第百六十三話 白光 vs. 黒光 Ⅰ ~黒衣再来~
「ぐっ!!」
白い手の平。
赤紫色に塗られたネイルの隙間から、スレッガーの血が僅かに滲んでいた。
「どこへ行ったの!!」
焦燥の表情で彼女――イゾルデは、目の前の男の首を締めあげる。
「ゾフィーは……あの子は……どこに……っ!!」
居なくなった。
居なくなってしまった。
またしても。
折角……折角取り戻したというのに。
出て行く素振りなんて無かったのに。
どれだけ探してもあの光を、輝きを、感じる事が出来ない。
「知っているんでしょう、貴方は!!」
ぎりぎりと死なない程度にスレッガーの首に次第に力を込めてゆくイゾルデ。
その膂力は人外の魔力に支えられており、華奢な見た目からは想像も出来ない程の圧倒的なパワーを伴っていた。
イゾルデを除けば、ロスト・タウンでも並ぶ者が居ない程の猛者であるスレッガーであっても、抗う事は出来なかった。
「ぐ、くくっ。はは」
「何が可笑しい!?」
苛立たしげに彼女は吠える。
スレッガーの苦悶の表情を見下ろしながら、その瞳を覗き込む。
よもや自分が利用価値があるから、と。
殺されないとでも考えているのか。
「……いや、なに」
いや、そこまで愚かな男ではないだろう。
そんなに甘い男ではない。
「そんなに大切なら……もう少し素直になればいいのにな、と思ってな」
「いいから、さっさと……」
この期に及んでも、笑みをこぼして見せる男に更なる一撃を見舞おうとした時。
「お嬢様、って奴の所に行ったらしいぞ」
ようやくスレッガーはそれだけを告げた。
「別に俺だってイゾルデと敵対したい訳じゃない。あいつもお前に内緒にして欲しい、なんて一言も言ってないしな」
「お嬢様……? それ、って……」
脳裏に一人。
イゾルデに思い当たる少女の姿が在った。
「あいつにとって大層大事な人がいるらしいじゃねぇか。俺は知らないがアゲハってのは綺麗な所なんだってな?」
ゾフィーが甲斐甲斐しく護衛を務めていた少女。
「ファウグストス……あの女か……っ!」
ゾフィーに配慮して、殺さなかったが、やはりあの時に始末しておくべきだったか。
しかし今更考えたところでもう遅い。
知ったのならば、この街に居座る理由などは無い。
「おい、イゾルデ……っ」
黒衣の魔女は、一目散にロスト・タウンを飛び出した。
☆ ☆ ☆
夕空が不可思議な闇に覆われ始める。
「ルノワール、これ……っ」
「よりにもよって……」
学院の放課後。
学院敷地内の中庭を歩いていた時のことだ。
今から帰宅しようという矢先、近頃ルノワールにとっては、もはや馴染みともなっていた魔力を感じた。
ミストリア王立学院にとっては迷惑この上ないだろうが、イゾルデがそのような配慮をしてくれる筈も無い。
先程まで王宮でのユリシアとゴーシュ王とのやり取りを聞いていた学生達であったが、もはやそんなことが頭から抜け落ちてしまう程の異変が巻き起こっていた。
茜色は黒色に浸食されていき、肌を刺す強烈なプレッシャーが生徒達に襲いかかる。
何事かと空を見上げるミストリア王立学院の生徒達の顔は一様に蒼褪めていた。
「お嬢様……私のお傍を離れぬようにお願いします」
イゾルデの狙いは間違いなくルノワールだ。
故にメフィル達は自分から離れた場所へと避難させることも考えた。
しかしイゾルデの力は強大無比であり、広範囲に及ぶ影響力を考えると、己の目の届かぬ所に彼女を移動させることの方が恐ろしい。
今ならば、まだ転移で逃げる事は可能である。
(でも、それじゃ……何も解決しない)
今逃げ出したとして、学院が無事に済む保証も無い。
僕は校門をぶち破り、ゆっくりとこちらに向かって来る黒衣の魔女に目を向けた。
学院の警備員など彼女にとっては障害にすらならない。
イゾルデは遠目に僕に目を向けると、その口元に微笑を浮かべる。
しかし、その瞳は笑っていなかった。
