしょうか?」


 慈愛に満ちた声が疲れ果てた男の心の中に流れ込んでくる。


「君、は……」


 気付けば不思議と目の前の少女の言葉に聞き入っていた。


(……考えてみれば)


 妻が死んでしまってから……具体的な事は何も無いにしても……娘との間に溝が出来てしまっているような気がする。

 そして、最近は特にそれが顕著であり……アトラの事を想う余裕などほとんど無かった。

 娘が本気で笑った顔など……一体いつ見た事だろうか。


「……」

「差し出がましい事を申し上げました。私が今日旦那様に告げたかった事は以上です」

「そう、か」


 黙りこくってしまったキース。

 そんな彼を見つめつつ、モネは遠慮がちに言った。


「あ、あの……失礼致します」


 踵を返したモネの背中に向かい、


「モネ、と言ったね」

「は、はい」


 キースは一言。


「少しだけ……気分が良くなった。感謝する」


 それだけを告げ、彼は去ってゆく使用人を見送った。

 





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