第百八十六話 呪われし少女
その報告はとてもモネが無視出来るような内容では無かった。
心中穏やかではない彼女は絞り上げるように声を洩らす。
「そ、それで屋敷は……っ」
ファウグストス家はモネにとって、とても大切な場所だ。
彼女は蒼白になった顔でリィルを見下ろしていた。
「……」
一度言葉を区切ったリィルであったが、すぐに口を開いた。
この時のモネはリィルが一瞬、逡巡した様子で口元を動かした事に気付かなかった。
「……なんとか無事の様です。詳細は聞いておりませんが、ビロウガさんとシリーさんが奮闘した、と」
その言葉を聞いてモネは思わず胸を撫で下ろす。
「そ、そう……良かったぁ」
流石はファウグストス家の侍従長達だ。
彼ら二人の実力はモネも良く知っている。
「主だった報告は以上です。また何か緊急の連絡があれば参ります」
「うん、分かった。ありがとう、リィル」
頼れる戦友に感謝の言葉を述べた――その時。
「うっ、うわぁあああああああああああっ!!」
突如、お店の中から絶叫が聞こえて来た。
ただならぬ気配と共に響いてくるのは狂騒。
「……ぇ?」
モネは一瞬首を傾げたが、唐突に沸き上がる勘が彼女に警鐘を齎した。
(アトラお嬢様……っ!?)
一瞬だけ感じた微かな魔力。
しかし既に雲散霧消し、消えた気配についてモネが思考を巡らせる暇は無かった。
☆ ☆ ☆
「アトラお嬢様っ!」
叫び声と共に店内へと舞い戻ったモネ。
彼女の眼前には予想外の光景が広がっていた。
「お嬢……様……?」
店内を照らす為に天上にぶら下がっていた魔石が地面に落ちている。
その衝撃のせいか、一つのテーブルがひしゃげ、近場にあった椅子の足が割れていた。
それだけに留まらず、数々の料理の残骸が店内の床に散らばっている。
そして最も目を引くのが――。
「う……ぁ……」
呻き声を上げる少年だ。
恐らくテーブルの破片が飛び散ったのだろう。
木片が左肩に突き刺さった一人の少年が蹲っている。
彼は痛ましい鮮血を零しながら、恨めしげにアトラを見上げていた。
その眼差しには紛れも無く憤怒の色があり、目尻に浮かんだ涙を必死に堪えているように見える。
「……ぁ」
少年の対面には、呆然と立ち尽くすアトラが居た。
「お前のせいで……っ!!」
「っ!!」
何が起こったのかはモネには分からない。
しかし店内にいる人間の誰もがアトラに恐れるような眼差しを向け、少年は吠え声を上げていた。
「外に出て来るなよ!! この悪魔め!!」
アトラに対する罵倒。
その怨嗟の声色が、彼の感情と共に店内に広がってゆく。
状況は未だに呑みこめていないが、流石にモネもいつまでも看過出来るものではない。
「お嬢様……」
素早くアトラの傍に駆け寄り、モネは小さな肩を抱いた。
「モネ……」
今にも泣き出しそうな顔でアトラは己の従者を見上げる。
「わ、わたし……」
「大丈夫です」
「で、でも」
何が起きたかは分からない。
どうして誰もがアトラに対して敵意を向けているのか。
少年が傷を負っているのか。
状況は不明点ばかりだ。
でも。
だとしても。
「大丈夫です」
再度力強く、モネは言いきった。
アトラが泣く姿は――見たくない。
「ナーゼさん」
モネが隣に居たナーゼに顔を向けると、そこにはやはり居心地悪そうに、不気味な者を見る瞳でアトラを見つめる女性の姿が在った。
「出てってくんな」
店長と思しき強面の男性がモネ達の傍までやって来るなり、そう言った。
「状況を……」
説明して下さい、と。
そう言おうとしたモネであったが、その袖口が弱々しく引かれた。
視線を落とすと、アトラが軽く首を振っている。
「……お嬢、様?」
「オルフェウスの娘か……噂に違わぬ惨事だな」
冷たい表情で店長は続けた。
「……ぇ?」
「見るのは初めてだが、話には聞いている。呪いの噂なんて立ったら商売が成り立たん。さっさと出ていけ」
「ちょっと……それは横暴では……っ」
モネは尚も言い募ろうとしたが、周囲の視線がそれを遮った。
そして実際に荒れ果てた店内の様子を改めて見る。
(まさか……これがアトラお嬢様のせいだと……?)