「まったく、悪い子……」
これだけ距離が離れているにもかかわらず、誰よりも美しい響きを伴ったイゾルデの声は、不思議なまでに明瞭に聞き取る事が出来た。
「私の傍を離れるなんて……駄目じゃない」
言葉が放たれる度に、彼女の魔力も増幅してゆく。
ミストリア王立学院に闇が落ちる。
同心円状に放射される、余りにも強大な力の波動が生徒達から平静さを奪い、その心に恐怖の色を植え付けた。
その場にいるだけで異質。
その他を寄せ付けぬ孤独。
ただその邪悪さと魔力のみが彼女の全てであるかのようだった。
☆ ☆ ☆
「……」
無言で腰を落とし、傍らのお嬢様を庇う姿勢を保つ。
その時、メフィルお嬢様が僕の手の平を一度、ギュッと握り締めた。
横目で彼女の様子を窺う。
お嬢様の顔に浮かんでいるのは、僕に対する信頼と恐怖。
交じり合うのは相反する感情だ。
揺れる彼女の瞳を安心させてあげたくて。
僕はなるべく優しく、それでも力強く。
彼女の手の平を握り返した。
一足飛びに距離を詰められる位置にまでやって来たイゾルデは楽しげに僕を見つめていた。
「……何故、逃げ出したの?」
イゾルデの朗々たる声が響く。
「……私には、やりたいことがあります」
僕は彼女の鋭い眼光に負けないように、固い意志を持って言った。
「……」
「それは、あの街にいるだけでは……決して叶わない」
あの街の現状を変える為にスレッガーに協力するのは一向に構わない。
あの街で辛い想いをする子供達を救うために尽力するつもりもある。
でも、僕はあの街以外の世界を知ってしまった。
このミストリア王国には、余りにもたくさん大切な物が出来てしまった。
僕を迎えてくれる、支えてくれる人々。
まずはその恩に報いるためにも、ミストリアを救いたい。
その上で彼らと共に歩みたい。
そして僕は。
何よりも。
「私は……メフィルお嬢様の傍に……居たい」
そう告げると、イゾルデの顔から笑みが消えた。
「そう……」
一度手の平で目元を覆ったイゾルデ。
彼女はしばらく黙考するように、瞳を閉じていた。
やがてその手が震え始める。
「そう。そう。そう……ゾフィー、貴方は……」
突如、ピタリと手の動きが止まり、彼女の気配が一瞬だけ和らいだ。
だが次の瞬間――。
「私の傍には……居てくれないのね……」
寂しげに呟き――その力が解放された。
「来ます!」
僕は全身に力を込めた。
最初から全力。
手加減などする余裕は微塵も無い。
そして、あの時とも違う。
もう――イゾルデに怯えるばかりの僕では無い。
立ち上った白光がイゾルデの黒光と衝突し、空中で弾けて消えた。
「だったらもう力づくよ……そうよ、今までだって……そうしてきたのだから!!!」
☆ ☆ ☆
爆発的な力の奔流。
荒れ狂う暗黒の力が無造作に撒き散らされ、無数の黒腕が生み出される。
イゾルデの気性、内面を映し現すかの如き、腕が唸りを上げてルノワールに襲いかかった。
「はぁっ!!」
気合と共に無数の結界を生み出すルノワール。
彼女の発生させた結界がイゾルデの黒腕とぶつかり合う。
周囲一帯に激しい衝撃が吹き荒れ、その余波によって学院の中庭は無残な有様となったが、対峙している二人は目もくれなかった。
大地から気味悪く生み出される黒腕、そして触手の如き、黒い帯が宙空を走る。
ルノワールは結界だけでなく、鍛え上げられた武術で持って、その攻撃を見事に捌いてゆく。
今の所は攻防は一進一退。
互いに様子を窺っている段階であった。
「……」
無言で攻撃を繰り出すイゾルデはじっとルノワールを見ていた。
その美しい魂の輝きに目を細めつつも、その輝きが己の手中に無い事に、言い知れない苛立ちと悲しさを覚える。
ルノワールの表情は決意に満ちており、以前アゲハの街で対峙した時のように自分の言葉を聞いてくれないだろう、と感じた。
(あくまでも抵抗するのならば……)
冷静に。
