第百六十五話 白光 vs. 黒光 Ⅲ ~螺旋と巨人~
常人には何が起きているかも分からないだろう。
二人の超常の魔術師同士の戦闘は熾烈を極めていた。
縦横無尽に世界を駆けるルノワール。
その速度は、まさに雷光の如し。
転移など無くとも彼女のスピードは人々の知覚を置き去りにした。
閃光を使ったユリシアにも迫る程の速度でイゾルデの黒腕を回避し、いなし、時にはイゾルデの背後を取って必殺の一撃を加えようとしていた。
幼少期より磨かれて来た少年の身体能力において、最も優れていたのは、この『速度』だ。
これだけは早い段階からマリンダにも認められていた。
魔術の側面で言えば、『防御』に傾倒している彼女の適性を考えれば、ルノワールは『速度』と『防御』に秀でた魔術師であると言える。
この点で言えば、『攻撃』に特化したマリンダやイゾルデとは相反している魔術師だった。
主人や友人を護る必要が無くなった以上、ルノワールがその速度を活かさぬ理由が無い。
彼女は巧みに戦場を駆け抜け、イゾルデを撹乱していた。
「っ!! この……っ!?」
イゾルデは圧倒的な魔力量に物を言わせ、攻撃範囲でカバーしているが、それでもルノワールの速度についていくことが出来ずにいた。
彼女が攻撃を放っても、そこには螺旋法によって渦巻く白い光の残滓が残っているのみだ。
とはいえ決め手に欠けているのはルノワールも同じであった。
彼女が攻撃を仕掛けようとしても、深淵を思わせる暗黒の魔力の塊がイゾルデを護っている。
今や本気のイゾルデに一度捕まれば、無事では済むまい。
それは武装結界・螺旋を身に纏うルノワールにとっても脅威となっていた。
「ゾフィーっ!」
「くっ!?」
基本的に魔術師同士の戦いでは、やはり魔力の大小が勝負の明暗を分ける事が多い。
その点で言えばルノワールはイゾルデに大きく後れを取っているだろう。
彼我の魔力量の差は明らかである。
また、長年蓄積されてきた戦闘経験でもイゾルデに軍配が上がるだろうし、奥の手の特殊性を考えても、やはりイゾルデの方が上手だと言える。
しかし。
ルノワールとイゾルデを比較した際に……ただ一点。
明らかにルノワールの方がイゾルデに勝っている部分が在った。
「はぁぁっ!!」
細腕が撓り、霞む程の速度でイゾルデに迫る。
渦巻く白光が暗黒に絡みつき、抉り込むように黒衣に吸い込まれていった。
すかさず防御姿勢を取ったイゾルデに防がれるが、それはルノワールの想定の内だ。
流れるような動作で、彼女は身を沈め、イゾルデの足元を攫おうと右足のローキックを繰り出す。
さしものイゾルデも魔力を集中させなければ、武装結界・螺旋状態のルノワールの攻撃は防げない。
魔女はルノワールの蹴り足も防ごうと魔力を移動させたが、次の瞬間にはルノワールは微かに身を引き、蹴り足の勢いそのままに身体を回転させ、イゾルデの背後を取りつつ左足の上段後ろ回し蹴りを放っていた。
一瞬の内にして重心をずらし、重みのある一撃をイゾルデに叩きつけるルノワール。
ルノワールの流れるような連撃に対して、僅かに防御が遅れたイゾルデの背中に、強かに蹴り足が直撃した。
「……ぐっ! ちぃっ!!」
ルノワールの攻撃は途中で威力が減衰されたために、イゾルデが受けたダメージは然程ではない。
(通った……っ!)
