第百六十八話 白光 vs. 黒光 Ⅵ ~白光の導き~
ルノワールはまるで聖母の如き表情で、しっかりと。
イゾルデの身体を抱きしめていた。
止めどなく流れる血を気にする事も無く、彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「ねぇ……イゾルデ」
同じロスト・タウンで生まれ育ち、この世の地獄を体験してきた者だからこそ。
きっとイゾルデにだって気持ちが通じると信じた。
「私も……ずっと人間は醜くて汚い物だと思っていました」
「……ぇ?」
「どうしようもない程に救いなんてなくて。毎日が苦しくて。この世はなんて残酷なんだろう、と。そう思っていました」
あの街で生まれ育った人間。
とりわけ幼少期を過ごした子供達は程度の差はあれ、誰もが似た様な心境に陥る。
「でも、ね。でも、それだけじゃなかったんだ。この世は自分が思っているよりも、ずっと広かった」
そう、あの日。
あの日、マリンダ=サザーランドと出会い――世界は見違えるほどに変わって見えた。
「私が思っていたよりもずっとずっと……この世界は広くて、知らないものばかりで……思っていたよりもずっとずっと……美しかった」
篭っているだけでは分からなかった事。
それを経験としてルノワールは学んだ。
「この世の中には……やっぱり酷い人もいる。イゾルデが言うように、醜い魂だってあると思う。だけどそれだけじゃない。人間は誰だって醜い一面を持っているものなんだ」
「貴女は……貴女はいつも綺麗だわ」
「あははっ。そう言ってくれるのは嬉しいな……でも、誰でも醜い側面を持っているのと同じように……誰もが光り輝く一面も持っていると思うんだ」
この世はその人の見方で様々な色を見せる。
ほんの少し。
ほんの少しだけ視点を変えるだけでも、驚く程変わってしまうものなんだ。
そしてそれはきっと心も同じ。
ルノワールは口にはしなかったが、イゾルデが人間全ての魂を醜く感じていたのは彼女にも問題があったのだと思っている。
もちろん本当に醜い魂も多いのかもしれない。
でも、それだけじゃない。
イゾルデは誰に対しても威圧的に接する女性だ。
しかも強大過ぎる力を持った女性だ。
故に。
イゾルデの前では、人々はきっと『恐怖』を感じるのだろう。
逃げ出したくなる衝動。
それらが美しい『魂』の輝きに結びつくとはルノワールには到底思えなかった。
「この世が……綺麗だなんて……」
やはり頭を振るイゾルデ。
「信じられない?」
そんな彼女に優しくルノワールは問いかけた。
「……」
「分かるよ。私も信じられなかった」
しかしそう言ってルノワールは微笑んだ。
言葉だけでイゾルデの気持ちを変える事なんて出来ない。
一足飛びにはいかない。彼女は今までの人生で苦しみ続けて来たのだ。
「だから、さ」
そこでとびきり優しい表情、声色になったルノワールが言った。
「一緒に探しましょう」
「……ぇ?」
より力強く。
ルノワールは抱きしめる手に力を込めた。
「私だって……すぐに変わった訳じゃありません。長い時間が掛かりました。イゾルデが信じられないというのならば。知らないというのならば。私が教えてあげます」
「……」
「私が美しいと感じた物を。好きだと胸を張って言える人達を。誰もが持っている筈の……優しい心を」
「……」
「すぐには理解出来ないかもしれません。だけど」
そう。
だけど。
「私は世界の美しさを知っているから。どうかイゾルデにも知って欲しい」
人間は醜いから、と。
世界を憎み、絶望するばかりの人生で終わって欲しくは無い。
誰かを厭い、悲しみに暮れるばかりの人生なんて……そんなのは寂し過ぎるから。
「……ゾフィー」
震える声でイゾルデはルノワールの名を呼んだ。
「私にはやりたい事があります。イゾルデには何かやりたい事がありますか?」
「……貴女と、一緒に」
「ふふ、私じゃなくて。貴女自身がやりたい事ですよ」
「私……自身……?」
答えられぬイゾルデに、ルノワールが続けた。
「無いのならば……それも一緒に見つけましょう」
きっと見つかる。
イゾルデにだって。
きっと、必ず。
「私は外の世界でやりたい事がたくさんあります。だからロスト・タウンに篭っている訳には参りません」
「……」
「でも、だからといってイゾルデと一緒に居るのが嫌な訳じゃありません」
「え?」
支配するとか、支配されるとか。
そんな関係性じゃなくて。
もっと自然で、もっと当たり前の関係。
でも、イゾルデはそんなものを知らないから。
ならばそれも僕が教えてあげよう。
誰かと一緒に居たいと願う時。
まず、僕達はこう言うんだ。
「ねぇ、イゾルデ」
ルノワールはとびきりの笑顔を浮かべて、茫然と瞬くイゾルデの顔を見つめる。