勝ちの目を探るイゾルデの視線が僅かにぶれた。
ルノワールの背後。
戦いの行く末を見守っている少女に目を向ける。
メフィル=ファウグストス。
以前は、ゾフィーが大事にしている少女だというので、命を取る事は無かったが、こうなると彼女が居る限り、ゾフィーは己の物には決してならないだろうという予感が、イゾルデにはあった。
あの女さえ――いなければ。
「あはははぁっ」
不気味な笑みを洩らしたイゾルデの全身から再び魔力の波動が噴射されてゆく。
黒腕、触手に続き、あの爬虫類を思わせる『瞳』が顕現した。
恐ろしい暗黒の魔力を纏い、それでいて、赤とも橙色とも取れない奇妙で巨大な『瞳』がルノワールとメフィルに向けられる。
「あっははははっ!!」
大笑と共にイゾルデの生み出した瞳が不可思議な光を放ち始めた。
途端にルノワールの全身から力が抜けてゆく。
以前の戦いでは、ルノワールはメフィルの言葉で持ち直した。
しかし、今回の攻撃対象はルノワールだけではない。
「うっ……はっ! ……ぁ」
メフィル=ファウグストスが、ルノワールの結界内に居るにもかかわらず、瞳の力の影響を受けたのか、思わず蹲った。
ルノワールとて謎の心身を圧迫する『瞳』の力に苦悶の表情を浮かべていたが、その顔付きが明らかに焦燥に彩られる。
メフィルを護る様に、リィルが、カミーラが、マルクが、クレアが、一斉にメフィルの眼前に立ち、彼女の前に可能な限りの魔力を集中させていた。
なるほど、確かに多少はメフィルの苦しみは軽減するかもしれない。
しかし力の差は歴然だ。
如何に優秀な学生達とはいえ、イゾルデの攻撃に抗せる筈も無い。
「お嬢様……っ!?」
さしものルノワールにも一瞬の隙が出来た。
それは、超越者と呼ばれる戦士達の戦いの中では致命的とも言える隙であった。
「あはははっ!!」
笑みと共に、イゾルデの魔力がルノワールの全身を包み込む。
「ぐっ!?」
咄嗟にルノワールは抵抗を試みるが、一瞬、動きが止まれば、それで良いのだ。
イゾルデはすかさずに、己の手の平をメフィルに向けた。
「メフィル=ファウグストス……お前さえ……いなければぁっ!!」
咆哮と共に、莫大な力が迸る。
放たれた暗黒の光が真っ直ぐに突き進み、ルノワールがメフィルを護る為に展開していた結界を撃ち破った。
威力は減衰されたが、それでも勢いは止まらない。
この一撃が直撃すれば、メフィルの命はあっけなく終わりを迎えるだろう。
ルノワールの眼前でメフィルに迫る破滅の光。
しかしルノワールは泣き叫ぶ事も、混乱し取り乱す事も無かった。
何故ならば……彼女は感じていたからだ。
とても力強い、頼りになる背中がやって来る、と。
自分の親友が助けに来てくれる事を。
ルノワールは信じていた。
イゾルデの攻撃がメフィルに触れる――その直前。
世界に――桜吹雪が舞い踊った。
轟音と共に黒色のイゾルデの攻撃と弾け合う桜色の粒子。
よくよく見ればそれは本当の桜ではない。
色鮮やかな桜色の魔力光の残滓が中空で舞うように、ゆらゆらと揺れているだけだ。
その桜吹雪の最中。
気付けば突如として天空から舞い降りた人影が、イゾルデの攻撃を受け止めていた。
受け止めた人影の全身からは、桜色の魔力光の輝きが溢れだし、黒色の光と交じり合い、弾けて消えてゆく。
「ちぃっ!!」
止められたイゾルデは苛立たしげに眉を顰めたが、対する女性は勝ち誇る様に微笑んだ。
「ふふん。たまにはわたしも格好良い所を娘に見せなくちゃね」
そう言って彼女は背後に居る愛娘に視線を投げ掛け、可愛らしくウィンクをした。
しかし次の瞬間には、彼女は挑む様な視線をイゾルデに向けている。
「さて、と。わたしの可愛いメフィルに手を出した報いを受けてもらいましょうか」
日頃は全く見せる事の無い妖艶で好戦的な微笑み。
ユリシア=ファウグストスが毅然とした態度で戦場に舞い降りた。