第十九話 陽溜りの公園で
アゲハは王国最大の大都市である。
住宅街や道路も整備されている上、セントラルストリートを中心とした商店や市場も盛況だ。
著名な建築家の手による全長30mを超える巨大な塔や、彫刻家が魂を込めた珠玉の女神像、その他諸々の芸術作品も街並みを彩っている。
しかしそればかりではない。
絢爛豪華な街並みの中にも休息を取るための憩いの場は必要である。
雑多なだけでは、観光客にとっては楽しくても暮らす人々にとっては息苦しさを感じずにはいられない。
とりわけ高齢になればなるほど、そういった反応は顕著になるものだ。
今日メフィルとルノワールが訪れた公園。
この場所もそんな憩いの場の一つだった。
☆ ☆ ☆
「良い場所ですね」
周囲を見渡しながらルノワールは言った。
アゲハの中でも最も大きな公園であり、名前はペルモ公園という。
なんでも当時、近隣に屋敷を構えていたレディ=ペルモ伯爵が私財を投げ打って作った公園だそうだ。
何故作ったのかについてはいくつかの噂があるが、最も有力な説としては、当時の当主であったレディ伯爵が孫娘の誕生日祝いに公園をプレゼントしたという話がある。
本当かどうかは定かではないが、もしも事実だとしたら、なんとも豪快なお金の使い方だと思う。一般にも公開している公園でもあるし、レディ伯爵がケチでないことだけは確かだ。
昼過ぎということもあり、子供達がはしゃぐ声が響き渡り、中央の噴水の周りのベンチでは年配の方々が談笑している。
時期的にまだ開花には至ってはいないが、手入れの行き届いたサクラの木が並木道に連なっていた。これらの木々はもうすぐ蕾を花開かせ、公園を美しい桜色に染め上げることだろう。
天気の良さも相まって、何気なく吹く風すらも心地よく感じられる。
そんな陽気で平和な昼下がり。
春風を全身に浴びながら両腕を伸ばし、私は思いっきり伸びをした。
「う~んっ……なんというか」
悪くないわね、と思った。
公園もそうだし、連れ合いも悪くない。
隣で耳元の黒髪をかきあげながら、目を細めて公園を見渡す護衛の少女の姿は、本当に絵になっている。
ルノワールと一緒に歩いていると道行く人々の視線を彼女が引きつけていることに最近気づいた。
それは男性ばかりではなく、女性もだ。
若々しくスタイルの整った美貌に愛らしい小顔。
更には洗練された佇まいと、漲る覇気が合わさることでルノワールは常人ならざる存在感を放っている。
その存在感が威圧的では決してないところがまた不思議な少女だった。
「じゃあこの辺りでいいかしらね」
私は公園の南方の小さな丘の上に腰を下ろそうとした。
「ではこちらを」
ルノワールは私の座る位置に、服が汚れないようにシートを置き、脇に挟んでいた画板を手渡してきた。鉛筆などの軽い荷物は自分で持っている。
「本当に……久しぶりだわ」
「写生がですか?」
「それもだけど……こんな風に外で誰かと一緒に絵を描くことが……かしら」
昔は時々ビロウガやシリー、それから極希にではあるけれどお母様と一緒に絵を描くこともあった。
でも……いつ頃からか、全くそんなことはしなくなっていた。
「……なんでかな」
思わず呟きが漏れた。
「……お嬢様?」
私の呟きに敏感に反応したルノワール。
しかし私は彼女の問いには答えず、頭を振った。
「なんでもないわ……あ、絵を描き始めたら、必要なこと以外ではあんまり話しかけないでね」
「は、はい。承知致しました」
「……」
(きっと)
成長したからだろう。
私は絵を描くことが好きだったけれど、皆はそうではなかった。
なんだか私一人の都合に皆を巻き込むことが申し訳なくて。どこか遠慮を覚えてしまった。
(だから私は一人で絵を描くようになったのかな)
それでも私は十分だったし、それこそが正しいと思った。
「……」
ちらり、と横目で従者の様子を伺う。
彼女は真剣な表情で鉛筆を滑らせていた。
だけどルノワールは……真剣なだけではなくて。
(なんか……すっごく楽しそうね、この子)
傍で見ているだけで彼女が楽しんでいるのが分かる。
ルノワールは私の絵を見るときはいつだってすごい目がキラキラしているのだけど、どうやらそれは絵を描いている時も同じであるらしい。
更には。
「~~♪」
鼻歌まで!