しかし、この瞬間、ルノワールの中には確かな手応えが在った。
ルノワールの攻撃がイゾルデに僅かとはいえ、痛手を与えたのだ。
これは彼女にとっては初めての事であった。
(イゾルデだって……無敵という訳じゃない)
無論、無尽蔵の魔力に加えて、強大無比な禍々しい力は末恐ろしい程だ。
だがイゾルデは――。
(彼女は――体術が稚拙だ)
そう――体術。
この点だけは明らかにルノワールの方がイゾルデに勝っていた。
それはドヴァンにもマリンダにも存在しない稀有な弱点であるかもしれない。
基本的に戦闘能力に秀でた魔術師は、魔術同様に武術の鍛練も併用している場合がほとんどであり、体術も非常に優れている場合が多い。
体術に優れていないと、戦闘魔術師としての『壁』を超える事が出来ないからだ。
いずれ限界が訪れる……『普通』ならば。
もちろん、イゾルデとて長年に渡り修羅場を生き抜いてきた女だ。
並の魔術師と比較すれば十分すぎる程の体捌きが可能であるが、それはルノワール程のレベルではない。
(力が在り過ぎるが故、なのかな……)
恐らくイゾルデには、必要が無かったのだ。
彼女は体術など磨かなくとも、その圧倒的なまでの魔力・魔術に物を言わせるだけでいい。
それだけで、世の中のほとんどの生物は彼女に逆らえない。
ほとんどの生物をひれ伏せさせる事が出来る。
それぐらい目の前の魔女の魔力は常軌を逸しているのだ。
「はぁ……はぁ……っ」
微かな光明を見たルノワール。
とはいえ、ルノワールとて、いつまでも武装結界・螺旋を維持出来る訳ではない。
確かに手応えがあったが、現状のペースではジリ貧だ。
と、その時。
「ゾフィー……ゾフィー……」
虚ろな眼差しでゾフィーの名を呼ぶイゾルデ。
彼女の様子が少しだけ変化した。
ぼんやりと焦点の定まらぬ眼が宙空を見つめながら、独り言のようにゾフィーの名を呼び続けている。
それには構わずにルノワールは次なる攻撃を仕掛けるべく、腰を落とした。
(なんとか……反撃の一手を)
そう模索しようとルノワールが思考を巡らせた時――。
「うふふ……あははぁ……」
イゾルデがあの、己だけが見えている世界を見ているかの様な、妖しい瞳を細め、その表情に艶美な微笑みを浮かべた。
気付けば魔女の全身からどす黒い、どこまでも光を呑みこんでいく様な暗黒が噴出された。
そうして世界が再び――暗黒に染まった。
「……ぇ?」
一瞬の変容。
瞬く間に視界全てを覆い尽くす程の黒い光が魔女の全身から放出された。
ルノワールの白の魔力を覆い尽くし、ユリシアの桜色の魔力を押しつぶすように、イゾルデの黒が周囲を呑みこんでいく。
晴れやかな太陽は見る影も無く、黒い空模様が妖しく学院に留まらず、アゲハを彩る。
禍々しい漆黒の魔力の影響で、大地が鳴動し、空が黒く染まっていった。
「これは……っ」
ユリシアが焦り顔で空を見上げ、次いでイゾルデに目を向けた。
そして――あの『瞳』が現れた。
爬虫類を思わせる恐ろしく、巨大な瞳。
イゾルデの生み出した黒色の瞳に、更なる魔力が注がれてゆき、次第に形を変えていった。
(いや、違う……何か……生えて……)
見る見るうちに瞳から無数の黒腕が生まれ出で、更にどんどんとイゾルデの魔力を吸収し、巨大化してゆく。
黒腕が絡みつき、群れ、蠢き、まるで一つの生物のように鳴動していた。
いや、違う。
まさにそれは――一つの『生物』になった。
「なに……っ! これ……っ!?」
思わず漏れた呟き。
さしものルノワールも驚愕に目を見開き、『ソレ』を見上げていた。
「黒い……巨人……」
目前にはイゾルデの魔力で生み出された巨大な体躯を誇る黒い巨人の姿が在った。
☆ ☆ ☆
それは禍々しい姿をしていた。
無数の黒腕が体内で蠢いているのが外側からでもはっきりと分かる。
あの爬虫類を思わせる不気味な瞳が巨人の頭部に収まり、ルノワールを見下ろしていた。
黒き一つ目の巨人。
その姿はサイクロプスに似ているが、発する迫力は比べ物にはならない。
まるでイゾルデの心の中に住まう歪みを具現化した様な禍々しさがあった。
「ふふ……ふふふっ」
地面を向いたまま妖しく微笑むイゾルデ。
その様だけを見れば隙だらけに思えるも、ルノワールはイゾルデに向かっていく事は無かった。
ただ巨人の姿を注意深く観察している。
巨人はイゾルデの『力』を更に凝縮したような威圧感が在った。
そして――巨人が動く。
「っ!!」
ギョロリ、と。
音がしそうな程の素早さで巨人の瞳が蠢き、その焦点がルノワールを捉えた。
直後、巨人はその体躯からは想像も出来ない程の速度で、巨大な腕を振りまわした。
「ぎゅがあああああああああああああああっっ!!」
生命を圧殺せんばかりの悲鳴にも似た大音声が響き渡る。
声を聞いた者は、一様に身を震わせ、大地に膝を付いた。
在る者は茫然と天空を見上げ、在る者は泣き叫び、在る者は気を失った。
「ぐぅっ!?」
武装結界・螺旋状態のルノワールの全力の防御。
それであっても、彼女の体の芯まで震わせるだけの威力が在った。
「くっ、これっ……!!」
防いだ巨腕から更に無数の腕が這いより、ルノワールを攻め立てる。
武装結界で小さな黒腕を弾き飛ばすも、続けざまに巨人の腕が迫った。
(くっ! なんで、身体が……っ!?)
