番外編 看護されるルノワール
「ん……」
眠りから目覚め、ゆっくりと瞳を開く。
昔から寝起きの覚醒は早い方だ。
もぞもぞと蠢く気配をすぐ傍に感じた僕は、視線をベッドの脇へと向ける。
そこには真ん丸な瞳で僕を見つめる子猫達が居た。
「にゃあ」
右から順番にルビー、サファイア、パールと続き、その隣には子猫達と同じようにベッドに顔を乗せているイリーさんの姿が在る。
「にゃあ」
「にゃー」
「にゃぁ」
「にゃ……にゃあ?」
子猫達がまるで示し合わせたかのように鳴き声を上げるものだから、イリーさんも小首を傾げながら頬を染め、にゃあ、と言っていた。
「ふふっ。別にイリーさんが仰らなくても」
なんと可愛らしい。
意識する事無く思わず微笑みが漏れていた。
彼女は照れた様子で頬を染めたまま、心配そうな表情で言った。
「お加減は如何ですか?」
床に伏す己の身体を確かめる。
「んー。体中がだるいですが、そんなに痛みはないですね」
施術が余程完璧だったのか、麻酔が効いているだけなのかは分からないけれど。
「そ、そうですか?」
「はい。なんなら今すぐ起き上がっても」
僕が軽口をたたくとイリーさんは飛びあがって言う。
「だ、だめですよっ! ルノワールさん、自分がどんな状態だったのか分かっているんですか!?」
「へっ?」
「だってだってっ! あんなふうにお腹に穴が開いて……血が、血がドバーッ! って! すごかったんですから!」
ふとお腹が貫かれた瞬間を思い出す。
(あの時は確かに痛かったなぁ)
「……ふふ、確かにあの時はそうでしたね」
「る、ルノワールさんが何でそんなに平然としているのかが分かんないです」
「まぁ自慢できる事ではありませんが……荒事は何度も経験しておりますので……って、ひゃっ!」
僕が目を覚まし、話し始めたことで子猫達が一斉に僕に向かって歩き出した。
小さな肉球をまるで押し付けるように僕の顔をパンチしている。
それは全く痛くはなく、この子達はじゃれているだけだろう。
三匹の子猫は競うように僕の顔を昇って来る。
「わぷっ」
「わっわっ! こ、こらっ!」
「いえ、別に構わないんですけどね」
寝たきりというのは、心配してくれている人には申し訳ないが、中々に暇なのだ。
こうして猫達と戯れているのは正直悪くない。
「ちょっとくすぐったいですね」
というかモフモフの毛が僕の顔や首筋を撫でており、なんだか気持ちが良い。
加えて、すぐ傍で見ていても、無邪気に僕をパンチする猫達はとても可愛かった。
「あははっ。ひゃぅっ! ちょ、ちょっとサファイア? 変な所を舐めるのは……ちょっ、胸元は駄目ですぅ……っ」
そ、それだけは困るっ。
「あぁあぁ、もう。ちょっと離れないと駄目ですよ」
慣れた手つきでイリーさんがサファイアをそっと僕の胸元から引き剥がす。
そんな様子を横目にパールが僕の頭によじ登り、ルビーが僕の頬を舐めた。
イリーさんの手元から逃れたサファイアも負けじと僕の耳元までやって来て、「にゃー」と鳴いている。
「あはは」
軽く微笑むとイリーさんがじっと僕を見つめていた。
「イリーさん? どうかしましたか?」
「へっ? あ、いえ、その……」
何か言いたげな表情で手を振るイリーさん。
その立ち姿が何だか、我慢をしているように僕には感じられた。
「……私に遠慮することなど無いのですよ?」
いつだったか、彼女にそんな事を言った記憶がある。
それをイリーさんも思いだしたのか、意を決した様子で彼女は、もぞもぞと僕のベッドに入り込んで来た。
「へっ!?」
(い、イリーさん!?)