馬鹿な、有り得ないと叫び出したい気持ちだ。
俄には信じられず、また納得のいかないモネであったが。
「モネ! いいから……」
一層強く。
アトラがモネの袖を引いた。
「お、お嬢様」
「お代はいらない。出ていけ」
強い眼差しで言われ、アトラは俯いたまま、小さく呟く。
「ごめん……なさい」
何故アトラが謝るのか。
モネはもう一度だけ、店内の人々に目を向けた。
そして彼女は気付く。
彼らの表情には敵意や恨みといった感情以上の――恐怖が宿っている事に。
「っ!」
結局怒鳴る事もせず、去ろうとする主人をモネは慌てて追い掛けた。
☆ ☆ ☆
屋敷に帰って来るまでの間、アトラは一言も話さなかった。
何度か会話を試みようとしてみたが……彼女の背中は一切の会話を拒絶していた。
それでもいつまでも放っておく訳にはいかない。
屋敷に帰り、しばらく経った後。
意を決した僕がアトラお嬢様の部屋の扉をノックした。
だが。
「入って来ないで!」
叫ぶような声でそう言われ、立ち尽くす事しか出来なかった。
「入って……来ないで……」
一人にして欲しい、ということなのだろう。
彼女の言葉に逆らう術を僕は持ち合わせていなかった。
「ナーゼさん」
肩を落としつつも、僕は屋敷の使用人の一人を訪ねた。
「あぁあぁ。やっぱり嫌な目に遭ったねぇ」
「何が起きたのですか?」
僕はあの時、現場を直接見ていなかった。
「あぁ……あの場所を見ただろう? 落ちて来たのさ、天上から魔石が」
「そ、それだけ、ですか? というか……あの少年は?」
「街の子供でしょ。名前なんか知らないけど。街の子供達は遊び感覚でアトラお嬢様を悪魔の子だ、って虐めるからね」
(何だ……それ)
アトラお嬢様の一体何を知っていると言うのだ。
「何もしてないのに……ですか?」
「何もしてない、ね。本当に何も起きないんだったら、こんな風にはなってないんだろうね」
「……あの魔石が落ちて来たのがアトラお嬢様のせいだと?」
「貴女は状況を見てなかっただろうけど……」
そう言ってナーゼは話し始める。
「まぁ、あの男の子がアトラお嬢様に気付いたんだよ。それで話し掛けて来た訳」
「……」
「『なんで悪魔の子が人間の街に出て来てるんだ』ってね」
心がざわつく。
(ひどい……)
そんな事を子供が言ったのか。
「まぁアトラお嬢様を知っている人は大人も子供も似た様な反応をするからね。罪悪感の類も子供は感じないんでしょ」
大人であれば、近寄りがたく思い、距離を取るだけ。
しかし子供は面白半分にからかいたくなるのだろう。
浅慮なだけに残酷であり、性質が悪い。
「今に始まった事じゃないんだよ」
「周囲の人は……誰もアトラお嬢様を助けようとは思わないのですか?」
例えばそう……父親であるキース=オルフェウスは現状のアトラに対する扱いをどう感じているのだろうか。
「御館様はあんまり干渉なさらないねぇ」
「娘の事が心配では無いのですか……?」
「うーん、どうなんだろう。お嬢様を愛している素振りはあるんだけど……必要以上に構う事はないかな。それに最近はなんだか……」
「本当に愛しているのなら……っ!」
(どうして何もしてあげない……っ!)