しかも身体が十全に動いてくれない。
巨人のあの『瞳』の力か。
かの巨人は大きさに似合わず、機敏にルノワールに連撃を繰り出した。
まさに――圧倒的な力。
「ぐっ! ぐ、ぐぅ……っ!!」
次第に押し込められてゆくルノワール。
彼女の顔にも次第に焦りの色が広がった。
(不味い……不味い、このまま、じゃ……っ!!)
この規模の攻撃ともなるとユリシアであっても完全に防ぐ事は出来ないだろう。
かろうじて武装結界・螺旋ならば対抗できるが、このままではミストリア王立学院にも甚大な被害が齎される恐れがある。
だが。
「しま……っ!?」
周囲の事など考えている余裕など――在る筈が無かった。
拳にばかり気を取られていたルノワールを狙って巨人の蹴り足が迫っている。
しかし上空から巨人の腕に押さえつけられているルノワールは動く事が出来なかった。
「ぐっ! このぉっ!!」
必死に全身に力を込めて、巨腕を押し返すも、僅かばかり、一瞬だけ――後れを取った。
「ゾフィーっ!!!」
「っ!!」
眼前に迫る巨大な黒い足。
回避?
間に合わない。
ならば――ならば。
(っ!! 防いで見せる……っ!!)
丹田に力を込め、覚悟を決める。
ここで終わるつもりなど無い。
己は主人を守護する者だ。
ルノワールは今日最大の魔力を込めて、螺旋の鎧を渦巻かせた。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!」
「あっははははぁっ!!」
巨人が螺旋を呑み込む。
「今こそ――貴女をこの手にぃぃっ!!」
狂気の形相で吠えるイゾルデの声を最後にルノワールが覚悟を決めた――その時。
戦場に――紅蓮の風が吹いた。
「ぇ……?」
自分の眼前に迫っていた筈の黒い足が穿たれ、代わりに紅の光がルノワールの瞳に焼き付けられた。
イゾルデの魔力にも匹敵する程の超常的な魔力が爆発的なまでに広がってゆき、彼女の腕に装備された魔法具『暁』が眩いまでの輝きを放ちながら唸りを上げた。
そして――。
「……『紅牙』」
短い呟きと共に奥義が放たれた。
獅子を思わせる形を伴った紅の魔力が世界を彩る。
放たれるは最強の一撃。
彼女の右腕が巨大な顎と化し、黒き巨人を呑み込んでゆく。
「おおおおおおおおっっ!!」
「ぎゅぐるあああああああああっ!!」
彼女と巨人の咆哮が木霊し、そして――。
紅の牙が黒き巨人を――喰い破った。
唸る『暁』、震える右腕を必死に抑えつけながら、彼女は悠然と振り返る。
「ふん――遅くなったか?」
それはルノワールにとって何よりも安心する声だった。
それはルノワールにとって何よりも心強い声だった。
誰よりも強く、気高く、媚びず、屈せず、己の信念の為に走り続ける女性。
その背中を追って――ルノワールはここまで来たのだ。
「マリンダ……」
やっぱり生きていた。
死ぬ事なんか在る訳が無かった。
ミストリア王国が誇る最強の魔術師。
紅の髪を靡かせたマリンダ=サザーランドが、楽しげに微笑んでいた。