(ご、ご機嫌だなぁ~、この子)
なんて思いながら、こっそりと眺めていると。
「……む」
(あ、止まった)
何やら思うように描けないらしく眉間に皺を寄せている。
かと思えば急にまた嬉しそうな顔になったり、今度は悲しそうな顔になったり。
なんとも忙しい子だ。
まるで百面相である。
(……っといけない)
ルノワールを見ているのは楽しいけれど、ここは私もちゃんと絵を描きましょう。
彼女に失望されるようなみっともない絵は描きたくない。
いつもよりも心なしか弾む鉛筆の音。
この時の私はまだ、自分の心の小さな変化に気づいていなかった。
☆ ☆ ☆
「ふぅ……」
私が一息つくと、隣のルノワールも鉛筆を置いた。
彼女の手元をそっと覗く。
「へぇ……なんだ上手じゃない」
「そ、そうですか?」
「えぇ、素直にそう思うわ」
ルノワールの絵はこの丘からの景色を忠実に再現していた。
はしゃぐ子供達。
微笑む老婆。
噴水の水が宙で輝き、太陽の光に照らされた木々が風に揺れ、僅かに葉を散らしていた。
丁寧な線でそれらをしっかりと形にしている。
絵が好き、というだけあり彼女の技術はかなり上等なものだと思う。
これは本音だ。
ただなんというか……少しばかりつまらない絵ではある。
丁寧なのだけど単調というか。
彼女の個性が感じられない。
まぁ今回は写生なのだから、それが当たり前なのかもしれないけれど。
だがやはり芸術家たるもの、たとえデッサンであっても自分の『色』を出せるように心掛けることは重要だと思う。
「でもやはり……お嬢様は素晴らしいです……」
彼女は私の絵を覗き込んで言った。
「まぁ写生ではなくなっちゃってるけどね」
そう、これは断じて写生ではない。
「いえ……お嬢様のような絵をいつか描けるようになりたいです」
輝かしい表情で呟きながらルノワールは自分の描いた絵を見つめた。
「私の絵はなんというか……ひどく退屈な絵なので……」
落ち込んだように言う彼女の表情は寂しげだ。
「それに比べてお嬢様の絵はやはり……心を惹きつける何かがあります……」
ルノワールはしみじみとそう言った。
☆ ☆ ☆
やはりすごい。
お嬢様は天才だ。
確かに写生ではなくなっているが、そんなことはどうでもいい。
彼女がこの景色から得たインスピレーションを形にするとこうなるのだろう。
彼女の描いた絵は一人の少女が中心にいる絵だった。
ベンチはこの丘から見下ろした場所にある噴水付近のものだろう。
現実では咲いていないサクラの花が、絵の中では舞い散るようにして咲き誇っている。写生では無いかもしれないけれど、構図はちゃんと公園を参考にしてあった。
お嬢様の想像の世界。
その絵は。
一人の少女が憂いを帯びた表情でベンチに座り、サクラの木を見上げている。
彼女は手のひらをそっと持ち上げていた。
舞い散るサクラの花びらを手のひらに乗せるように。
しかし手のひらに乗る直前で花びらは風に飛ばされ去っていく。
少女の表情は、その花びらを惜しんでいるようにも見えたし、別の悲しみを紛らわそうとしているようにも見えた。
全体に花びらが舞っており、その中心で儚げに佇む少女の姿は例えようのないほどに幻想的だ。
まるで世界には彼女しか存在していないかのような神秘性がある。
ただ――。
「あの……」
「なぁに?」
「大変素晴らしい絵なんですが」
「ん?」
「この絵の少女……もしかして」
「そそ……貴女をモデルにしたのよ」
そう。
その幻想的な少女、というのがズバリ僕の姿なのだ。
そこだけが!
そこだけが唯一残念だった!