いくら自制をしようとしてみても。
ささくれ立つ心はどうしようもなかった。
「……御館様の気持ちは私には分かんないよ、悪いけどね」
「ぁ……その、ごめんなさい」
「ふぅ……続きを話すよ。んで、その子供が面白半分にアトラお嬢様に悪口を言ったけれど……アトラお嬢様も罵倒には慣れているからね……言い返す事もなく、じっと耐えてた」
その時、言おうか言うまいか、悩んだ様子で一度だけ口を噤んだナーゼさん。
「あの時……1回だけお店の裏口の方に視線を投げ掛けていたよ、お嬢様」
「……っ!」
「多分……貴女に助けて欲しかったんでしょうね」
その言葉を聞いて僕の胸が痛んだ。
(アトラ……お嬢様……)
キースの事を悪く言う資格が僕に在るのか?
何もしてあげられていないのは自分も同じではないか。
「何もお嬢様が言い返さないのをいい事に、あの子が調子に乗ってね。アトラお嬢様の髪を掴もうとしたんだよ」
「なんですか、それは!!」
僕の怒りはまたしても燃え上がったが、ナーゼさんの話す語調が少しだけ変わった。
まるで……何かに怯えるように。
「で、その時、さね」
ナーゼさんは僅かに肩を震わせた。
「急に悪寒が走ったんだ」
「……悪寒、ですか?」
上手く言葉には出来ないのだろう。
ナーゼさんは彼女自身困ったような表情のままに話を続ける。
「そうとしか言えないの。なんだか店内に嫌な気配が満ちて……次の瞬間、天上の魔石が落ちて来て、テーブルが壊れた。そして狙いすましたように破片があの男の子の肩に突き刺さったんだよ」
「それが……呪い? アトラお嬢様のせい、だと?」
「分からないけど……アトラお嬢様には何かの魔術を使った様子なんて無かった。でも急激に変な雰囲気になったのは気のせいなんかじゃないと思う。そしてあんまりにもタイミング良くあの男の子が酷い目に遭った。アトラお嬢様には傷どころか、飛び散った料理の破片の欠片すらも付いていなかった」
「……そんな、ことで」
下らない、と一笑に付したい所ではある。
しかし。
「これが今回限りの出来事であれば、笑い話に出来るかもしれないね。でも私達は知ってる。今までにもアトラお嬢様の周辺では同じような事が無数に在った事を」
「……」
結果的にアトラお嬢様を罵倒した男の子が怪我を負い、店側に多少の被害が出た。
僕としては男の子に天罰が下っただけとしか思えないが、アトラお嬢様にしてはそうもいかないのだろう。
自分のせいで誰かが傷付いたかもしれない。
そして悪意を向けられ、あのような視線に晒される。
未だ7歳の少女の受ける仕打ちとしては、あんまりにも酷だ。
「その後は、貴女が来て……一瞬だけアトラお嬢様は安心したような表情になったけど、すぐに暗い顔に戻った」
「そう……ですか」
少なくとも何が起きたかは分かった。
「御説明……ありがとうございました」
「……」
「どうか……しましたか?」
じっと僕の顔を見つめるナーゼさんの声色は何故だか優しかった。
「いえ……貴女、今にも泣きそうな顔をしているから」
「そう……ですか」
踵を返そうとした僕を呼び止めるように。
「あのね、モネ。アトラお嬢様はいつもこういう事があった後はしばらく一人になりたがるけど……一日休めば、少しは元気を取り戻すよ、だから」
「はい、ありがとうございます」
同僚の慰めの声を聞きながら。
(そういった想いやりは僕じゃなくて……)
アトラお嬢様にこそ向けて欲しい。
心の底からそう思った。