「私と……友達になっては頂けませんか?」
そう言って微笑むルノワールの姿。
対面するイゾルデの頬からは静かにゆっくりと。
一筋の雫が零れ落ちていた。
(あぁ……やはり貴女は――)
それはまるで本当の天使のよう。
イゾルデには何にも勝る天上の光の如く輝いて見えていた。
☆ ☆ ☆
イゾルデが答えようと口を開きかけた直後。
ルノワールの全身はふらつきながら後ろに向かって傾き、地面に倒れ落ちた。
「……ゾフィー?」
微かな呟きを洩らすイゾルデ。
彼女の眼前には、仰向けに倒れ、淀みなく血を流し続ける愛し子の姿が在った。
「ルノワール……っ!!」
「ちぃっ!」
一目散にマリンダとユリシアが傍まで駆けつけ、ルノワールの傷の具合を確かめる。
「ユリシア、こいつは……」
「焦らないで、マリンダっ!」
「うっ……すまん」
見る見るうちにユリシアの顔色は悪くなってゆく。
控えめに言っても、ルノワールの具合について、良い情報が見つかったとは思えない。
「いや……いやよ、ゾフィー……」
一人呆然と立ち尽くすイゾルデは虚ろな眼差しでルノワールを見下ろしていた。
「……ぁぁっ」
そして。
苦悶の表情を浮かべたかと思うと、再び彼女は頭を押さえ始める。
得も言えぬ頭痛がイゾルデを襲い、彼女の自我を浸食する。
またしても黒い光が沸き上がろうとした――その時。
「しっかりしなさいっ!!」
叱咤の声と共に、イゾルデの頬を張る音が鳴り響いた。
「……」
叩かれた頬に手を宛がいながら、イゾルデは茫然と相手を見る。
それは眦に涙を滲ませたメフィル=ファウグストスだった。
「ルノワールが誰の為に頑張ったと思っているの!!」
「……」
「貴女の為でしょう!? この子は貴女の為に身体を張っていたんでしょう!? だったら……その貴女がそんな体たらくでどうするの!!」
よもやこのような少女に叩かれた経験などイゾルデには今までに一度も無い。
どう反応してよいのか分からずに居るイゾルデを諭すようにメフィルは続けた。
「しっかりしてよ。じゃないと、この子は何のために……」
涙声で言うメフィルの言葉を聞いて、思わず。
イゾルデは小さく呟いた。
「ごめん、なさい」
特に彼女は意識していた訳ではない。
しかしイゾルデの謝罪が余程意外だったのか、その場に居た面々は目を丸くしていた。
「不味いわよ、これ。今すぐ治療しないと」
流石に焦燥の色を滲ませた表情でユリシアが呻くと、マリンダは親友に問う。
「ここでいいのか!?」
ユリシアは既に可能な限り洗浄し、ルノワールに対して治療用の魔法薬を飲ませているが、ここまでの傷ともなると、薬だけではどうしようもない。本格的な手術が必要だ。
イゾルデの魔術による傷であることを踏まえれば、もっと精査に状態を確かめたい。
「いえ、出来ればわたしの屋敷で……でもそんな時間は……っ!」
その言葉を聞いて。
「私が運ぶわ」
短く一言。
イゾルデがそう言った。
「あぁ!?」
だが喧嘩腰で立ち上がったマリンダが眼光だけで人を殺せそうな程の迫力でイゾルデに詰め寄る。
「貴様がやったんだろうが!! それを信じられるとでも思うか、あぁ!?」
「ちょ、ちょっとマリンダっ!」
「この子を助けたい。それは私も同じ」
しかし流石にそこはイゾルデ。
並の人間ならばマリンダの剣幕にたじろぎ、息も出来なくなるだろうが、彼女に頓着した様子は無い。
「でも、運ぶと言っても、どうやって?」
ユリシアが尋ねると彼女は小さく呟いた。
「この子の力を借りる。私はこの子の『転移』が使える」
「何……?」
これにはマリンダも思わず黙りこんだ。
確かにルノワールの移動の負荷を考えれば、『転移』こそが理想的な移動手段と言える。
「……本当に出来るんだろうな?」
「出来る。それが私の力」
今にも泣き出しそうな表情でイゾルデがルノワールを見下ろす。
「この子が助かる可能性が最も高い方法をとる」
「……」
未だに不審げな表情でイゾルデを見ていたマリンダを制するようにユリシアが言った。
「マリンダ……今は信じましょう」
「余計な事をすれば、殺す」
「構わない」
実際に今の消耗したイゾルデならば、マリンダを相手にするのは分が悪い。
はっきり言って、ユリシアの屋敷はイゾルデにとっては敵の本拠地だ。
イゾルデの立場を考えれば、マリンダとユリシアに殺される可能性だってある。
「今すぐ転移する。この場にいる人間を連れていけば良い?」
「ええ。お願い。わたしの屋敷の場所は――」
「知っている。ここからだと何度か『転移』する必要が在る。私はゾフィー程上手には出来ないから、手を離さないで」
その言葉を最後に。
メフィル達一向はミストリア王立学院から姿を消した。
4章完結まで、今日から連日投稿致します。