彼女は無言でベッドに入り込んで来ると、僕の身体にしがみ付いた。
「……」
ぎゅっと力強く、小さな身体が僕の体を掴んでいる。
「る、ルビー達の真似です」
彼女はか細い声で言った。
「ほ、ほんとに心配したんですから。私だけじゃなくて、みんな、みんな……」
「イリーさん……」
「ちょっとだけでいいので……甘えさせて……下さい」
僅かに震える小さな身体。
僕はイリーさんの頭に軽く手を当てた。
そのままゆっくりと頭を撫でると、自然とイリーさんの表情が柔らかい物になってゆく。
「……はい。私などでよろしければ」
「……あったかいです」
「ふふ、そうですか?」
「……はい」
そう言うイリーさんの身体こそ温かい。
(あぁ、駄目だ……また、眠く……)
外気の寒さなど微塵も感じさせぬ温もりの中。
子猫達やイリーさんと共に僕は再びまどろみの淵へと落ちていった。
☆ ☆ ☆
シャッシャッ、と小気味良い音が室内に小さく鳴り響いている。
(あ、鉛筆……)
それはきっと鉛筆が画用紙の上を滑ってゆく音だ。
滑らかに、リズムを奏でるように。
耳の中に入って来る調べはまるで歌のようだった。
「あら……?」
僕が目を開けると、まず真っ先に視界の中に入って来たのは、ふわふわと左右に揺れつつ、時折優しく僕の鼻頭を叩く毛むくじゃら。
(この色はルビーかな)
ルビーの尻尾を避けるように顔を少しだけずらすと、案の定、ベッドの脇にはメフィルお嬢様のお姿が在った。
「ごめんなさい。起こしちゃったかしら」
「いえ、構いません」
僕にとって絵を描く時の音や匂いは、とても心地よいものだ。
それも、相手が他ならぬメフィルお嬢様であるのならば、なんの不満も無い。
むしろ最高の目覚ましだとすら言える。
「あれ……もしかして、今私達を描いていらっしゃいますか?」
「ええ。描いていらっしゃいますよ」
楽しそうにお嬢様は微笑んだ。
「貴女達があんまりにも可愛かったものだから、つい、ね」
彼女は言いながら、手元のキャンバスの中を僕に向かって見せた。
そこには子猫達に纏わりつかれながら、イリーさんと抱き合うように眠る僕の姿が在る。
「ふふふ、可愛らしいでしょう?」
僕は自分の事はさておき、子猫とイリーさんの絵を見つめながら言った。
「はい。とてもよく描けていると思います」
本当に上手だ。
でも。
「今日はそのままのお姿をお描きになったのですね」
思わずそう口にしていた。
メフィルお嬢様は現実の世界に己の想像の世界を融合させることが多い。
また、その融合の仕方があまりにも巧みであるが故に、メフィルお嬢様の絵を更なる高みへと押し上げるのだ。
「ええ。ちょっとね。余計な事をしない方が、貴女達の事をしっかりと絵に出来そうな気がしたの」
「そうなのですか?」
「私が何か特別に手を加えなくても……この光景はとても素晴らしいものだから」
そんな風に冗談めかして微笑むお嬢様。
「あ、そうだ。ルノワールお腹空いていない?」
「……そう言われると、少しばかり」
「待ってて。今何か持ってきてあげる」
え?
「えっ。あ、いやメフィルお嬢様にそのような事をさせる訳には……」
「いいの。私がしたいのよ。貴女が気にする事は無いの」
そう言って楽しそうに部屋を後にするメフィルお嬢様。
去って行く後ろ姿を見ているだけで、僅かな寂しさが胸に去来する。
「……」
(あぁ……これ本格的に不味いかも……)
駄目だ。
メフィルお嬢様が傍に居てくれた事が嬉しくて。
その彼女が去ってしまった事がひどく寂しい。
(あぁ~……っ! 僕ってば、こんな落ち着かない事でどうするの……っ!)