「そ、そうですか」
ぎこちなく頷いたからだろう。
メフィルお嬢様は少しばかり遠慮を見せつつ僕を見上げた。
「嫌だった?」
「えぇっ? い、いやではないですがそのぉ……私などがお嬢様の絵に登場するのはどうなのかなぁ、と」
肩を縮こまらせながら僕がボソボソと呟くと彼女は楽しそうに笑った。
「ふふ。いいモデルよ、貴女は」
「きょ、恐縮です……」
ま、まぁいっか。
お嬢様は満足そうだし。
ここで僕が水を差すことはない。
今日は僕も久しぶりに絵がかけて満足。
お嬢様の絵も見られたし言うことはない。
自分の女装(?)がモデルになったからといってなんだというのだ。
それに。
「ふふっ」
メフィルお嬢様が笑っていた。
昼間は何やら落ち込んだような様子で佇んでいた彼女が今笑っている。
それだけで十分じゃないかと思う。
一緒に外に出てきた意味はあった。
そう思いたい。
「大分日も沈んできたわね」
お嬢様が沈みゆく太陽を見ながら言った。
彼女の言う通り。
じきにこの公園も赤い夕暮れに染まっていくことだろう。
お嬢様の絵は……夕暮れの風景を見ながら描くと、また別の姿になるのだろうか。
それは一体どんな世界なのだろうか。
「……あの」
「ん?」
「もしもお嬢様がよろしければ……また今度一緒に絵を描くために出掛けるのは如何でしょうか?」
僕はそう言った。
これは僕の我侭。
護衛という役目を与えられていながら、外出を積極的に促すなどとは言語道断だ。それもお嬢様の意志ではなく、僕の意志で。
だけど。
彼女が絵を描く姿をもっと見たいと思った。
彼女の描く世界にもっと触れたいと思ったから。
彼女と一緒に絵を描くことが楽しいと思ったから。
だから。
「……そうね」
彼女は髪をかきあげながら言った。
「ねぇルノワール」
「はい」
「実は私って箱入り娘なのよ」
「は、はぁ……」
いきなり何の話だろうか。
そうは思ったが僕は黙って話に耳を傾けた。
「貴女は前に言ってたわよね? 大陸中を旅していた時期がある、って」
「はい」
「私は滅多に王都から出ることはない。時々お母様の都合や旅行で外に出ることはあるけど、そんなのは極希だわ。私は王国内であってもアゲハ以外はほとんど知らない。だけど世界にはまだまだ私が見たこともない動物がいて、自然があって、文化があって、人がいる。……正直なこと言うとね。ずっと憧れてた」
お嬢様は自嘲げな笑みを浮かべて続けた。
「もっともっと世界中を見て回りたいと思っていたけど、立場上それは難しいわ。安全の問題だってあるし、普通はこの年頃の子供なんて皆学校に通って学ぶことが当たり前で……将来的にはそれが必要なこともわかってる。ファウグストス家次期当主に学がない、なんて世間体が悪いじゃない? 実務上問題だってあるだろうしね。好き放題には生きられない」
なんだか。
メフィルお嬢様の横顔はとても寂しげだった。
「……お嬢様」
「若く見えてもビロウガもシリーももう結構な歳だしね。お母様は忙しいし、我侭は言わないようにしてた」
だけど。
「貴女と一緒なら……もっと外の世界を見てもいいのかな」
そう言った。
「それは……」
「もうすぐ学校始まるし、そんな長期間出かけるわけじゃないわ。そうじゃなくても、そうね。休日にちょっと国内旅行に気軽に出かけたり……そんな程度でいいの。旅行先で見たものを、今日みたいに絵で描いて……そんな――」
「お供致します」
早口になってきていた彼女の言葉を遮って僕は言った。
誇り高く聡明な我が主人。
彼女は貴族としての心構えを違えない。
公爵家に生まれた者としての責任を理解し、いつの日か自分の役目を果たすために日々学び、成長をしているのだろう。
それでもやはり彼女はまだ10代の少女なのだ。
もっともっと広い世界を見たいと思うことの何がいけないのか。
「貴女の安全、貴女の自由を守るために私はここにいるのです。お嬢様が望むのでしたら、私はその願いを叶えるべく最善を尽くしましょう」
「……」
目を丸くしているお嬢様に僕は微笑みかけた。
「学生が終われば、お嬢様はきっと今以上に自由が無くなるでしょう。今が最後のチャンスかもしれないんです。だったら可能な限り自由を謳歌しましょう!」
僕はわざと、殊更大袈裟に彼女に言った。
「……そう。そう、ね」
お嬢様は手元の絵を見下ろし、ついで空を見上げ、最後にもう一度僕を見た。
「ふふっ」
「お、お嬢様?」
「いや、なんでもないわ」
えぇ?
そんな意味ありげに微笑まれたら気になりますけど。
「そ、そうですか?」
僕が戸惑っているとメフィルお嬢様は静かに言った。
「……護衛なんて真っ平ごめんだわ」
「えっ……」
(そ、それは……)
僕が内心動揺していると、それを見透かしたように彼女は舌を出した。
まるで悪戯をした年相応の少女のように。
「なーんて。そんな風に思ってたんだけどな……」
楽しそうにクスクスと笑いながらお嬢様は言った。
その顔には先ほどのような自嘲げな笑みはない。
もっともっと。
ずっと爽やかで素敵な笑顔だった。
「今度は街の外にでもルノワールに連れて行ってもらおうかしらね」
そう言いながら立ち上がったお嬢様を見上げながら僕は、
「お嬢様が望まれるのでしたら」
低頭し、そう言った。
メフィルお嬢様の笑顔を見ながら。
きっと僕も同じように微笑んでいたと思う。