そんな呻き声を内心で上げていると、やがてメフィルお嬢様が再びやって来た。
「ふふっ。実はお粥を作ったのよ」
いつぞやのおにぎりを僕は思い出していた。
「も、もしかしてお嬢様の手作りですか?」
あ、やばい。
多分今の僕の声にはとても期待に満ちた感情が篭っていることだろう。
そんな僕の気持ちを察したのか、メフィルお嬢様は一層楽しそうな顔になった。
「うふふ。さぁて、どうでしょうか?」
意地悪なご主人様は、悪戯っ子の微笑みを浮かべる。
彼女は僕の顔に触れてしまいそうな程まで詰め寄って来た。
「なに? 私に作って欲しかったの、ルノワール?」
「あ……ぅ、いや、その……」
「あら、どうしたの?」
「お、おかっ、お顔がその……ちち、近い、です……」
メフィルお嬢様の端正な顔が至近距離に在る。
それだけで僕の心臓は早鐘を打つ。
今の僕の顔は一体どれほど赤い事だろう。
「ふふ。私も手伝ったけど、ね。これを作ったのはシリーよ。だからきっとちゃんと美味しいわ。私一人じゃ、多分分量を間違えちゃうもの」
「そ、そんな御謙遜を」
「あはは。でも今回教えてもらったからね。今度私一人で作ったお粥を貴女に食べさせてあげる」
「それは……とても嬉しいですね」
僕は本心から言った。
なんて光栄な事だろうか。
メフィルお嬢様の手料理は、多分この世で一番美味しい。
少なくとも僕にとっては。
「よいしょ、っと」
すやすやと眠るイリーさんを起こさぬように気をつけつつ、僕は上体を起こした。
お嬢様が左手に持った器の中では、真っ白なお粥が湯気を立てていた。
「考えてみれば、昨日から何も食べてないですね」
「ふふ。ずっと寝ていたものね。お腹空いたでしょう?」
「……はい。お恥ずかしながら」
「お恥ずかしくなんてないでしょうに」
彼女はそっとお粥をスプーンで掬うと楽しそうに言った。
「ほら。あ~ん」
……。
「へっ!?」
お、おお、お嬢様は一体何を!?
「ほら、口を開けなさい」
「へ、いや、その、じ、自分で食べられますよ?」
「そうは見えないけど……」
「……ぇ?」
「だって、ほら貴女の手……」
「ぁ」
よくよく見ればイリーさんが、がっしりと僕の腕を握っている。
これでは自分の腕は動かせない。
「ほら。あ~ん」
お嬢様はとってもとっても楽しそう。
だけど僕はとってもとっても恥ずかしいです。
「あぁ……うぅ……」
「……こ、こら。冷静になると私も恥ずかしいんだから、その……」
「あっ、いや、そのすいません」
「い、いいけど」
ええい、男は度胸!(?)。
「あ、あ~ん」
ま、まさか僕がラトのような事をするなんて。
「どう? 美味しい?」
もぐもぐと咀嚼し、お粥を呑み込む。
「とても美味しいです」
「そっか。それは良かったわ」
「はい」
「はい、じゃあ。あ~ん」
「あ、あ~ん……ってこれやっぱり恥ずかしいですぅ……」
うぅ……お顔から火が出てしまいそうです。
「うふふっ」
というかお嬢様の頬もほんのり赤い。
彼女も何だかんだで結構恥ずかしいのだろう。
「なんだかね。あの時のおにぎりもだけど。ルノワールの気持ちが少しだけ分かるわ」
「えっ?」
「こうやって……今回は手伝っただけだけど。自分が作った料理を誰かが美味しそうに食べてくれる、っていうのは……なんていうか、その、いいわね」
「……はい。とても嬉しいですよね」
「ええ、とても」
穏やかな昼下がり。
僕は幸福感に包まれたまま、再び眠りに付いた。
☆ ☆ ☆
(ひゃ、ひゃ~!)
実はこっそりと起きていたイリーはドキドキと高鳴る鼓動を抑えつつ、ルノワールにしがみついていた。
(ら、らぶらぶな雰囲気です~……っ)
ルノワールとメフィルの纏う雰囲気に立ち入る事など出来ず、イリーは僅かに緩む頬と、熱くなった体温を誤魔化す様に、一層強くルノワールの腕を抱きしめていた。
「……?」
ぎゅっと閉じていた瞳をそ~と開けると、いつの間にか目の前にやって来ていたルビーがじっとイリーの事を見つめている。
ルビーは不思議そうな顔で小首を傾げながらイリーに向かって眠そうに一言「にゃあ」と鳴いた。